第74話 退場
まだ生徒達が眠っている日曜日の早朝から、綾子は自室で重い溜息を吐いていた。
その理由は目の前に立つ少女、千影沢音姫のもたらした報告にあった。
「そうか、アメリア・フィリップスがな……」
金曜日の深夜から土曜日の朝にかけて、監視を行っていた園城焔達をガスか何かで昏倒させ、その隙に天道寺英人と肉体関係をもった。
それを防げなかったのは工作員として大失態であり、報告が一日も遅れるなど言語道断である。
しかし、綾子は音姫を怒鳴り付けたりはしなかった。
(私にこの子達を叱る権利など無いからな……)
英雄を飾る花であり護衛として、素質を持った幼い少女を集めて教育を施す。
五年前、天道寺刹那という希望の星を失い、その弟を代用品にする『機械仕掛けの英雄』計画を発案した、あの男が強行した狂気。
綾子はそれを止められなかった。いや、止めなかったのだ。
人道にもとる計画ではあっても、少年が自分は特別だと、選ばれた英雄だと思い込み、ピラーを破壊できるほどの英雄とするには、実に効果的な手段であったから。
知りながら止めなかった自分も、あの男と同罪であるという負い目。
そして何より、人型CEの手により二十一名も欠けて負担が増えていたのに、対策が遅れていたのも事実。音姫達を叱責する資格などない。
そう自責の念に駆られつつ、綾子は起きた事への対処に頭を回す。
「疲労が溜まっているようならば、多少不審に思われても構わんから、交代で授業をサボって休め。とにかく、天道寺英人の警護に集中して、同じ事が二度と起きないようにしろ」
元からたった八人での二十四時間警護に無理があるのだが、そちらの対処は遅れたものの既に行っている。
「習志野から何人か送って貰う事になっている。それまでは我慢してくれ」
千葉県の習志野駐屯地に駐屯する特殊作戦群、『特戦』や『S』と呼ばれる自衛隊でも選り抜きの特殊部隊。
そこから何名か天道寺英人の警護に回して貰い、一年A組女子の抜けた穴を埋める予定であったのだ。
「どこぞの馬鹿が横槍を入れねば、もっと早く呼べたのだがな」
綾子は激しく舌打ちしながら、どこかの馬鹿こと新町駐屯地の司令官・風見正紀の事を罵った。
自分の出世と保身にしか興味がない俗物であり、戦車隊の出撃を拒んで二年生の草壁洋太を死なせた犯人と言ってもよい男。
それがどこから聞きつけたのか「特戦は陸自の部隊なのだから、新町駐屯地の指揮下に入るべきだ」などと文句をつけて、特高への派遣に反対していたのだが、ある意味で災い転じて福となした。
「お陰様で問題が起きた。責任は取って貰わねばな」
三十一歳と若い女性でありながら、三佐にまで上り詰めた彼女に嫉妬し、時流も読まずに私心で妨害をしてくれた報いが訪れたのであろう。
今回の件だけでは弱いが、最前線の司令官でありながら、極端に出撃を嫌って特高に、つまり子供達に戦闘を押し付けた風見を嫌う者は自衛隊内でも多い。
是非とも責任を負わされて降格、自主退職にまで追い込まれて欲しいものだと、綾子は悪い笑みを浮かべた。
音姫はそれに同じ笑みを返してから、生真面目な顔に戻って訊ねる。
「了解しました。ですが、天道寺英人の方からアメリアの部屋に向かった場合は?」
「……好きにさせろ、止めてエネルギーを余計な方向に向けられても厄介だ」
綾子は再び溜息を吐き、匙を投げるように言った。
女の味を知った若い少年に、歯止めなど効かない。
まして、自分は何でも出来ると思い込んでいる、思い込むように作られてきた英雄様である。
他国のスパイに誑かされるなと事実は言えぬし、下手に止めれば他のロシア人や中国人に手を出すだけであろう。
(性交を禁じていたのが裏目に出たか……)
英雄の花として集められた美少女揃いの一年A組女子であったが、キスや抱き着く行為は積極的に行うよう言われていたが、最後の行為だけは厳重に禁止されていた。
これはもちろん、未成年だからなんてお綺麗なお題目のためではない。
