第84話 追憶・英雄の足音
新町駐屯地内にある寮の個室で、刹那は机に向かっていた。
ピンと背筋を伸ばし椅子に座った少女が、窓から差し込む光を浴びて黒髪を輝かせる姿は、それだけで一枚の絵画のようである。
彼女は暫し黙って机に目を向けると、白魚のような細い指で握っていたペンをゆっくりと置き、大輪のヒマワリを思わせる鮮やかな笑みを浮かべてこう告げた。
「分かりません」
パンッ!
アホな少女の頭が、鋭い音を立てて叩かれる。
「何でよ、さっき解き方を教えたばかりでしょっ!」
京子は丸めた教科書を手に、額に青筋を浮かべて怒鳴った。
CEの襲撃がない時は暇であるし、機密の関係で学校に通わせる訳にもいかないからと、彼女が勉強を教える事になったのだが、刹那は文学少女っぽいその容姿とは裏腹に、実に残念な頭脳なのであった。
「だから、因数分解はまず式を整理するの。この問題ならyを――」
「今度はマカロンを作ろうと思うんだけど、京子ちゃんは何味が好き?」
「やっぱり基本のショコラ――じゃなく、ちゃんと勉強しなさいっ!」
怒ってもう一度叩くと、刹那は不満そうに頬を膨らませた。
「だって数学つまんないし、社会に出ても使わないでしょ?」
「使うでしょうが、帳簿計算とかプログラミングとかで」
「で、でも――」
「因数分解その物は使わなくても、それを解ける計算能力は役立つわよ」
「うぐっ……」
そんな反論は聞き飽きたと、京子に完全論破されて、刹那は声を詰まらせたが、直ぐに開き直って鼻歌を鳴らす。
「いいも~ん、私は大学に進学しないで素敵な旦那様に養って貰うから」
「そういう戯言は恋人の一人も作ってから言いなさい」
「うぐっ……そんな事を言って、京子ちゃんだって彼氏いないくせにっ!」
「わ、私の事は関係ないでしょっ!」
痛い所を突かれて、今度は京子が狼狽してしまう。
「京子ちゃん、オッパイ大きいし美人なのに、料理も掃除も下手だしねー。男より仕事を取って絶対に婚期を逃すタイプだね、間違いない」
「嫌な予言はやめなさい」
京子は溜息を吐き、また教科書で頭を叩いて黙らせる。
この呪いが最低でも六年は続く事を、当然ながら当時の彼女は知らない。
そんな風に騒いでいると、個室の扉が開いて綾子が姿を見せた。
「刹那、そろそろランニングをするぞ」
「分かった。ところで綾子ちゃんは恋人とかいるの?」
「ちょ、馬鹿っ!」
京子が慌てて止めようとするがもう遅い。
刹那に問われた綾子は、少し驚いた顔をした後で、苦笑しながらスマホを取り出した。
「残念ながら恋人は居ないが、好意を抱いている者ならいるぞ」
「えっ、どんな人?」
恋バナが好きな年頃の少女らしく、刹那は喜んで差し出されたスマホを覗き、そして硬直した。
そこに映っていたのは本当に可愛らしい――小学生の男の子。
「最近売り出し中の子役でな、清野翔太君・十歳――」
「変態だぁぁぁ―――っ!」
喜々として語り出す綾子から、刹那は絶叫を上げて後ずさる。
「だから止めたのに……」
高校の時、憧れの先輩だった綾子から性癖を打ち明けられて、失恋にも似たショックを受けた事を思い出し、京子は深々と溜息を吐く。
そんな後輩達を見て、ショタコン三尉は心外だと眉を曲げた。
「失礼な奴らだな、私は純粋に翔太君を応援しているだけだ、下世話な気持ちなどない」
「そ、そうだよね、綾子ちゃんに限って犯罪なんて――」
「触らなければ犯罪ではないとよく言うだろう?」
「やっぱり犯罪者だぁぁぁ―――っ!」
堂々と胸を張るショタコンから、刹那はまた悲鳴を上げて後ずさる。
