三、願い
「アナ様……」
言葉を失って佇むアンジェに、アナは縋るような目を向けた。
「お願い、お祖父様には内緒にして。お名前を辱めるようなことはしていないわ。ウミイグアナ族の自覚だってちゃんとある。ただ、リウ様と一緒に居たいのよ」
「ですが。これ以上お会いになることは危険です。下手をすれば、アナ様だけの問題には留まりません。リクイグアナ族とウミイグアナ族、双方の戦争にも発展しかねないのですよ。アナ様は、それをお望みですか?」
冷静に指摘するアンジェに、一瞬怯む。しかし初めて与えられたそのぬくもりを、忘れて戻れるほど、アナは強くはない。
「その通りだ」
抑えた、低い声が響いてきた。余人に聞かれることを恐れるかのように密やかでいながら、しかし必要な者には伝わると確信しているような声である。
「バル?!」
リウの叫びに呼応するかのように、如何にもリクイグアナ族らしい姿が現れる。丸い尻尾がゆさゆさと振られ、黄色い皮膚に斑模様がはっきりと見えた。
「リウ様、こんなところでウミイグアナの姫と密会とは」
どこから話を聞かれていたかは判らない。だが、既に誤魔化しようのないところまで知られているのだろう。空気に溶け込み、気配を消すことが出来るバルは、稀有な存在であった。ちくり。と刺すような一言にはまるで棘でもついているかのような鋭さがある。
「下手をすると、あの『神の子』の一件以来の、とんでもない事件になりかねませんぜ」
神の子。それは、アナやリウが産まれる前の事件である。ガラパゴス諸島の近海で発生した異常気象のことで、多くの動物がその異常気象で命を落とした。海水温の異常な上昇。陸上の気温も異常なほどに上昇した。それから記録的な程の大雨。海水面の塩分濃度の低下。それはガラパゴス諸島に住む生物のみならず、渡り鳥にも大きな影響を与えた。ガラパゴスアホウドリ族のウドやホウたちは、その時生き残ることが出来た数少ない例である。親しい友人たちの殆どがこの島に渡ることが出来ず、繁殖しようとしても礁湖の水位上昇で巣が水浸しになったり、卵が孵化できなかったり、孵化しても雨の為に体温が奪われるなどして、すぐ雛が死んでしまったりした。いや、子供どころか、親になる動物が食べる分さえ確保出来ないのだ。そして、子供を残すよりは、親の個体を残したほうが、翌年の繁殖成功率が高くなる。子供のほうではまず天敵に襲われて命を落とす確率も高い上、繁殖にかかるには数年程度かかるものも少なくない。そういう場合、自然界では子供を見捨て、親が生き延びる。勿論親とて子をむざむざ死なせようと思うわけではない。だが、種の保存を本能で行うことが出来る能力が、自然に優先順位を決定するのだ。そして、その『神の子』は親に見捨てられた子もまた、多くの骸をさらしたのである。ガラパゴス諸島に住む、そして諸島にやってくる動物たちにとって、今なお恐怖の事件である。それが引き合いに出されるほどの大惨事になりかねない。というのは穏やかではない。
「いや、そもそも。『神の子』をどうして引き合いに出すんだ? それとこれとは関係ない」
「関係なく、ないんですよ。『神の子』のときに、あのイグアナ戦争が勃発したんですから」
「では…、少ない食糧を双方で奪い合ったってことか?」
「それもなくはないですが。一番大きいのは…」
「お待ちを」
少しずつ情報を引き出そうとするリウと、それに応じるバルとの問答を遮ったのは、アンジェである。バルを視線で咎め立てているようだった。
「それよりも、このようなことは、困ります。アナ様の一族内での評判に関わりますし、そちらとて、いつまでもこのようなことをしている訳にはいきますまい。それよりは、傷の浅いうちに別れて頂きます」
断固とした言葉に、アナはその場に崩折れて泣き出した。見つからぬよう回り道をしてここに通ったのは、この密会を一族から隠すためだった。その努力は数日、アナとリウの逢瀬を守りはしたが、結局は無駄だったということである。
