四、婚礼
その夜。リウはウチワサボテンの上に居た。サボテンの上に寝そべって見える月に思うのは、アナのことである。今頃はどうしているのかと思いを馳せても、次の瞬間にあの別れの日の泣き顔が、頭に浮かぶ。ぼーっとした日々を過ごしながらも、あのとき傍に居たアンジェの言葉が、妙にひっかかっていた。「お二方は」と。
「……ひっかかる」
声に出してつぶやくと、頭をあげて、軽く振った。何もかも、まとまらない思考の海の中でたゆたっているようだった。そう、まるで海藻のように。海藻。という言葉で、リウの思考は新たな展開を見せた。母はウミイグアナ族の父と結ばれてリウの卵を産んだ。それはつまり、両者の特徴を継ぐ結果になったということだ。この斑模様の黒っぽい皮膚。ずっとリクイグアナらしくないと思っていたが、リクイグアナの斑模様とウミイグアナの黒い皮膚の二つともを受け継いだのだと判って、少し気が晴れた。そしてその鋭い爪。リクイグアナ族に、サボテンに登れるものは居ない。だからずっと、一族から逃げたいときはいつもこのサボテンの上に登っていた。それもまたリクイグアナ族らしくないと言われ続けてきたことであったが、ウミイグアナの血がこの身に流れているのであれば、寧ろこの鋭い爪は当然のものといえた。
「これが父から継いだ、俺の爪……」
その爪に触れたイグアナ族のことをふと思い出す。頭から引き離そうと思考を何度切り替えても、最後にたどり着くものは決まっていた。
「ああ、ちくしょう」
「リウ様」
リウの背に、掛けられた声に、思わず一瞬びくっとする。振り返れば、アンジェ。アナの親友だった。
「アン…ジェ? 一体、何故ここに」
「アナ様は、あれからずっと塞ぎこんでいらして…。あれから、何も召し上がって下さらないのです。このままでは、アナ様は」
引き離そうとしているのに、何故?とものの言い方と視線とがきつくなるのは是非もない。
「俺にどうしろと?」
「アナ様を元気づけて頂きたいのです。…私は、リウ様とアナ様とのご縁には反対です。アナ様には、ウミイグアナ族としての幸福を求めて頂きたいと思っています。でも、その前に」
一呼吸置いて、縋るような目でリウを見上げる。
「私は、あの方に生きて、幸福になって頂きたいのです」
「…それは。随分虫の良い…」
搾り出すようなリウの言葉が、アンジェの胸に突き刺さる。それは、寧ろ覚悟してきた言葉だった。
「何といわれようと構いません。アナ様に元気になって頂くには、あなたの存在が必要なのです」
それは姉のような存在として、ずっとアナを見守ってきた者が発する、愛情に満ちた言葉だった。その奥に潜むものに触れた気がして、リウはそっと囁くように呟いた。
「もし、アナ様が元気になってくれたなら……」
アンジェはそのリウの口から零れた言葉に、目を丸くした。
遠い水平線のその先は、ぼーっとして空と海とか溶けあうようだった。空と海とが溶け合って見えなくなるように、リクイグアナとウミイグアナも溶けあうことが出来たら、どんなにいいだろう。そんなことをアナは思っていた。
「アナ姫……。アナ」
自身を呼ぶ声に、思わず体が硬くなる。それは、ずっと聴きたかった声だった。これは夢だろうか、振り返ったら夢から醒めてもとの塒に戻っているんじゃないだろうかと暫し混乱したものの、重ねて問いかける懐かしくも愛しい声に、振り向かずには居られない。
「リウ…様!」
夕陽があたりを赤く染め上げる。だが、アナの頬が赤く染まっているのは、夕陽のせいだけではない。イグアナの種族を越えたカップルは、今お互いの目の中にお互いを認めて、幸福感に包まれていた。それが、長続きすることとは双方思っていなかったけれど。