性行為に没頭して、英雄の本質であるCEとの戦いをお留守にさせないため。
そして、たった一人の女に『英雄』という兵器の操縦桿を握らせないためである。
情を交わした愛する女が「○○を殺して」とでも枕元で囁けば、あの愚かで直情的な少年はその通りに動く。
事実、裏切者の犬塚霧恵によって、長野ピラーに単身突撃するという醜態を晒していた。
英雄を囲む三十名もの美少女というハーレムは、『英雄色を好む』という故事に習っただけでなく、英雄の好意をたった一人に限定させないためという理由もあったのだ。
それを他国の工作員に出し抜かれたのは痛い、だが致命傷ではない。
「アメリカだったのが幸いだな、ロシアや中国であったら面倒な事になっていた」
同じ民主主事陣営であり、CE出現以前から友好関係にあったアメリカは、日本を救った後に英雄を派遣する第一候補となっている。
なのに女に誑かされた英雄が、共産主義陣営のロシアや中国を救いに行くと言い出したら、それは本人にその意図がなくとも、アメリカと民主主義陣営に宣戦布告するのも同じである。
「いっそアメリア・フィリップスとの仲を公表した方が、アメリカのご機嫌を損ねず良いかもしれんな」
アメリカを明確な味方とすれば、ロシアや中国も迂闊に手出しできなくなる。
過去にとある疑いがあるため、綾子としては諸手を上げて賛成はしかねる案であったが、日本を守るためならば仕方ない。
ともあれ、そのような政治的問題を決めるのは彼女ではなく、霞ヶ関の仕事である。
「まぁいい、それらも含めて報告してくる」
綾子はそう言って立ち上がる。
今日、彼女は東京に向かい、首相や防衛大臣達に計画の進捗を説明する手筈となっていたのだ。
既に世間はテレビも雑誌も若き英雄・天道寺英人の話題一色となってる。
騒ぎになっていないのは日本中でも、噂の中心地である特高くらいであろう。
世間の熱狂的な願望の力により、英雄の力は爆発的に増大している。
それと共に「今すぐピラーを破壊するべきだ」「どうしてCEを滅ぼさない?」という不満の声も徐々に上がってきていた。
これは政治家達も同じで、焦れて突撃命令を下しかねない彼らを抑えるために、現場の指揮官である綾子から直接説明して欲しいと、陸上幕僚長・岩塚哲也から頼み込まれたのだ。
「計算通り行けば、あと一ヶ月程度で目標値に到達するというのに、我慢の効かん奴らの相手は疲れる」
英雄の力が増大しただけでなく、長野ピラーが縮小して弱体化した事も合わせて、ようやく悲願が叶う所まで辿りついたのだ。
しかし、ここで焦って破壊に向かい失敗すれば、犬塚霧恵に唆された時とは比べ物にならない窮地に陥ってしまう。
あの時は隠蔽に成功したが、世間の関心が集中している今、英雄が長野ピラーを破壊できなければ、その噂は絶望となって世界中を駆け巡り、そして事実と化してしまう。
幻子が運ぶ『認識力』がそのように、『英雄ではピラーを破壊できない』と世界を書き換えてしまうのだ。
一度根付いた思い込みは、そうそう覆す事など不可能であり、人類にはもう一度やり直す時間など残ってはいない。
正真正銘、これがラストチャンスなのだ、万全を期すのは当然であった。
最悪、クーデーターでも起こしてやろうかと、物騒な事を考えつつ綾子は部屋を出て、音姫もその後を追った。
「それにしても、何か良い事でもあったか?」
任務に失敗して暗く落ち込んだ様子もなく、むしろ晴れ晴れとした雰囲気さえ漂っていた事を不思議に思い、改めて問いかける。
すると、音姫は苦笑を浮かべながら答えた。
「最高に嬉しい最低な事を言われたので」
「何だそれは?」
「まぁ、少し吹っ切れただけです」
訝しむ綾子を、音姫は曖昧な台詞で誤魔化す。
まさか、天道寺英人を愛している『千影沢音姫』役が、他の男を押し倒してフラれたとは言えない。
それに、この恥ずかしくて大切な想いは、誰にも明かせない彼女一人の宝物だ。