「では…、俺がアナ姫に結婚を申し込むというのはどうだろう」
突然の提案は、一同を驚愕させた。リクイグアナ族と、ウミイグアナ族との婚姻。それは、未だかつてなかったことである。
「前例がありませぬ! それに。それこそ戦争に!!」
「俺たちはあの戦争を知らない。だからこそ、今後のイグアナ族全体の発展を願うことが出来る。これは未来へ繋がる希望そのものだ」
「それはちぃと難しいと思うぜ?」
からかうような響きがある、落ち着いた声が聞こえた。がさがさがさ。と草をかきわけるような音とともに現れたのは、リウとアナも良く知る動物だった。
「あなたは…」
「亀蔵様!」
ゆっくりと首を伸ばしながら草をかき別けて出てきたのは、ガラパゴスゾウガメ一族の相談役亀蔵だった。
「お前さんたちはまだ若いからな。バル、お前は知ってんだろうな?」
無言でそれに肯く顔は、亀蔵の突然の出現を喜んではいない。干渉されることを警戒しているかのようだった。
「そういえばさっき何か言い掛けてたな。それはもしかして…」
「そう、そのイグアナ族同士の戦いと、リウ様たちの問題が関係してるってことでさ」
「俺達の問題が…、何故?」
さっきは言おうとしていた筈だったが、今は少し躊躇っているようだった。本来部外者である亀蔵がその場にいるせいかも知れない。だが、亀蔵はこの島に百五十年住んでいる、いわば島の主である。この島で起こった出来事が伝わっていない筈がない。
「神の子の一件と、イグアナ族同士の抗争とは切っても切れねぇ訳があんのさ」
「えっ?!」
若いカップルはゾウガメ族の長老の台詞に驚きを禁じえなかった。イグアナ族の自分たちでさえ知らない事実、それを部外者であるゾウガメ族の亀蔵が知っている。疎外感を感じるのは是非もない。
「……事実です」
丸い尻尾を微動だにさせず、伏せていた目をそっとあげたバルは、何か覚悟を決めたように見えた。それから彼は徐に話しはじめた。
数年前。「神の子」がガラパゴス諸島を襲った。それは、言葉無き暗殺者にも似て、沈黙の狂気の刃を密やかに下ろした。その見えざる刃のもとに、数多の動植物たちが命を落とした。そして、それらを食べる捕食者たちも飢えて命を落とした。そこまでは、今までにも何度もあった。それは自然界には良くある出来事である。弱いものが滅び、環境に適応できたものだけが生き延びる。それはガラパゴス諸島に限らず、生き物の世界の摂理とも言えることであった。それが、単なる出来事で済まなくなったのには、理由がある。
「リウ様の母上が、ウミイグアナ族の男と恋に落ちました」
それまで生活圏がまるで異なっていたために出会うことがなかった二つのイグアナ族である。ウミイグアナが、海中から消えた餌を求めて陸上を歩いていた時、陸上でサボテンを貪っていたリクイグアナに出会った。それは、本来あるはずのなかった出来事であった。もし、そこまでウミイグアナが追い詰められる程に餌が激減していなかったなら、この出会いはなかったかも知れない。だが、その出会いが、彼らを変えた。本来あるべき姿は違うものだったはずだ。だが、彼らはそれを選ばなかった。
「そうして、リウ様の母上は、リウ様の卵を生み落とし…。命を落とされました」
「では、俺の父はウミイグアナ族。ならば、アナ姫と似ていてもおかしくはない」
あまりのことにアンジェが叫んだ。
「なんてこと! お二方が……!!」
それを聞きとがめたアナが戸惑うような視線をアンジェに向けた。
「アンジェ?! それはどういうこと?!」
バルは静かにアンジェを傷ましげに見ていた。
ガラパゴスペンギンのガラは、月を見ていた。遠い日の思い出が、その月の中に見えるのかも知れない。
「ガラよ」
「レン?」
「お前も、もう前を向いて歩き出してもいいころだろう。あの、白いペンギンのように、行く手は遥かだろうと、歩みださねば近くへはいけまい」
「……」
