第40話 絶望の認識
校舎の地下三階にある自室で、仮眠を取っていた色鐘綾子は、枕元に置いた通信機の音で夢の世界から引き戻された。
「どうした」
『天道寺英人がヘルメスのサンダルで寮から脱走、おそらく長野ピラーに向かいました』
千影沢音姫の感情を消した平坦な声が、寝起きの頭に落雷のごとき衝撃をもたらす。
「……間違いないんだな?」
驚愕を飲み込み、努めて冷静に聞き返す綾子に、音姫も頷き返す。
『はい、犬塚霧恵がそそのかしたようです』
一年A組女子の一人であり、今晩、天道寺英人の話し相手を務めていた少女。
それが涙を流し、胸や太ももを押し当てて、恥じらいもなく色香で誑かしながら、英雄の耳に吹き込んだのだ。
――お願い、みんなの仇を、長野のピラーを倒して、日本を救ってっ!
と、居もしない両親兄弟、友人がCEに殺されたと嘘を吐き、同情まで誘って。
本来であればそんな勝手な真似をせぬよう、天道寺英人の傍には常に二人以上がつき、相互監視する手筈となっていた。
しかし、犬塚霧恵はもう一人の少女・竜宮都子を昏倒させてトイレに閉じ込め、目覚めるまでの僅かな間に英雄を唆したのだ。
「飼い犬に手を噛まれたか」
綾子は激しい頭痛と目眩を覚え、掌で顔を覆った。
本来、A組女子は天道寺英人がこのように唆されないよう、見張るのが役目であった。
英雄の振るう聖剣の力は凄まじく、だからこそ誰かに騙され悪用されぬよう、監視する必要があるからだ。
また、同級生や上級生に紛れて、『敵』が英雄を害さないという保証もない。
そんな、見張りと護衛の任務を果たすため、特高が完成するよりさらに以前、今より四年前より密かに候補者を探し、幻想兵器の使い方や戦闘法、そして男を手玉にとる話術や、本心を隠して媚びる演技を教え込んできたというのに。
「犬塚霧恵は確か、新飼議員の親戚だったな……ちっ、だから言ったものを」
綾子は思わず舌打ちしてしまう。
『機械仕掛けの英雄』プロジェクトが開始され、A組の女子を集めた時、世間にはまだ幻想兵器の事は公開されていなかった。
そのため、候補者選びも一般人には知られぬよう、秘密裏に行われた。
例えば、孤児院の子供達に病気の一斉検査と偽り、密かに適性を調べたり。
特に、六年前のピラー出現時の襲撃により、両親を失った子供は優先して調査された。
とはいえ、それだけでは約五千人に一人の適応者が、そうそう集まるものではない。
そこで、政府が命令を下したのだ、『プロジェクトの内容を知る政治家や自衛官の子供、または信頼できる親戚の子供からも適応者を探そう』と。
無論、綾子や京子達、プロジェクトの関係者は強固に反対した。
信頼できる親戚と言っても、人の口に戸は立てられない。
どこから機密が漏れるか分からなかったからだ。
そして何より、プロジェクトの柱である英雄・天道寺英人の傍に立つ者に、政治的な思想を絡めたくなかったからである。
まさに今回のように、私利私欲に駆られて英雄を操り、プロジェクトを崩壊させられては堪らないからだ。
しかし、現場の訴えは政府の手で握りつぶされてしまった。
それこそ、私利私欲を剥き出しにした、政治家達とその背後で金を動かす者達によって。
(新飼議員は与党だが、野党の議員や米露の大使と接触した疑惑が有ったな)
金か女で落とされたか、それとも自分や家族の命を盾に脅されたか、それとも最初から野党や外国のスパイだったのか。
どれであろうとも綾子には関係ない。政治家の始末は政治家に任せるしかない。
だから、彼女は自らに出来る事に専念する。
「犬塚霧恵の身柄は?」
『確保済みです』
「よし、そのまま目を離すな。間違っても死なせるなよ」
生きたまま防衛省の諜報機関に引き渡し、洗いざらい吐かせなければならない。
新飼議員やそのバックを暴き、二度と同じ馬鹿な真似をさせないように。
綾子はそう言明して通信を切ると、一つ深呼吸してから部屋の壁を全力で殴りつけた。
「また邪魔をするのか、貴様らは……っ!」
五年前の怒りと憎しみがぶり返し、思わず感情を爆発させながら、直ぐに冷静な指揮官の顔に戻って部屋を出る。
駆け付けた二階の指揮所では、既に天道寺英人の行動を知った職員達が、混乱しながらもその行方を追っていた。