そして、ハッと重大な事に気付いてしまう。
「あ、綾子ちゃん、まさか私の弟に……」
「悪くないが背が高すぎるし、二年もすれば私の好みから外れそうだから興味は無いな」
「むっ、それはそれで腹が立つような……」
「どうしろと言うのだ」
膨れて幼稚園時代の弟の写真を見せてくる刹那に、今度は綾子の方が困惑する。
「何やってんだが……」
ブラコンとショタコンのアホらしい戦いに、唯一の普通人である京子は呆れて言葉も出ない。
もちろん、この六年後に十四歳年下の少年に心惹かれて、世間的には犯罪者扱いされても文句が言えなくなるなど、当時の彼女は知る由もなかった。
「ほら、二人とも早く走ってきたらどうですか」
「そうだったな、行くか」
「うん、でもその前にちょっといい?」
綾子の誘いに頷きつつ、刹那は机に置いていた幻想変換器を手に取る。
「どうした?」
「ふふっ、実はね……必殺技を思いついたんだっ!」
「はぁ?」
また馬鹿な事を言い出したと、綾子達は呆れた眼で刹那を見る。
しかし、それは確かに必殺技と呼ぶのも大げさではない、新たな技ではあったのだ。
幻想兵器のテスト場として既に定着した倉庫の中で、刹那は幻想変換器を腕に填めながら、試し斬りの的である壊れたワゴン車と向かい合う。
「見ててね」
背後の京子達に声をかけると、刹那は両手を前に突き出して膝を軽く曲げた。
「こぉぉ――」
まるで気功を練るように息を吐き出し、集中力を高めたかと思うと、幻想兵器も呼び出さず素手で廃車に殴りかかる。
「せいやっ!」
いくら運動神経が良くても、少女の筋力では車を殴った所で、少しへこませるのが関の山。
しかし、一瞬眩く輝いた刹那の拳は、ワゴン車の扉を反対側まで吹き飛ばしたのであった。
「何……っ!?」
「どう、凄いでしょ!」
呆気に取られる京子達の前で、刹那は得意気に胸を張る。
そこへ、パチパチと拍手が鳴り響いてきた。
「見事なものだね、さしずめ『集中幻子拳』と言ったところかな」
「影山先生、戻っていたんですか?」
昨日から東京に出かけていた准教授の姿に、京子は驚きの声を上げる。
「つい先程ね。それより京子君、今のパンチの仕組みが分かったかな?」
「先生がつけた名前のおかげで」
テスト前の教師が浮かべる意地悪な笑みで問われ、京子は半信半疑ながら頷き返す。
「幻子を集中した拳……つまり、幻子装甲を集めて攻撃したという事ですよね」
「正解だ、そうだろう刹那君?」
教え子にも拍手を送りつつ、影山は刹那を見る。
しかし、必殺技を開発した当人は難しい顔で唸っていた。
「集中幻子拳……悪くないですけど、長くて叫び難くないですか?」
「いや、そこは問題ではなかろう」
「確かに長いが、僕の大好きなロボットアニメで似た技が有ってね、是非採用して貰いたい」
「いや、何故ロボアニメから取った」
呆れた綾子のツッコミも聞こえない様子で、刹那と影山はネーミング会議を始めてしまう。
それが一段落するのを待ってから、京子は准教授に訊ねた。
「ところで、東京に用事って何だったんですか?」
「防衛大臣からの呼び出しでね、刹那君の同類を増やしたいのだそうだ」
「幻想兵器の使い手をですかっ!?」
京子は驚き、そして難しい顔で考え込む。
刹那が実戦を経験してから既に二ヶ月が経っており、最近では戦車隊の撃ち漏らしたコアを掃討するだけでなく、結晶をまとった無傷のCEも三体くらいは、彼女が直接倒すようになっていた。
その戦績を考慮すれば、幻想兵器の使い手を増やしたいという防衛大臣の意向は分かる。
