第87話 追憶・それはとても晴れた日で
まだ雪解けには遠い二月の軽井沢に、天道寺刹那は立っていた。
雲一つない青空を静かに見上げるその姿は、絵になるほど美しくありながら、普段の元気な彼女らしくない寂しげな空気を漂わせている。
「刹那、どこか調子悪いの?」
「……いや、大丈夫だよ」
京子が心配して声をかけると、彼女は笑って首を横に振った。
けれど、その態度もどこか彼女らしくない気がして、京子が顔を曇らせていると、逆に心配したのか右腕を持ち上げながら付け足した。
「本当に大丈夫だよ、変換器がいつもと少し違う感じがしただけで」
「そうなの? 今から分解検査する時間はないんだけど……」
「多分、私の気のせいだから――」
「ちょっと待っててね」
刹那の言葉を遮り、京子は指揮車の中に駆け戻り、予備の幻想変換器を手に戻ってくる。
「これを左腕につけておいて。力が倍になる訳じゃないけど、万が一片方が故障した時の保険にはなるから」
「うん、ありがとう」
刹那は素直に変換器を着けると、再び青空を眺め始めた。
あまり心配しすぎても逆効果かと、京子は彼女の傍を離れつつ、指揮車の前に居た綾子に話しかける。
「今日の刹那、ちょっと変じゃないですか?」
「そうだな、車の中でも珍しく静かだったし……」
思い当たる事があったのか、綾子も眉間に少しシワを寄せる。
「それに二ヶ月前からか? 考え込む事が多くなった気がするな」
「えぇ、普段は変わらずアホなんですけど……」
元気に明るく笑いながら、ふとした拍子で真顔になり、物思いにふける姿を目にするようになった。
幻想兵器なんて物を握らされて、CEと戦い続けているのだ、何も変わらない方がおかしいとも言えるが。
そう考え、京子達は深く追求する事はなかった。
ただ、後になって気付く。彼女は生来の鋭い勘から、己の運命を薄々感じていたのではないかと。
「来たぞ」
地平線の先に結晶体の群れを確認して、綾子達は指揮車の中に戻った。
敵は五十体以上、弾薬節約のために自走砲による間接射撃の回数を減らしたので、生き残ったCEはかなり多い。
しかし、今の刹那であれば、これだけの数とて敵ではないのだ。
「貫け、フラガラッハ!」
まずは一㎞も離れた所から大剣を投げ放つ。
光の剣は縦横無尽に宙を飛び回り、一投で六体ものCEを破壊する。
あの日からさらに彼女の認知度が広まった事で、幻想兵器の威力も向上していたのだ。
「うん、今日も絶好調だね」
ドローンが送ってくる動画でそれを確認し、影山は指揮車の中でご満悦の笑みを浮かべる。
そうして、五回ほど投擲を繰り返し、敵を半数以上も倒したところで、刹那は大剣を手に走り出した。
三十mの距離を切った瞬間、一斉に放たれてきたCEの光線を大剣で防ぎ、一気に加速して接近戦に持ち込む。
既に何十回と繰り返されてきた必勝パターンであり、今回も一発すら被弾する事なくCEを蹴散らすと、誰もがそう信じていた。
何故なら、彼女は英雄だから、無力な人々を救う剣の聖女だから。
そう信じて、勝利を確信していたからこそ、目に映る光景が理解できなかった。
刹那がCEに向けて振り下ろそうとした瞬間、大剣が光の粒子となって消滅したのを。
「……えっ?」
京子も綾子も、影山や戦車隊の面々すら、何が起きたのか分からず唖然とした。
これは後になって判明した事だが、幻想兵器が突然消滅したのは、幻想変換器の停止コードが使用されたためであった。
幻想兵器は強力な武器であるからこそ、自分達に向けられた時のために、無力化できるように用意されていた物だ。
ただ、これを知っているのは開発者の影山明彦の他には、新町駐屯地の司令官である宮田大介、陸上幕僚長の岩塚哲也と、あとは統合幕僚長と防衛大臣のみ。
そして、彼らの秘密を探れる近しい者達だけ。
刹那の底抜けな優しい性格を知った今、影山すら存在を半分忘れていた停止コードが使われた。
その事実に思い至るよりも早く、一秒に満たぬ一瞬の間に、少女の胸に赤い花が咲いた。
「――――」
背中から胸にかけて大きな穴が開き、血しぶきで雪を真っ赤に染めながら、刹那の体が倒れ込む。
狙撃されたのだ、変換器を停止して幻子装甲が切れた瞬間を狙って。
発射音は響いてこない。減音器を使用した上で、かなり長距離から撃ったのだろう。
ただ、この場に居た誰もが、そんな事を考える余裕も無く、思考が真っ白に染まっていた。