「アナが…、リクイグアナ族の男の許へ走っただと?!」
アナとリウがお互いの気持ちを確認しあっている頃、ウミイグアナ族の長リオは、激怒していた。鐘愛していた娘がリクイグアナ族の男の卵を産んだと知ったときも、結果的にはそれを受け入れたリオである。だが、その愛した娘が残した忘れ形見さえも、彼を見捨ててリクイグアナ族の男のもとへ走ったと知って、彼は孤独感に襲われた。自分の愛したものたちが、自分を捨てて去っていく。それは、種としての危機を感じさせた。事実、「神の子」の到来したあのとき、ウミイグアナ族は壊滅状態に追い込まれた。殆どが飢えて死に絶え、或いは食べられぬものを食べて、必死に生き延びようとした。事実、ウミイグアナは陸上の植物を消化出来ない。だが、塩分を大量に含む陸上植物の一部を食べて、凌いだものもいた。消化出来ぬと知りつつ、ウチワサボテンを果敢に食べたものもいる。胃は一時的に膨らんだかも知れないが、しかし栄養は十分に行き渡らず、衰弱するものが殆どであった。そんなとき、娘が卵を産んだと知って、驚き喜んだのは当然といえる。それは、滅亡に瀕していたウミイグアナ族にとって、久々の、喜ばしいニュースであった。だが、その卵の父はリクイグアナ族だった……。
今それを思い出しても、既に遠い記憶の彼方である。娘は卵を抱えて、うっとりとした表情を浮かべていた。
「だってお父様。ウミイグアナ族の全てが絶滅してしまうより、ウミイグアナ族の遺伝子を持つ子を残した方が、未来に希望を繋げるとは思わない?」
最早二度と見られなくなった、その微笑み。リクイグアナ族の血が入っているといえども、アナはその娘の血を引く唯一の存在であった。その面差しはどことなく、母に似ている。
「アナよ、お前までもが私を…捨てるのか!」
「いいえ、リオ様。それは違います!」
必死にとりなそうとするアンジェの言葉も、絶望に打ちひしがれたウミイグアナの族長リオには届かない。リオは、涙を振り切るように、叫んだ。
「リクイグアナ族の男が我が孫を攫った。奪われた孫を奪還する。ウミイグアナ族の威信にかけて、孫を取り戻す!」
その叫びを聞いた全員に、戦慄が走った。再びあの悲劇が、繰り返されるのかと。
「こ、こんな…!」
アンジェは思わずその場に立ち尽くし、青ざめた顔で愛しい男の許へ走ったウミイグアナ族の姫の行く末を案じていた。
「また、嵐が来るかも知れんな」
亀蔵は、むきを変えた風の流れの匂いを嗅いで、ふと言葉を漏らした。
「スカラよ。あの時のような悲劇は、繰り返してはならぬ」
隣にいる領主にこれほどぞんざいな口を利くのも、今は亀蔵しかおらぬ。
「ウミイグアナの長が……」
「無理からぬことではあるが」
彼らガラパゴスゾウガメ族は長生きである。そして、長期に渡っての粗食にも耐える。だからこそ、神の子の時にも生き延びることが出来た。同時に、それゆえにこそ、人間どもの糧食として大量に捕獲された過去があったともいえる。その過去を象徴するのは、ロンサム・ジョージ。孤独な英雄として知られる、ピンタ島最後のガラパゴスゾウガメである。かの島のゾウガメは彼を残して死に絶えたと伝えられる。一部は繁殖相手を求めて、隣の島へ移動したとも伝えられるが、ピンタ島には、最早ゾウガメは居ない。ジョージは「彼を保護する」という名目のもと、人間に連れ去られた。何不自由ない生活ではあろうが、自分の自由が奪われた状態での「何不自由ない生活」にどれだけの意味があるのかを考えれば、それは人間どもの傲慢さを象徴するだけにすぎぬといえるかも知れない。
「いずれにせよ、止めねばなるまい」
「あの時流された血が、無意味なものになる」
