第73話 君の名前
人間型CEとの戦いから四日が経った土曜日の夜、宗次はいつも通り人気の無い校舎裏で槍を振るっていた。
(ようやく、ここまで辿り着いた)
一手間違えば死に繋がる極限の緊張感に晒された事で、空壱槍術流の奥義・無ノ一をついに繰り出す事ができた。
師匠である祖父がこの事を知れば、喜んで彼に免許皆伝を与えるだろう。
だが、空壱流はここが終点ではなかった。
槍術だけを見れば、無拍子で繰り出される一の突きを超える技は存在しない。
この先は祖父すら辿り着いておらず、流派の開祖のみが開眼したとされる領域。
全てがない『無』では何も生み出せない。
無でありながら有でもある、相反する二つを矛盾なく内包する『空』――太極、太一とも呼ばれる万物の根源へと至る道。
(分からんな……)
言葉だけは祖父から教えられていたし、精神鍛錬の瞑想も行っているが、それがいったいどんなモノか、どうすれば身に着くのかは、実家に残る秘伝書の類にも全く書かれていなかった。
自らの手で到達しろという、開祖から未来の弟子達への宿題なのだろうが、もはや哲学思想の域であるそれに、宗次は辿り着ける自信がなかった。
そもそも、『空』へと至る道は、真理を理解して御仏へと至る『悟り』と言っても過言ではない。
CEとの戦いに役立つかと言われれば、甚だ疑問が残った。
(闘争に囚われている内は、悟るなど無理だろうしな)
そう思い、とりあえずは無ノ一をより確実な物とするため、いつも通り練るような突きを繰り返していた所で、ふと気配を感じて振り返った。
後ろに居たのは予想通り、桜色の髪を両脇で結んだ少女、千影沢音姫。
だが、普段とは違って気配を消しておらず、俯いて顔を見せようともしない。
「こんばんは」
「…………」
挨拶をしても返事がなく、ただ俯き続けるだけ。
その様子に困惑しつつ、宗次は機会がなくて告げ遅れていた礼を口にする。
「あの時、助けてくれてありがとう」
蜻蛉切を手放して人型CEに追い詰められた時、彼女が気を引いて時を稼いでくれなければ、いずれ敗れていただろう。
「あと、怪我は大丈夫か?」
人型CEの蹴りを受けて赤黒く腫れていた、音姫の左腕に目を向ける。
もう腫れは引いた様子だが、今も軽く包帯が巻かれていた。
宗次が心配して声をかけると、彼女は肩を震わせながら小さな声を漏らす。
「何で……っ!」
貴方ではないのか、貴方が居たりするから。
八つ当たりめいた怒気を放ちながら、彼女は顔を伏せたまま宗次の前に詰め寄ってくる。
「どうした?」
訝しむ彼の胸を両手で押しながら、足を蹴り払う。
咄嗟の事で避けられず、地面に倒れ込む宗次の上に、彼女は跨って押え込んできた。
「本当にどうした?」
敵意や悪意が感じられないからこそ、こんな事をされる意味が分からない。
困惑する宗次に向かって、彼女は前髪で顔を隠しながら、絞り出すように懇願する。
「……抱いて」
「何?」
「私を抱いてよっ!」
叫びながら彼女は顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは、三日月のように口を吊り上げたいつも通りの笑い顔。
だが、その瞳には大粒の涙が溢れていた。
「好きなように犯せばいい、無茶苦茶に汚してしまえばいいっ!」
「待て、お前は――」
「そうよ、私は『千影沢音姫』だもの、天道寺英人の幼馴染で、彼が大好きで……だから、全部壊してやる……っ!」
彼女の顔がくしゃりと歪み、宗次の胸にいくつもの水滴が落ちる。
彼女は全部分かっているのだ。例え『千影沢音姫』が他の男に抱かれても、天道寺英人は嫉妬に怒り狂うどころか、何の関心も示さないだろう事が。
