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音/匂い/追憶

作者: 山科晃一

ヘリコプターがドタバタドタバタと飛んでいる。電車がシュシャ―シュシャ―と過ぎていく。建設業者がキンキンキンと金属部品を叩いている。タバコの煙の野暮ったいフレーバー、新しいデスクのヒノキの香り、コーヒーの湯気に漂うアロマ。1R7.5畳の部屋で私は他者によって提示された言語に出逢った瞬間から聴覚と嗅覚を研ぎ澄ます。私に選ばれなかった音や匂いの小さな表明を知覚し、小さな部屋から世界が拡大されていく。私の肉体はPCに向き合ったまま、聴こえていない音を、嗅いでいない匂いを探しに追憶の旅に出る―あれは―それは―コン、、コン、、コン、、ミシシッピアカミミガメのサラが水槽をよじ登ろうと、ガラスを引っ搔いては滑って甲羅が水槽にぶつかっている。2週間に1回の水替えをサボったせいか、苔が生えて緑色になった水からは生臭さが漂い、午前中の陸上の練習に疲れてソファに横たわった小学5年生の私の疲弊を助長する。ソファの下から漫画本をかろうじて手に取った私に「ホラ、センタクマワスカラハヨヌイデ」と母さんがやってきた。寝そべったままシャツと体操ズボンをシュハッと脱いで渡し、パンイチで再び漫画をシュババッと手に取った私に母さんは「ホラ、シャワーアビヤ。カゼヒクデ」と捨て台詞を吐いて洗面台の方へツツツツと裸足で歩いて行った。「ワカットウワ」と届かぬ返事をして、『アイシールド21』の単行本をチュバッと手にとってページを捲った瞬間、私の鼻はツーンとする。私の視覚に訴えかけた画や文字も虚しく、その匂いの根源へと誘われた視線の先にはガラスに張り付いたまま動かなくなったサラがこちらをじっと見るように首を伸ばしていた。私とサラの2者間において一瞬音は消える。2度目の私の「ワカットウワ」が沈黙を押しのけ、浴室へドタドタと向かう私の音、私の匂いは誰に―キャリンキャリンッと大袈裟な音を立てて机から床に転がったのは醤油入れ、と母さん。絨毯に染み出した醤油の香り「オマエナニシトンジャ」と中学2年生の私の胸倉をツッと掴んだのは父さん。母さんのクスックスッという泣き声と父さんの鼻息が私の沈黙を奪う。私は沈黙を取り返そうと、黙りに黙る。「コレハドウイウコトヤセツメイシロ」という父さんの誘発に私は抵抗する。それが私の輪郭だと私は私にしがみつく。キャリンキャリンッなんて大袈裟な音……と私は実際の事態より大袈裟な演出をした醤油入れに怨念を込めてチチャッと舌打ちした。が、勿論、その音は私の頬がパファンッと父さんにぶたれる音などを同時に連れてくる。「チョットタタカンデエエ」と立ち上がった母さんはジュブーッとティッシュで鼻をかんだ。ドドドドドドドドドバッタンと自分の部屋に駆け込んだ私は、空いた窓から入ってきた春風にヒュウウっと吹かれ、隣の池山さんの家から漂っていたはずのハンバーグの匂いは忘れられる。サラの世話を私に代わってほとんどしていた母さんが「カワニニガス」と言ったのが発端で、それは最終的に私の文脈を踏まえない「シネヤ!」という雑な言葉を誘引し、「ナンデシネトカイウンヨ!」と発した母さんは私に掴みかかって私に床に倒された。その際、ズンッと机の柱にゆっくりぶつかって、母さんの身体が巻き込んだテーブルクロスに乗っかった醤油がキャリンキャリンと床に落ちた。出来る限り母さんが怪我をしないようにゆっくりと技をかけた私の配慮を無視するかのような醤油入れの所作には納得がいかないまま、「ゴメン」と母さんに謝る私の声―第1志望の早稲田の文化構想学部に落ちて、第4志望ぐらいの滋賀大学の経済学部にしか受からなかった私は固定電話のボタンをチュクチュクと押している。「ハイコチラカワイジュクウケツケガカリデス」と予備校の女性の声が電話回線を窮屈そうに渡ってくる。「モシモシ?」何も話さないままガチャグチャッと受話器を置いた私はサラの水槽の近くにしゃがんで『乾燥エビ』の容器から『乾燥エビ』をスパグショッとつまみ出し、水中に沈むサラの頭の上に振りかけた。ゆっくりと水中から上がってきたサラは顔を出して、サクッと『乾燥エビ』に食らいついた。『乾燥エビ』をつまんだ指の匂いを嗅いだその匂いを私は今も記憶の中で嗅げる。サラを風呂桶に移して、水槽をジュバーッとシャワーで流す私は、洗面所に化粧直しをしにきた母さんに「ヤッパリエイガノセンモンイキタイ」と言ったその声はシャワーのジュバーッ音にかき消され、私はその時映画を諦めた―ジュンジュンと自転車を漕ぐ私のもとへピロピロリンリンッとスマフォから通知があった。緑色の吹き出しに黒字で『サラは水族館に預けました』。『そうか』大学3年の私は琵琶湖の生臭い風を鼻に吸い込んで、琵琶湖にはブラックバスという外来種の愛が育まれていることを豊かに思った。

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