「天道寺英人はどこに居る?」
「現在、妙義山の上空を西に飛行中です。このままでは……」
「ピラーを倒し行くつもりなんだろう」
馬鹿な真似を、と口の中だけで呟き、オペレーターに命じる。
「相馬原駐屯地に連絡、第12ヘリコプター隊に天道寺英人の追跡を求めろ」
「しかし、ヘリ隊を出しても……」
「捕まえられないのは分かっている。だが、何もしない訳にはいくまい」
いっそ、ミサイルで撃ち落として貰いたい気分だが、とは冗談でも言わない。
小娘に誑かされて無断出撃するような馬鹿でも、大切な英雄には変わりない。
「やはり、ロック機構をつけておくべきだったか……」
無意味な後悔と知りつつも、綾子は愚痴らずにいられなかった。
エース隊員が腕にはめた幻想変換器には、外部からの信号で幻想兵器や幻子装甲を停止させる機構が内蔵されていた。
しかし、天道寺英人の物だけは、その機構が物理的に組み込まれていない。
今回のように、幻想兵器の使い手が暴走した時、それを止めるための安全装置が無いと危険だと、重々承知していながらも。
何故なら、それで一度失敗し、かけがえのない者を失っていたからだ。
「色鐘三佐っ!」
「遅いぞ、京子」
一瞬、哀愁の念に捕われた綾子は、遅れて現れた京子の声で、現実へと意識を戻した。
「彼は?」
「ピラーに向かっている、止めようもない」
時速五十キロ以上で飛行する人型の物体を、空中で捕らえる方法があるなら教えて欲しいと、綾子は諦めの溜息を吐く。
そして、誰もが焦れて衛星からの映像を見守るなか、ついに天道寺英人は長野ピラーと対面し、その聖剣を振りかぶった。
荒い衛星の映像でもハッキリと分かるほど巨大な光が、一文字に大地を削る。
だが、全長七百mを超すピラーは揺るがない。
開戦当時、日本の陸海空自衛隊の総力をぶつけた時と同じように、一片も欠けることなくそびえ立っていた。
それは、この指揮所に集まった者ならば、誰もが知っていた事だった。
先日、前橋市に出現した小型ピラーを破壊した時のデータから、聖剣の威力、長野ピラーの強度、破壊に必要なエネルギーを概算し、今の二万倍は必要であろうと。
だから、分かっていた結果なのだ。それでも――
「聖剣が、効かない……」
「私達の作り上げた、英雄が……」
天道寺英人では長野ピラーを破壊できない。
その疑いようもない現実が、職員達の心を突き落とす。
ひょっとすれば、もしかしたらと、微かな希望を抱いていた分、絶望の闇は濃い。
こうなると分かり切っていたからこそ、綾子達はピラーを破壊しに行けと命じなかったのだし、音姫達は殴ってでも天道寺英人を止めようとしたのだ。
「これで何歩後退だ?」
「考えたくもないですね」
綾子の問いに、京子は嫌そうに首を振って見せた。
幻想兵器とは真偽に関わりなく、人々の想像や想いを集めて形成される武器。
それは何も、良い想いだけとは限らないのだ。
「天道寺英人君は、『機械仕掛けの英雄』は長野ピラーを破壊できない……そう私達は知ってしまった、思い込んでしまった。これがどこまで影響するか」
今この場に居る職員だけでなく、政府や自衛隊の高官にもこの報告はいく。
知るのは全部で千人程度だろが、天道寺英人の顔や名前までハッキリと知る者が少ない今、どれほどの悪影響が出るか。
ただ、こちらは時間と努力によって挽回できる範囲ではある。
入学当初はまだ、ネット上の微かな噂でしかなかった天道寺英人の存在は、前橋市を救った天を翔ける新たな英雄として、その認知度は爆発的に上昇している。
そうなるように、特高の職員達が画像や噂をバラ撒いたのだが。
ともあれ、このままネットで情報が拡散され、人々の関心がピークに達した所で、テレビや新聞というメディアでも情報を開示すれば、英雄の幻想は確固たるモノとなるだろう。
日本人・一億二千万人が認め、そして世界人口・七十億人が存在を知った英雄。
その膨大な想いのエネルギーが、聖剣の光となった時、必ずや長野ピラーを破壊して、この長く辛かった戦争を終わらせてくれるだろう。
何もかも、そのためだけに積み重ねてきたというのに、苦労の結晶が脆くも崩れ去ろうとしていた。
「……天道寺英人、ピラーから離れていきます」
