第39話 凶星
それは、上級生達の心にヒビが入ってから、三日後の夜であった。
宗次はいつも通り、人気のない校舎裏で、訓練用の槍を振るっていた。
ただし、通常の練るようにゆっくりとした突きの練習に加え、十日前からは別の動きも行うようになっていた。
まずは突きを繰り出し、それを弾かれたように右上へ振ると、勢いに抗わずそのまま槍を半回転させて、反対の方で再び突く。
空壱流槍術にはない技であり練習法だったが、これからの戦いに必要と考え、試行錯誤の上に編み出した動きである。
それをたっぷり一時間も繰り返した頃であった。
「――っ!」
宗次は突然、振り返りもせず背後に向かって槍を突き出す。
手応えはない。だが直ぐ地面に着地する軽い音と、聞き覚えのある笑い声が響いてきた。
「あはっ、今日は冴えているのね」
口の端を三日月のように吊り上げて、美しい顔で不気味に笑う。
そんな顔をして、人の背後を取る趣味のある人物など、宗次は一人しか知らない。
「千影沢音姫」
「こんばんは、空知宗次君、また会ったわね」
あの日の夜と同じように、白々しい声で親し気に挨拶してきた音姫に、宗次は槍の穂先を下げながらも警戒した眼差しを送る。
「何の用だ?」
「別に、貴方が面白い事をしていたから、見ていただけ」
「…………」
「本当よ、何なら手伝いましょうか?」
また前と同じような事を言いながら、バレリーナのように片足立ちとなって、クルクルと反時計回りでターンを決める。
(知っている、という事か)
宗次が磨いていた技の意味も、それを編み出す事になった原因も。
美人保健医・保科京子に口止めを頼まれ、映助達にすら喋っておらず、生徒は知らないはずの情報を、目の前の少女は知っているのだ。
「お前は、何者だ?」
明らかに普通の生徒ではない。宗次の槍を避ける見事な体術といい、まるで多重人格のごとく、全く違う性格や振舞いを使い分ける所といい。
そう訊ねる彼に向かって、音姫はまた作り物めいた笑みで答えた。
「私は千影沢音姫、天道寺英人の幼馴染、そう言ったでしょ?」
つまり、それ以上は話す気がないという事だ。
宗次は正体の追及を諦め、話の矛先を変える。
「天道寺英人の傍に居なくていいのか?」
彼女はいつもコバンザメのごとく、四六時中休むことなく聖剣使いの横に立っては、腕をからませ胸を押し付け、周囲の男女を苛立たせていたからだ。
そう指摘すると、音姫は今日初めて笑み以外の表情を浮かべた。
「いつも同じ女が付きまとうと、いくらアレだって飽きるでしょう? だから今日は他の子に替わって貰ったの。それに……嫉妬するフリって、意外と疲れるものよ?」
ニヤリッと口だけは笑みの形を作りながら、目は不快な虫でも見たように細められる。
そんな音姫を見て、宗次が思った事はただ一つであった。
「……やはり、都会の女子は怖いな」
「そうよ、女は魔性なんだから、貴方も気を付けないと」
顔を青ざめる彼を見て、音姫も今度は心から愉快そうに笑った。
それに辟易しながら、宗次の頭には二つの疑問が浮かぶ。
(彼女は、どうして天道寺英人の傍に居る?)
まるで恋人のように、命さえ捧げるほど献身的に愛しているという顔で。
だが、今この瞬間に見せている、月明りに浮かんだ顔こそが本性だと言うのなら、音姫は天道寺英人の事を……。
人に命じられたにしても、その命じる理由が分からない。そして――
「どうして俺に話す、と思っている顔ね?」
「……よく分かったな」
内心を言い当てられ、宗次は少しだけ驚いたが、素直に頷いて認める。
そうすると、音姫はまた愉快そうに笑った。
「貴方は都合の良い井戸だから」
「井戸?」
「そう、王様の耳はロバの耳だって、時々叫びたくなるでしょう?」
つまり、秘密を喋ってストレス発散したい時の、都合の良い話し相手という事か。
「井戸に話したら、国中に知られるんじゃなかったか?」
「そうだっけ? ……それも楽しいかな」
隠したいのか広めたいのか、その胡散臭い笑顔から音姫の本心は窺えない。
ただ、たまに発散せねば耐えられないほど、多大なストレスが溜まっているのは事実のようだ。
「ストレス発散なら、ゲームか運動でもしたらどうだ?」
「だからこうして、貴方で遊んでいるのだけど?」
「俺にぶつけられても困るのだが」
「えぇ、困る貴方を見るのは楽しいわ」
「性格悪いな」
「うん、知ってる」
ニヤニヤと性悪な笑みを浮かべる音姫は、本当に性根が曲がっている。
だが、英雄の少年を妄信し、口を開けば賞賛しか言わず、敵には狂犬のように噛みつく、昼間の異常な姿よりは遥かに普通の少女だった。
「どうして――」
そんな真似をしている、という疑問が声になるより早く、音姫の表情が一変した。
「――っ!? 都子、どうしたの?」
急に左耳を手で押さえ、刃のように冷たい表情となって、小声で呟き出す。
そして、目を見開き驚愕した表情を浮かべると、弾かれたような勢いで学生寮の方を振り向いた。
「止めてっ! いっそ殴ってでも――」
物騒な事を叫んだ、その瞬間である。
カッと眩い光が寮の方から発せられたかと思うと、流星のような黄金の光が、西の空に向かって飛んでいったのだ。
「あれは、まさか……」
見覚えのある黄金の輝きに、宗次が嫌な予感を抱く前で、音姫は顔を右手で覆い、あらゆる負の感情がこもった声で吐き捨てた。
「最悪よ、あの○○野郎……っ!」
およそ女子らしからぬ罵声を漏らし、そのまま五秒ほど固まったかと思うと、直ぐにまた顔を上げた。
そこには、一瞬前の驚きも怒りもなく、見慣れた偽物の笑みが張り付いてた。
「またね、空知宗次君」
親し気にそう言い残すと、背を向けて風よりも早く駆け出して、あっという間に夜の闇に消え去った。
宗次にはそれを呼び止める間も、呼び止める気もなかった。
「何が起きた?」
問いかけても、音姫は絶対に答えなかっただろう。
つまり、彼女が悪戯で口を滑らす事すら許されない、重大事が起きたのだ。
宗次に分かったのは、事の大きさと、それを起こした人物の顔。
「天道寺英人」
リベンジマッチ以来、一言すら言葉を交わした事がない、だが装甲車ごと吹き飛ばされた事といい、上級生達の心を挫いた事といい、常に自分達の回りにまとわりついてくる英雄の影。
「……厄介だな」
呟く声には、人の善い宗次にしては珍しく、苛立ちが僅かに滲んでいた。