世界中がCEの脅威に晒され続けている現在、弾薬やミサイルの原材料、戦車や戦闘機の燃料はどこも喉から出るほど確保しておきたく、資源が少なく大部分を輸入に頼っている日本は、この先どんどん厳しい状況に追い込まれていくだろう。
そんな中、精神エネルギーだの認識力だのと怪しすぎる代物だが、僅かな電気くらいしか使わない幻想変換器はとてもエコな武器として、CEとの戦いに大革命をもたらし、日本を支えてくれるのは疑いない。
だから、常識に囚われず幻想兵器の有用性を認めた防衛大臣は、実に優れた判断だったと言えるだろう。しかし――
「使い手が、そう都合よく見つかりますか?」
難しい話とみて興味を無くしたのか、一人でシャドーボクシングを始めた刹那をチラリと窺う。
容姿もそうだが、恐怖を抱きながらもCEと戦う強い意志と、天に与えられた戦闘の才能を持ったこの少女は、ハッキリと言って奇跡の結晶である。
同等の才能を持った子供が、この日本に二人と居るとは思えない。
少なくとも、肉体と精神の均衡が丁度良くとれた、同年代の高校生では皆無だろう。
そんな京子の考えを悟り、影山は苦笑して頷いた。
「難しいだろうね。でも戦えるレベルでよいなら、何千人に一人くらいは見つかるんじゃないかな?」
そう、刹那レベルと高望みをしなければ、幻想兵器の適正者であり、かつ戦える勇気の持ち主は、希少ではあるが唯一無二というほど稀有ではない。
「どちらかと言うと、子供を戦わせる事への世間の反発が面倒だろうね」
「確かにな」
横で話を聞いていた綾子も深く同意する。
刹那を戦わせている事さえ、マスコミに嗅ぎ付けられたら問題となり、人権屋や現政府を下ろしたい野党などが、これ幸いと利用して大騒動に発展させるだろう。
人道なんて生ぬるい事を言って勝てるほど、CEは甘くないのだが、それを分かっている者が国民にどれだけ居るか。
「こう言っては怒られそうだけれど、CEの被害は長野とその周辺だけで済んでしまった。そのせいで日本人全員にまで危機意識が伝わらなかったからね」
北海道、東北、九州、沖縄といった地域では、長野にピラーが出現してCEが人々を襲った事も、テレビや新聞でしか伝わっておらず、どこか遠い地方の話でしかない。
長野だけでなく世界中にピラーが出現し、何億という人が死んだという、あまりにもスケールが大きすぎる話のため、逆に現実感が追いついてこないのだろう。
また、最初の大襲撃以降、CEは数百体規模の小部隊でしか攻めて来ず、自衛隊で防衛しきれいている事も危機意識の欠如に繋がっている。
口では「CEって怖いわね」「早く退治してくれないかしら」と言っても、本当の意味で現状の危機を理解している者はいったい何割ほどいるか。
東京や大阪といった大都市の住民も、避難者が流入してきたり、自衛隊の出動を見たりはしているが、CEを直接見た事もなければ被害に遭った事もない。
そんな恐怖を実感していない者達に、「子供を戦わせないと駄目な所まで追いつめられているのだ」と告げたところで、はたして信じてくれるかどうか。
「輸入量の減少による物資不足、防衛費を増やすために税金の上昇などで、今よりも根深くCEの脅威が人々に伝わらないと、幻想兵器使いの存在を公表して、大勢集めるのは難しいだろうね」
守るべき国民の、本来であれば美徳と称される子供への気遣いが、CEへの戦力募集を阻害するという皮肉。
(まさか、これを読んで初戦以降、大部隊での攻勢を仕掛けてこないのでは?)
