五、結末
ガラパゴス諸島の朝が、二つのイグアナ族同士の戦いの朝が、明けようとしていた。暗く深い夜を突き破る、鋭い旭日の一閃が、まるで光の矢のように放たれると、決戦の場所と指定されたそこには、既に両方のイグアナ族たちが並んでいる。海側にはウミイグアナ族の、まるで溶岩のように黒い姿が、山側にはリクイグアナ族の、黄色をベースにした斑模様の姿があった。頭部から始まって尻尾まで続く、背筋に連なる突起を含めて、その形状は良く似ているが、尻尾の形と色が双方を隔てている。ウミイグアナの尻尾は泳ぐために少々縦に細長い構造になっているし、リクイグアナの尻尾は丸くなっている。そして、今それぞれの陣頭に立つのは、各イグアナ族の長である。双方、無言のままに立ち尽くす。最早「恨み」は流すことは出来ない段階に達していた。睨み合いは暫くの間続いた。双方の長がそのまま声を掛けないでいるのは、声を掛けるときが戦いの始まるときだと熟知しているからである。
「マキ様」
リクイグアナ族の長に、恐る恐る潜めた声を掛けてきたのは、バルである。
「戦いを…回避することは無理でしょうか」
「あちらが仕掛けてきた戦いじゃ。退くならあちらがまず退くべきであろうよ。我らが遠慮するいわれなどない」
「なればこそ……」
訴えるような眼差しを首のあたりに感じて、ふと目を向ける。
「リウ様は、アナ姫との婚姻を望んでおいででした。それが双方のイグアナ族の未来を切り拓くと信じて」
「……現実を知らぬものの戯言だ」
そんな単純なことで双方の憎しみ合いが収まるほど、話は単純ではない。だが、まだ年若いリウにそれを求めるのも難しいのかも知れない。
「今すぐに双方の憎しみの炎を消すことは無理でも…」
「こちらが消そうとしても」
苦渋の滲んだ顔は、年齢よりもマキを老けて見せた。その表情にバルが息を飲む。
「あちらがその炎に油を注ぐ。いつまで経っても炎は消えぬ」
二つのイグアナ族は、同じ痛みを味わった。だが、それをお互い様だと言い切れるものなど、居はしない。睨みあいが続き、その緊張が頂点に達しようとしたときである。
「お祖父様」
二種類の声が響いた。それぞれに同じ名で、違うものを呼んでいる。
「アナ!」
「リウ!!」
それぞれの族長が、それぞれの孫の名を呼んだ。その次の瞬間、二つのイグアナ族の中程に、突然巨大なサボテンが立ちはだかった。恐ろしいほどの勢いで伸びるそれは、意思を持ったもののようにイグアナ族を隔てた。まるで、喧嘩の仲裁をするかのように。
「これは…、」
「ウチワサボテン?」
一瞬の戸惑いの後。二つのイグアナ族の長は、孫たちのように異口同音でその名を叫んでいた。
「レン様?!」
島の領主として総括するのは、長寿として有名なガラパゴスゾウガメ族の長である。それとは別に、物言わぬ種族の代表としてその名が語り継がれていた。しかし、表面に出てくることを厭い、公式の場に出てくることはなかった。ウチワサボテン族の長と呼ばれるもの、それがレンである。突然に地面から出現したサボテンは、レンの意思に従ってイグアナ族を分断した。そして、分断された真っ只中にいるのは、二つのイグアナ族からはみ出した者。
そのとき、静かな、魂に沁みこんでくるような深い声が、全てのイグアナ族の頭の中に響いた。穏やかでいながらも深い哀しみを知り尽くした声は、魂ごと揺さぶるような衝撃を与えた。
「最早、神の子のような災害以外で、多くの命が失われるのは見たくはない……」
寡黙で知られたウチワサボテンの長が、これほどの数のものに意思を示すことはついぞなかった。
「レ…ン…様……?」
「双方のイグアナ族の皆様に、申し上げたいことがあります」
ウチワサボテンの長の援護を受けて、リウは力強くアナの肩を抱き寄せた。
「私リクイグアナ族の長の孫リウは、ウミイグアナ族の長の孫アナを、昨夜レン様、スカラ様、亀蔵様、ガラ様の祝福を受けて、娶りましたことを、ここでご報告させて頂きます」
「なんと?」
「ウミイグアナ族がリクイグアナ族と婚姻だと?!」
囁き程度では済まないほどの呟きが、あちこちから漏れる。そのどよめきを遮るように、澄んだ声が響く。
「私ウミイグアナ族の長の孫アナは、リクイグアナ族の長の孫リウと、婚姻を結びました。略奪などではなく、双方の意思でこの婚姻が結ばれたことを、ここにご報告させて頂きます。…お祖父様、皆様。戦いをお収め下さい。もし、それが出来ないとおっしゃるのなら、私たちは亡くなったものとして、諦めて下さい」
「アナ! 何を言う!!」
「昨夜、私のお父様がどういう種族であったかを、伺いました。そして、得心したのです」
ウミイグアナ族の長リオは、初めて見た。孫娘の、これほどに満ち足りた笑顔を。それは、今は亡き娘の微笑みを思い出させた。喜びと誇りと、未来への希望に満ちた微笑みを。