彼は英雄だから、絶対の勝者だから、恋人を奪われるなんて敗北を喫するわけがない。
だから、千影沢音姫への好意なんて無かったと、妄想を都合よく書き換えるだけだ。
いや、それならばまだ良い。『英雄』だから仕方ないと、彼のせいではないと言い訳できる。
けれど、きっと、間違いなく、天道寺英人という少年は元から、千影沢音姫という少女を愛してなどいない。
英雄の自分に相応しい、トロフィーとして愛でていただけだ。
そうでなければ、会って二週間程度の外国人転校生を抱いたりなどしない。
それが、一番近くに居た彼女だからこそ、痛いほど分かったのだ。
「お願いだから、全部壊して……」
『千影沢音姫』の涙を、『私』という器ごと、全部壊してこの世から消してしまえばいい。
そうすればもう辛くない、悲しくもない。
弱虫と罵って目を逸らしてきた、一人だけ生き延びた罪悪感や、消えたくないという自我の叫びからも解放される。
「…………」
懇願する彼女の複雑な内心を、宗次が知るはずもない。
ただ、らしくない辛そうな顔が見ていられなくて、自然と手を挙げて濡れた目尻を拭う。
すると、彼女は何かを堪えるように口を結んでから、ゆっくりと顔を近づけてくる。
涙で濡れた唇を、そっと宗次の口に重ねようとして――横から差し込まれた彼の手に阻まれた。
「……どうして?」
顔を離し、問いかけてくる彼女の声に、怒りの色はない。
ただ、迷子になった子供のように、弱々しく寂しそうに揺れていた。
その瞳を見ていると、決意が鈍りそうになる。
けれども、宗次は心を鬼にして本当の気持ちをぶつけた。
どんなに酷くても、今ここで甘く優しい虚言を囁き、その身を抱きしめたりすれば、『彼女』が本当に壊れて消えてしまいそうだったから。
「お前は性格が悪いから、恋人にはしたくない」
一瞬、泣き声も、遠くから響く虫の声も、全てが消え去って静寂が落ちた。
そして、彼女は宗次に跨ったまま、再び肩を震わせ始める。
だがそれは、先程とは全く別の感情から来るものであった。
「あはっ、あはははっ! そうね、そうよね、『私』は性格が悪くて恋人になんてしたくない女よねっ!」
「そうだ」
「うん、知ってる」
頷く宗次の前で、彼女は口の端を吊り上げるいつもの性格が悪い表情を浮かべ、そして腹を抱えて笑った。
もちろん、宗次は知るよしもない。
それこそが、『千影沢音姫』という仮面に侵食されて見失っていた、『彼女』の欲しがっていた答えだなんて。
どんなに酷くても、優しくなくても、『彼女』を見てくれた証だったと。
「あー、本当におかしい」
晴れ晴れとした顔で涙を拭い、彼女は宗次の上から退いて立ち上がる。
「笑わせてくれたから、腕の怪我はチャラにしてあげる」
「そうか」
すっかり普段の調子に戻った彼女を追って、宗次も立ち上がる。
そして、余計な言葉かもしれなかったが、素直な気持ちを付け足した。
「さっきの言葉は嘘じゃない……ただ、俺はお前が嫌いではない」
間違っても恋人にはしたくない、性格の悪い少女である。
愛情はない、好きかと言われると首を傾げる。
けれど、こうして月光の下で彼女と話すのが、嫌いではなかったのだ。
それも確かに宗次の本心。だがやはり余計な言葉だったらしく、彼女は苦虫を噛み潰したように嫌そうな顔をした。
「そういう、自分を善い奴に見せたいだけの中途半端な優しさって、女にとってはウザいだけよ」
「そうか、悪かった」
頭を下げて謝ると、彼女は呆れて深い溜息を吐く。
「大丈夫だと思うけど、一応忠告してあげる。女はね、いつだって自分だけを愛して欲しいの、自分が一番でないと嫌なの。『貴方を独り占めなんて出来ない』とか『愛してくれるなら順番なんて気にしない』なんて男に都合の良い言葉は、全部嘘っぱち」