世界中の人間が、自分さえもが『私』を忘れてしまっても、あの唐変木で優しい槍使いだけは、きっと生涯忘れず覚えていてくれる。
最後まで名前すら明かさなかった、性格が悪くて恋人にしたくない、弱虫な少女の事を。
なら、『私』が消えて『千影沢音姫』になってしまっても、構わないと思ったのだ。
「元気ならそれでよいが……」
嬉しそうな音姫を伴い、綾子は自室のある地下三階から一階まで階段を上る。
そうして昇降口に向かおうとした瞬間、廊下の角から黒い影が飛び出してきた。
両手で握りしめた煌く白刃で、彼女の身を突き刺そうと。
「――っ!?」
僅かに反応が遅れた綾子の体を、隣の音姫が咄嗟に手で押しのける。
そして、襲撃者の刃は反射的に防御した彼女の左腕を貫通し、腹に突き刺さった。
「……っ」
「千影沢っ!?」
声も無く倒れ込む彼女の身を心配しながらも、綾子の体は防衛大学校で教え込まれた通り、素早く襲撃者に襲い掛かった。
右腕を掴んで捻りあげ、痛みに怯んだ所を床に引きずり倒す。
斬撃、刺突、打撃、射撃、あらゆる攻撃を無効化し、衝撃さえ緩和する無敵の幻子装甲とて、筋力が増大するわけではないため、関節を極めれば反撃できない。
完全に動きを封じてから、綾子は改めて襲撃者の顔を睨み、僅かに驚きの声を漏らす。
「ハク・メイファン、何故貴様が?」
「くっ……!」
中国からの転校生という名の工作員、それが綾子の命を狙った刺客の正体であった。
音姫の体を貫いた凶器は、その幻想兵器である曹操の名剣・青紅の剣。
幻子装甲を持たぬ綾子であれば、胴体が真っ二つに切り裂かれていた事だろう。
「私だ、直ぐに一階まで来てくれ!」
犯人の尋問より音姫の治療が先決と、綾子はメイファンを押さえつけたまま、スマホを取り出して指揮所から救援を呼ぶ。
十秒とかからず駆けつけた教員達は、状況に驚きながらも急いで担架を持ってきて、重傷の音姫を乗せる。
幻子装甲と左腕を盾にしたお陰で威力が削がれたのだろう、腹まで刺さってはいるが致命傷という深さではない。
剣が抜けて出血さえしなければ、十分に助かる傷であった。
救急車を呼ぶより装甲車で運んだ方が早いと、外に運ばれていく最中、音姫は額に脂汗を滲ませながらポツリと呟く。
「意地悪しすぎた、罰が当たったかな……」
「しっかりしろ、絶対に助けるからなっ!」
苦笑を浮かべる彼女に、教員達は必死に呼びかけながら装甲車に乗せた。
「色鐘三佐、そいつも連れて行かないと刺さった剣が」
「幻想兵器だから消えてしまうな。丁度良い、病院に寄ってからそのまま東京まで連行する」
三年A組の担任・日森健也の指摘を受け、綾子はメイファンを捕らえたまま、他の教員達と共に別の装甲車に乗り込み、音姫を乗せた先行車を追わせた。
その間に、縛り上げた襲撃者への尋問を開始する。
「言え、なぜ私を狙った」
常に護身用として持ち歩いているコンバットナイフを、顔面の横に突き刺しながら脅す。
しかし、メイファンは怯えもせず、憎しみのこもった瞳で睨み返してきた。
「お前が我が祖国を見捨てたからだ!」
「……はぁ?」
一瞬、何を言われたのか分からず、綾子達は揃って首を傾げてしまうが、メイファンはそれをおちょくっているとでも思ったのか、さらに声を荒げて叫んだ。
「とぼけるなっ! お前が我が祖国に英雄を派遣しないと決めたのだろう!」
「……あぁ、そういう事か」
綾子はようやく納得して頷いた。この娘が本物の馬鹿であり、誰かに騙されたのだと。
長野ピラーを破壊して日本を救った後、ピラーを破壊できる英雄という兵器を、次はどこの国に回すかという狸の皮算用は、政治家達の間で盛んに話されており、その第一候補がアメリカなのは確かである。
だからといって、中国を救わないという話はどこからも聞いた覚えがない。
しかし、メイファンは誰かに偽の情報を囁かれ、それを信じてしまったらしい。