「アナ……」
「リオ様。我々は、この婚姻を認めて欲しいと思っている訳ではありません。…勿論認めて下さればそれはそれで嬉しいですが。ただ、我々は、双方のイグアナ族が今までいがみ合ってきた原因が、自分自身にあると知りました。それならば、我々こそが、このいがみ合いに終止符を打てるとも思っています。この婚姻を報告し、どちらのイグアナ族にも属さない、第三の種族になりたいと、我々は思っています」
「第三の…種族?」
鸚鵡返しに聞いたマキの言葉にそっと微笑みながら肯いて。
「はい、第三の種族です。ウミイグアナ族と、リクイグアナ族両方の特質を持ち、どちらにも属さない種族です」
その言葉に、新たなどよめきが起こる。
「私リウの母はリクイグアナ、そして父はウミイグアナです。妻であるアナの母はウミイグアナ、そして父がリクイグアナ。我々はずっとそれぞれのイグアナ族からのはみ出し者でした。どちらにも属せ無い中途半端に丸い尻尾、そしてこの中途半端に斑な体を持って、我々はいつも孤独でした」
あたりは静まり返っていた。それは、公にされていることではなかったが、それぞれの種族内で極秘にされつつも、暗黙の了解となっていたことであった。
「神の子の災害のときに、ウミイグアナ族を中心に多数の被害が出たことは、皆様の記憶に新しいことと存じます。…我々の両親は、その時にめぐりあい、我々を産み落としました。それは、ウミイグアナ族の純血を頑なに守るよりも、その遺伝子を受け継ぐものを残すことを考慮した結果です。それに。神の子はウミイグアナ族を中心に被害がありましたが、もしかしたらリクイグアナ族にも、そういった災害がいつか訪れることがあるかも知れません。双方のイグアナ族の血を継ぐものが居れば。我々は、そう思うのです」
リウとアナは終始しっかりと手を携え、お互いを支えあうように言葉を紡いでいた。それは、双方が深い信頼関係で結ばれているからに他ならない。今まで頼りないと感じ、保護してきたと思っていた孫が、遠い存在になっていた。
「その後ろ楯は、この島の領主たちか…」
独り言のようにそっと呟く。孫に、今までなかった頼もしさを感じるとともに、深く切ないほどの淋しさが、心にそっと沁みこむようだった。
「受け入れねば、なるまい」
領主を含めた実力者が、孫たちを祝福した。それは、それを認めねば、この島では生きていけぬも同然である。恫喝ではなかったが、その背景は二つのイグアナ族の長にとっては、強制にも等しかった。
「娘をなくし、孫をうしなった」
先に背中を向けたのは、ウミイグアナの長リオである。その背筋の突起が微かに震えていることに、孫娘のアナは気付いた。
「もはや、私には身寄りはない……。どこへでも、好きなところへ、好きな男とともに行くがいい」
まるで呪いをかけるかのような祝福の言葉は、アナを族長の孫娘という立場から、解き放つための言祝ぎの言葉であった。その言葉の中に、祖父としての祝福と、大切にしてきた者を奪われるものの悲しみとが、綯い交ぜになっている。
「いえ、いえ。お祖父様」
反論を試みても、返す言葉が見つからない。最前、「死んだものと思って欲しい」とアナは祖父や一族の者に向って宣言したのだ。涙にくれる孫娘に切なげな視線を向けて、そっと祖父は唇だけを動かした。「しあわせに」と。声に出さぬのは、まだ族長としての立場があるからだ。それに気付いたリウは、面をあらためて、アナの肩へ伸ばした手に力をこめて、深く頭を下げた。そして、自らの祖父の方へもまた、深く頭を下げた。その様子を見ていたリクイグアナ族の長マキは、軽く頭を振って、踵を返した。
「帰るぞ!」
ガラパゴス諸島に生息する第三のイグアナ族は、まだ生まれたばかりの新しい種族である。礁湖の畔に居を構え、時にウチワサボテンを頬張り、時に海藻を食べる。陸と海のどちらかだけに依存することなく生きることが出来る。誕生したばかりのこの新たな第三の種族が、繁殖することが出来るかどうかは、現在まだ確認されていない。だが、この新たな種族は、二つのイグアナ族を繋ぐ架け橋であり、また、未来への夢を繋ぐ希望そのものでもある。
「レン」
「……」
微笑んでウチワサボテンの長の名を呼んだのは、ガラパゴスペンギン族のリーダー、ガラだった。
「ありがとう」
そう言うと、返事を待たずに海へと飛び込んで行った。どこまでも続く海が、きらきらと太陽の光を反射して、眩しいほどであった。潮風が心地よく棘をなぶっていく。のんびりとした島の一日がまた、始まろうとしていた。
因みに、登場人物の名前は、イグアナサイドはロミジュリから、他の動物たちはその種族名からきています。
亀蔵さんは特別枠です←