呆然としていたオペレーターが告げる通り、衛星写真に記されたマーカーが、東に向かって移動を始めた。
「ヘリ隊に連絡、安全な所まで来たら地上に降りるよう誘導し、できれば回収してくれ」
「はい」
指示通り連絡を始めるオペレーターや、関係各所への通達を始める職員達を横目に、綾子は親友に問いかける。
「平気だと思うか?」
「分かっているくせに、聞かないでくださいよ」
京子は深く溜息を吐きつつも答える。
「自分は誰にも負けない英雄だという『幻想』が、『現実』によって砕かれてしまった。それに耐えられる屈強な精神の持ち主なら、そもそも自分が最強だなんて幼稚な『幻想』を信じ込める筈がないんですから」
辛辣な台詞に反して、京子の声は蔑みではなく、同情と罪悪感に満ちていた。
天道寺英人がそんな人物になるよう仕向けたのは、他ならぬ自分達であるからだ。
「厄介なモノだな、幻想兵器も、その使い手も」
今更だがやはり愚痴らずにはいられず、京子は天井を仰ぐ。
幻想兵器を形成する幻子は、人の感情によりエネルギーを発生させる謎の粒子。
それを操れる総量、幻子干渉能力とは精神力の強さだと、生徒達には教えられている。
しかし、これは精神力と言われて普通想像する、苦難を乗り越える意思の強さや忍耐力とは違うもので、感情の激しさといった方が正しい。
事実、怒りやすくワガママだった少女が、厳しい訓練と躾で自制心を鍛えられた途端、幻想兵器を使えなくなったという実験結果から、それは立証されている。
ただ、より正確に言うならば、幻子干渉能力とは『己の幻想を認識する強度』であり、もっと簡単に言うならば『思い込みの激しさ』であった。
つまり、自分がこの世の誰よりも最強で優れていると、心の底から思い込んだ者が、本当に最強の幻想兵器を使えるという事である。
そんな馬鹿な話があるかと、憤った者は沢山いた。
事実、幻想兵器の研究に最初から参加している京子でさえ、いまだに半信半疑な所がある。
だが、実験のデータがそれを証明していたし、何より『現実』とは人々が思っているよりも、ずっと曖昧で儚い『幻想』のようなモノなのだ。
量子力学を知っている者ならば、一度は聞いた事があるだろう。
『この世の全ては、人間が観測(認識)するまで存在しない』という説を。
アインシュタインでなくとも「私が見て(観測)していなくても、月は存在する」と言いたくなる、胡散臭い話である。
ただ、この説が真実だと、人間の認識が世界を造っているのだと仮定すれば、幻子という謎の粒子を説明できてしまうのだ。
人の認識が世界を造るエネルギーであり、幻子はそれを伝達する粒子。
大勢の人が認識する『伝説の武器』といった膨大なエネルギーを、幻子が運んで実体化させた幻想兵器。
個人の『存在する(生きている)』という認識のエネルギーを、幻子が体表に張り巡らせたバリアが幻子装甲。
自然界に存在する四つの力と、それを伝達する粒子。
『強い力とグルーオン』『弱い力とウィークボソン』『電磁力とフォトン』『重力とグラビトン』それに次ぐ五番目の力と伝達粒子こそが『認識力と幻子』なのだと。
物理学だけでなく、世界そのものが根底から覆されるこの説が、CEの襲来という緊急事態のせいで、人材も予算も時間も回す余裕がなく、深く研究されていないのは、果たして不幸なのか幸運なのか。
今の綾子達に分かるのは、ただ無情な現実だけである。
「心を折られた天道寺英人は、暫く戦えん」
どんな手を使っても立ち直らせるが、それが幾日かかるかは分からない。
「それまでは、今まで通り三年と二年を中心に、CEと戦うしかない」
聖剣の力をまざまざと見せつけられ、心にヒビが入った上級生達に、再び時間稼ぎの戦いを背負わせ。
「空いた穴は、他の一年達で埋める」
実戦経験が浅い新人達まで、たった一人の英雄を守るために使い潰す。
「分かったな」
「「「はい」」」
綾子の非情な命令に、指揮所の全員が重く頷き返す。
それしか道が無いと分かっていても、罪悪感が胸に重くのしかかりながら。
「……本当に、滅ぼして貰いたくなる」
そんな破滅を望む心さえエネルギーとなって、幻子は伝えるのだろうか。
天井を仰ぐ綾子の手を、京子は強く握りしめながら、漠然とそんな事を考えるのであった。