多数の嫁が全員、仲良しこよしの一夫多妻ハーレムなんて、現実にはありえない。
いや、仮にあったとしても、それは許されるだけの器量と財力を持つ男だからこそ。
間違っても収入のない学生に過ぎず、女の嘘も見抜けない間抜けな少年には無理な話。
「ご自慢の槍で二羽も三羽も貫いたら、私じゃなくても背中から刺されるわよ?」
「…………」
なんとも返答に困る事を言われ、宗次は思わず黙り込む。
それを誤解したのか、彼女はまた呆れ果てた顔をしながら切り込んだ。
「まさか、自分に好意を寄せている子が分からない、なんて言わないわよね?」
そこまで救いようのない唐変木ならダーインスレイブで刺すと、不穏な眼差しを向けられて、宗次は困りながらも頷いて見せた。
「あぁ、分かっている」
麗華、シャロ、そして陽向、彼女達が自分に戦友以上の好意を向けてくれている事は、流石の唐変木槍使いとて理解していた。
「本当? 誰か見過ごしてそうだけど」
その時、ギリギリ二十代の保健医が、ただならぬ悪寒を感じたかどうかは定かではない。
「で、どうして応えないの?」
何となく察しはついている様子だが、あえて言葉として求めてきた彼女に、宗次は自分の気持ちを探るようにゆっくりと答える。
「俺は、恋愛感情というものがよく分からない」
言葉の意味は知っている、本やテレビから大まかなイメージも掴んでいる。
ただ、実感としていまいちその気持ちが分からなかったのだ。
「村に、同じ年頃の子も居なかったしな」
一番歳が近いのが六つ年下の女の子で、赤ん坊の頃から知っているため、妹のように大切には思えても、女性としては見れなかったという、育った環境のせいもある。
そして、今の環境も恋愛が許されるものではない。
「仮に恋人関係となった後で、自分が死んで悲しませたくはない」
正二十面体型の手によって、二度と覚めない眠りについた二年生・草壁洋太。
雨宮水樹を泣かせた彼のように、恋人を悲しませたくはないのだ。
「失くすのが怖くて掛け替えのない者を作らないか……それも、想いを伝え損ねた後悔が残るだけじゃない?」
「かもな」
その可能性は否定できない。だから、宗次が少女の想いに応えないのは、結局のところ自分の都合でしかなかった。
「未練を抱けば、きっと槍が鈍る」
死にたくないという気持ちは、時として生きる力にもなるが、同時に死地へ突き進む足を鈍らせる枷ともなる。
死中に活あり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、命を惜しめば無の一撃は放てない。
だから、今は生きて想いに応えるためにこそ、死ねる身でありたい。
「うわっ、出たよ自分勝手な男理論」
彼女はそう責めるような事を口にしたが、顔は笑みのままだった。
それが不器用な彼なりの、偽りのない誠意であったから。
「まぁ、せいぜい頑張りなさい」
私を振ったのだから中途半端だけは許さない、とでも言うように背中を向ける。
「バイバイ」
顔を合わせぬ別れの挨拶。そこに込められた意味を宗次も気付く。
彼女はもう二度と、自分の前に現れる事はない。
陽光の下で顔を合わせる事はあっても、月光の下で性格の悪い笑みを見せる事は一生ない、本当の別離を込めた言葉。
それを分かったから、宗次も最後に一つだけ、どうしても聞きたかった事を口にしたのだ。
「お前の、本当の名前は?」
彼女は立ち止まり、振り返る。
そして、実に彼女らしい性格の悪い答えを告げたのだ。
「絶対に教えてやらない」
楽しそうに歯を見せて、嬉しそうに目を細めて。
それが、宗次が最初で最後に見た、彼女の本当の笑顔だった。