空に掛かる月を眺めて、ゾウガメ族は肯き合った。彼らにとってはまだ遠くない過去の、忘れ得ぬ出来事を頭に思い浮かべながら。
リクイグアナ族にその知らせがもたらされたのは、早朝。まだ日が昇るか昇らぬかという時間である。
「ウミイグアナ族が?」
不審気に眉根を寄せた族長マキの耳元に、バルが囁く。
「あれが…。リウがウミイグアナの姫を奪って逃げたと?!」
何と思慮のない、などと孫への文句の言葉を一頻り吐いて、深く吐息をついた。
「ウミイグアナ族の血が入ったリウには、所詮このリクイグアナ族の中で暮らすのは難しかったやも知れぬ。だが、一族を巻き込むとは。これではあのときの二の舞ではないか」
しかし、一族の長として、為すべきことは為さねばならぬ。
「明日、ウミイグアナ族との決戦となった。戦いの準備を整えよ」
苦いものが混じったような声に、疲れが滲んでいる。だが、最早族長が止められる戦いではない。
「何れ決着はつけねばならなかったのだ。あの時の落とし前を」
そう呟く族長の眉間に、厳しい筋が入っている。深い後悔と自責、そして繋ぎ止めることが出来なかった多くの生命。また新たに失われようとしている、多くの命。
「戦いは、避けることが出来なかったのだ…」
そう呟くマキの声は、自らに言い聞かせているかに、バルには思えた。
その夕暮れ。礁湖のほとりで、式を挙げようとするカップルが居た。リウとアナ、イグアナの種族を越えたカップルである。参列者は、多くはない。イグアナ族に至っては、皆無である。だが、今宵結ばれたカップルは、幸福そうに寄り添っていた。紅に染まった新婦の頬に新郎が唇を寄せたとき、月が昇った。まるで血の色のような紅に染まった月が。
「さて、祝福のあとに申し訳ないが。お前さんたちにやってもらいたいことがある」
大きな体をゆったりと揺らして近づいてきたのは、亀蔵である。主賓の一人として招いたのは、亀蔵の名を考えれば当然といえた。
「はい」
「実は、ウミイグアナ族がリクイグアナ族に攻撃を仕掛けようとしている」
リウとアナの血の気が、一気に引いた。それは、リウとアナ自身がもたらした禍と言える。
「判っておろうが、元々お前さんたちがもたらした禍じゃ。もし、この結婚を続ける意志があるなら、この戦いを終結させなさい。お前さんたちなら、それが叶う。いや、お前さんたちにしか、恐らく出来まい。異種族同士が結ばれた、第三の種族であるお前さんたちにしか」
「第三の…種族?」
「そうじゃ。ウミイグアナとリクイグアナの双方の血を引き、双方の特色を持った、新たな種族。今まで、異種族同士の子は、繁殖出来なかった。それは、異種族同士の子と交配する者が居なかったからじゃよ」
思いがけない亀蔵の言葉に、アナが震えていた。
「もしかして…、私も?」
「そう、お前さんの父はリクイグアナ族だった。リウとは逆じゃな。だからこそ、お前さんたちは姿がこれほど似通っているのじゃよ。そして、双方の族長の娘が、違う種族の男の卵を産んだことで、先の戦いは勃発した。お前さんたちは、その戦いの原因とも言える。それは、辛かろうが、しかしそれを受け入れて、この戦いを鎮めてくれ。この美しい島を守るために」
領主の座にはないが、それに限りなく近い亀蔵の言葉に、色を失ったアナだった。だが、リウの手がアナの手をそっと包んでいるのに気づいて、深く肯く。
「はい。私は一人ではありませんもの。きっと、この戦いを鎮めることが出来ますわ。リウ様と一緒なら」
「リ・ウ!」
すかさず突っ込んだリウに、新婦は思わず頬を染める。
「あ、はい。リ…ウ…」
「何とまあ、初々しいことじゃな」
豪快に亀蔵は笑った。その決意の結果が、凄まじいことになろうことを予測してはいたけれども。