次も、そのまた次も、英雄は中国に派遣されず、CEの手で滅ぼされるのを日本が望んでいると。
「あれは我が祖国のモノだ、我ら人民十億を救うためのモノだっ!」
「……お前の祖国は随分と人材不足なようだな」
身勝手に英雄の所有権を主張するメイファンに、綾子は呆れのあまり怒りよりも憐みを抱く。
(中国も今まで独裁を続けてきた与党の力が、CEとの戦争でガタ落ちして、野党が大頭してきたという噂を聞く。その辺が関係しているのかもしれんな……)
与党が送り込んだ人材が、日本で大きなミスを犯せば、それは与党を糾弾する材料となる。
それを狙って、野党と手を組んだ与党の裏切者が、思い込みが激しいだけの無能な少女を送り込むように仕向けた。それが一番有り得そうな筋書きであった。
まさかそこに、ロシアまで絡んでいるとは、その時の綾子は知りもしなかったが。
ともあれ、一自衛官にすぎない彼女に、そんな政治的問題に足を突っ込む気はない。
そして、英雄の行く末を左右する決定権とて持ち合わせていなかった。
「誰に何を吹き込まれたのか知らんが、私にどの国を救ってどの国を見捨てるなんて権力はない」
そんなご大層な力があれば、五年前にあの子を死なせずに済んだ。
思わず歯軋りしながら、綾子はメイファンの襟元を掴み上げる。
「私を殺したって世界は変わらん、そしてお前が死んでもな」
「ふ、ふんっ、やってみるがいいネっ!」
睨み付けてくる綾子に、そんな事は不可能だと、メイファンは余裕の顔で挑発し返す。
あからさまな工作員とはいえ、賓客扱いの転校生を殺せば国際的な大問題となる。
だから、綾子はメイファンを殺したりはしない。ただ丁寧に可能性を示唆してやるだけだ。
「お前が英雄を殺そうとしたから捕らえた、そう世間に喧伝すれば殺すには十分な理由だな」
日本の、そして世界の希望である英雄・天道寺英人を害そうとした。
もしもそんな事になれば、政府が匿っても熱狂した民衆が犯人を生かしてはおかない。
「そ、そんな事、誰が信じ――」
「日森健也二等陸尉」
メイファンの震える声を遮って、綾子は背後に控える日森に問う。
「この女は天道寺英人を、あろう事か幻想兵器で殺害しようとした、見ていたな?」
「はい、間違いありません」
「なっ……!?」
絶句する中華娘を、日森も憐れんだ目で見下ろす。
ここは綾子達のホームグラウンドである日本、情報などいくらでも好きに操作できる。
そう、英雄という偶像を造り出したように。
「安心しろ、日本の政治家はご存じのように弱腰でな、貴様を死刑になどは出来んさ」
CEにより傷ついたとはいえ、中国はいまだに核を保有する大国、そこに喧嘩を売る気概のある政治家は残念ながら居ない。
「だが、貴様の誇らしい祖国の連中はどうだろうな?」
英雄を殺そうとして日本のひんしゅくを買った。
そのせいで英雄の中国派遣は見送られて、今だ何本も残るピラーが破壊不可能となり、出現する無数のCEに何十万もの人民が殺される。
そうなれば、そうなると思い込めば、中国の民衆や政府がメイファンをどうするかなど、一々考えるまでもないだろう。
「私も日本も貴様には何もしない、ただ祖国に帰してやるだけだ。嬉しいだろう?」
「ひっ……」
綾子は実に優しく残酷な笑みを浮かべ、息を呑む哀れな少女に背を向けた。
「自害させないよう、口を縛っておけ」
「待って! 助け――」
今更己が仕出かした事を理解し、命乞いしようとしたメイファンの口を、日森達がローブを噛ませて塞ぐ。
その騒がしい音から逃れるため、綾子は操縦席の横に座りながら、本日何度目とも分からぬ溜息を吐いた。
「今日中には帰って来れんな」
アメリカが出し抜き中国が暴走、その報告と対応会議だけでも一日が潰れるであろう。
病院に運ばれた音姫が心配であったが、見舞いに行く余裕すらない。
ともあれ、まずは到着が大幅に遅れる事を報告しなければと、重い気分でスマホを耳に当てるのだった。