判っている。と心の中で何度思っても、拭い去ることの出来ぬ記憶がある。波が攫っていく砂の上の文字のようには消えてはくれない。懐かしくも切なく、甘い記憶は、時とともに風化していく。寧ろ、薄れていくことをこそ哀しんでいるのかも知れない。
「あの子は偉かったわね」
暫く前に、この島にたどり着いた白いペンギン。成体になって、恐らく間もない個体だったろう。ここガラパゴス付近に生息するペンギンにあれほど大きな種類は居なかったから、恐らくどこか遠くから流されてきたに違いない。記憶を失ってなお、故郷を目指すと言ったそのペンギンは礼儀正しく、そしてその姿はガラにとって眩しかった。
「年をとったせいかしらね……」
「年のせいにするなよ、ガラ。まだ繁殖出来る齢だろうて」
「ふふ。そうね。そういえばあの子たち」
突然変わった対象に、一瞬思考が止まる。
「ああ、あのイグアナの交配種のカップルじゃな」
「ええ。恐らく、それぞれの種族から孤立していたでしょう。だからこそ、お互いだけが理解者だと思うのではないかと」
「そうさな」
異種族同士の交配。それは禁忌に等しい。それが許されていたなら、ガラは最早この島の住人ではなかったかも知れないのだ。
「お前は、あのカップルがうまく行かなければいいと思うか?」
まるで心中を見透かされたような問いに、思わず目を伏せる。
「判らない……」
月がもの哀しい光を、そっと地上に注いでいた。
遠い海の向こうに、夕陽が沈もうとしている。世界は今赤く染まっていた。まるで血の色のようだ。という考えが頭をかすめて、その比喩の恐ろしさに身震いする。遠い昔に母に聞いたその悲恋物語が頭をかすめる。今、その悲恋の忘れ形見が同じことを繰り返そうとしている。それはあってはならないことだった。身支度を調えて、アンジェは長の孫娘の元へと足を運んだ。生木を割く様な別れから数日が経過している。あの場は仕方がなかった。と自身を弁護してみても、後味の悪さに拍車がかかるだけだ。泣きじゃくるアナを宥めてなんとかウミイグアナ族のねぐらに戻ったが、あれ以来ずっとアナは塞ぎこんでいた。親しい友人としては、願いを叶えたいとも思う。だが、一時の感情で後になって悔いることになるのではないかという懸念が、ずっとアンジェの心を重くしていた。
「アナ様、お加減は如何ですか」
あの別れから、アナは一度も食事をしていない。イグアナ族は粗食に耐え悪環境に耐える強靭な体を持つ種族である。だが、それも度を越せば飢えて、待つのは死。となるのだ。
「今日もお召し上がりになりませんでしたの? 痩せ細ってしまいますよ」
それは、アンジェが持ってきた食事だった。
「……ダイエットになって丁度いいわ。食べたくないの」
「アナ様!」
このままでは、餓死してしまうのは明らかであった。夜もあまり眠れていないのだろう。ぼーっとした様子は、アンジェが今までに見たこともないほど、無気力な姿であった。
「せめて、このサボテンだけでも」
そういって差し出されたサボテンは、ウチワサボテンだった。それに気付いたアナに、今までなかった喜色が見えた。無言で、それをそっと抱きしめる。棘が皮膚をゆっくりと刺す。しかし、痛みは感じない。
「リウ様…」
そう、それはよくリウが昼寝をするときに登っていたウチワサボテンだった。
「アナ様……。私は、ウミイグアナ族の女として申し上げます。リウ様とは別れて頂きたいと思っています。ですが、アナ様が儚くなってしまわれるのは厭です。どうか、あの方のことは美しい思い出としてお胸におさめて、新しい伴侶を見つけて下さるよう、願っております」
深々と頭をさげる。アンジェは、いつも傍に居た友人であった。何くれとなく世話を焼いてくれるだけではない。孤立しがちなアナを何かにつけ庇ってくれていた。それはアナ自身が一番良く知っている。
「ありがとう、アンジェ。でも、もう駄目なの」
哀しげに微笑んだ姿は、支えていないと倒れてしまいそうなほど、弱々しかった。