凍り付いた時間の中で、刹那を取り囲むCE達だけが、ただ淡々と中央のコアに赤い光を集めていく。
「だめ……」
京子の口から洩れた掠れ声が、通信機を通して伝わったのだろうか。
刹那は雪を染めていく己の血を眺めながら、弱々しく口を動かした。
「…………ね」
あまりにも小さく、誰にも聞き取れなかったその声が、彼女の遺言となった。
二十体のCEから一斉に放たれた光線が、死にゆく少女の体を穿つ。
一瞬、痙攣するように震えた後、彼女の体は永遠に停止した。
それが、うるさいぐらい元気だった少女の、あまりにも静かすぎる最期。
「いや……いやあああぁぁぁ―――っ!」
京子の悲鳴が指揮車の中に響き渡る。
それでも、影山と綾子は現実が理解できず、認めたくなくて氷像のように固まり続けた。
だから、最初に動き出したのも京子であった。
「刹那、刹那ぁぁぁ―――っ!」
喉が裂けるほど叫びながら指揮車を飛び降り、倒れた少女に向かって雪原を駆ける。
後輩の狂乱したその姿を見て、綾子もようやく我に返って後を追った。
「やめろ、死ぬ気かっ!」
「けど、刹那が、刹那がっ!」
綾子が背中から羽交い絞めにしても、京子は振りほどいて少女の元に行こうと必死にもがく。
そんな彼女達の遥か先で、CEは今までにない不可解な動きを見せていた。
少女の遺体を円状に囲むと、大地に降りてそのまま動かなくなったのだ。
「何をしている……?」
その異常な行動を警戒して、我に返った戦車隊の隊員も動けずにいた。
停止した今のCEなら、10式戦車の主砲で容易く打ち砕ける。
けれども、こんなに密集されていては、目標を貫いて軌道の変わった砲弾が、少女の体を吹き飛ばしてしまう。
そんな逡巡から動けずにいた彼らの耳に、新町駐屯地から通信が飛び込んできた。
「馬鹿な、二千体の援軍だとっ!?」
報告を受けた戦車隊の中隊長は、思わず驚愕の叫びを上げてしまう。
今この軽井沢に向けて、西の長野ピラーからCEの大軍が押し寄せているというのだ。
その数は二千体以上。開戦時を除いて一度に五百体前後の小部隊しか送り出してこなかったCEが、何故そんな大部隊を、しかも援軍として短期間の内に送り出してきたのか。
その謎を考える余裕は戦車達の面々にはなかった。
「駄目だ、弾が足りなすぎる」
後ろに控えた自走砲の中隊は、既にほとんどの弾を使い果たしている。
戦車中隊は弾薬を全て残しているが、一発も外さず全弾命中させても三百体も倒せない。
圧倒的な戦力差を前に、取れる作戦など一つしかない。
「……撤退する」
戦車中隊の隊長は、断腸の思いで命令を下す。
共に戦ってきた戦友が、娘のように可愛がっていた少女が、人とCEの手によって殺されたというのに、その犯人探しも遺体の回収もできず、おめおめと逃げ出すしかないなんて。
綾子はその決断を通信機越しに聞き、暴れる京子の体を引っ張った。
「逃げるぞ、このままでは敵に囲まれる!」
「でも刹那が、刹那が……っ!」
泣きながら手を伸ばす後輩に向けて、綾子は血を吐くように怒鳴った。
「やめろ、刹那は死んだんだっ!」
その言葉に一番の衝撃を受けたのは、叫んだ本人であった。
綾子は認めてしまったのだ、妹のような少女の死を。
認識してしまったのだ、もう二度とあの子の笑顔を見られないと。
「刹那は、死んだんだ……っ!」
堪え切れず頬を濡らしながら、綾子は同じ言葉を繰り返し、まだ生きている後輩の体を引きずり、指揮車の中に連れ戻す。
「何で、何であの子が……っ!」
泣き崩れる京子を乗せて、指揮車は戦車隊と共に軽井沢の雪原から逃げ去っていく。
その間、影山は微動だにせず座り続けていた。
呼吸も脈拍も、知性や感情さえ忘れた彫刻となって、もうパソコン画面の中でしか見られない、少女の笑顔に目を向けながら、死人のように固まり続けていたのだった。
その後、軽井沢まで進軍してきた二千体のCEは、何故かそこで踵を返してピラーの元に戻って行った。
新町駐屯地の第12対戦車中隊は、敵の不可解な動きを警戒しながらも、急いで軽井沢に取って返す。
必死の探索により、現場から一㎞以上も離れた森の中から、減音器つきのM24A2・ボルトアクション狙撃銃と、逃亡のために利用したと思われるスノーモービルの痕跡を見つけるが、あまりにも時間が経ちすぎていたため、犯人を探し出すのは絶望的であった。
そして、CEの群れが去った後には、赤い血の跡が残っていただけで、天道寺刹那の遺体も何故か姿を消していたのだった。