綾子は思わず、そんな被害妄想じみた事まで考えてしまう。
それを読んだわけでもないが、影山は笑って付け加えた。
「どのみち、まだ具体的なプランは何も決まっていないお話さ。大きなプロジェクトになるから予算も人員も必要だろうし、動き出すのに一年以上はかかるだろうね」
「そんな悠長な……」
「悠長に考えられるだけの戦力は残っているだろう?」
呆れる京子の声を受け、影山は陸上自衛隊の三尉を見る。
そんな挑発的な事を言われては、綾子も頷くしかない。
「CEの襲撃ペースが変わらないのなら、四年か五年はもつでしょう。政府の財政がどうなるかは知らんがな」
「ははっ、消費税が何パーセントまで上がるか楽しみだね」
「それ、洒落になってませんよ……」
楽しそうに手を打つ准教授の横で、京子はげんなりと肩を落とした。
そんな大人達の会話に、シャドーボクシングにも飽きた刹那が参加してくる。
「とりあえず、私の仲間が増えるって事ですか?」
「随分先になると思うけれどね」
「それは嬉しいなー。いっそ皆で『円卓の騎士』とか作ろう!」
また中二病っぽい事を言い出した高校二年生に、綾子は苦笑を浮かべる。
「それだと、ケルト神話系の光剣を使うお前は参加資格なしだな」
「えっ……やっぱり円卓はなし、もっとゆるふわ系でいこう!」
「何よゆるふわ系って」
「お菓子とかお茶を一緒に食べる、楽しい部活みたいな感じ?」
「いや、ここは学校じゃないんだから……」
京子は呆れて否定するが、隣の影山は真剣な顔で考え込む。
「ふむ、学校か……」
いくら適性のある子供であろうと、精神が擦り減って感情を無くせば、幻想兵器は使えなくなってしまう。
そういう意味では、自衛隊のような規律に厳しい環境より、普通学校のような緩い場所の方が幻想兵器使い向きとはいえる。
「いいね、考えておこう」
「本当ですか、やった!」
「影山先生、正気ですか……?」
「さて、どうだろうね」
また呆れ顔で無礼な事を言う教え子に、影山は曖昧な笑みを返して答えを濁した。
彼の計画通りに刹那が『英雄』へと成長するなら、他の幻想兵器使いも学校も必要ないのだから。
ただ、それを表には出さず、計画のために一歩を踏み出す。
「ところで、人々に幻想兵器使いを認めさせるためにも、刹那君の戦闘動画をネットに上げようと思うのだけれど、協力してくれるかな?」
「えっ、動画ですか?」
「影山先生、それは拙いのでは……」
驚く刹那の横で、京子は心配そうに顔を曇らせる。
影山が独自で開発した物とはいえ、自衛隊の協力を取りつけた今、幻想変換器の事は軍事機密である。
それを自ら世間に漏洩するなど、スパイ行為として逮捕されて当然であろう。
しかし、教え子の心配を影山は笑って吹き飛ばした。
「既に大臣の許可は取ってあるよ。それに、美少女が光の剣を手にCEと戦う姿なんて、誰も本当だと信じやしないさ」
「美少女なんて、いや~」
「照れている場合か」
頬を赤らめ頭を掻く刹那を、綾子が呆れて小突く。
確かに、少女が伝説の大剣で結晶の化け物と戦うなんて、それこそ幻想のような光景を、現実と思い込む者は少ないだろう。
しかし、その動画を見た者達は、真偽はともあれ知るのだ。
幻想兵器を操る天道寺刹那という『英雄』を。
その認識は確実に力となって刹那に集まり、強い力がさらなる活躍を呼び、そしてより大きな噂となって広まっていく。
まるで偶像のように知名度と人気が爆発的に広まったその時こそ、『英雄』は長野ピラーを破壊してこの日本を救う。
そんな影山の計画は露知らず、刹那は乗り気でスマホを取り出す。
「よし、じゃあもう一回車を殴るからこれで撮って」
「そんな蛮族みたいな姿を見たら、弟が泣くわよ」
「むぅ……じゃあいっそ、私達三人でバンドデビューしようっ!」
「目的が変わってない!?」
「ボーカルなら任せろ」
「先輩も何やる気になってるんですかっ!」
騒ぎながらスマホで集合写真を撮る三人は、心から楽しそうに笑っていた。
それを眺める影山もまた、顔に笑みを浮かべていたが、それが作り物の愛想笑いなのか、それとも本心からのモノか、知っていたのは本人だけであった。




