第19話 影
成り行きで天道寺英人との再戦が決まったその夜、皆が自室や談話室でくつろいでいるなか、宗次は一人で寮を出て、校舎の裏へと向かった。
その手には実家から送ってもらった、訓練用の長い木の槍が握られている。
「ふぅ……」
人目もなく静かな校舎裏で、宗次は呼吸を整え槍を構えると、両手で握った槍をゆっくりと前に突き出した。
亀のごとき遅いその突きを、時間をかけて何度も何度も繰り返す。
一見、楽そうな動きに見えて、宗次の額にはびっしりと汗が浮かび上がっている。
手、肩、背中、腰、太もも、足首からつま先まで、全身に意識を張り巡らせた突きは、体力以上に神経を疲弊させるからだ。
しかし、これを繰り返して最適の型を体に刻み込んだ先にこそ、空壱流の奥義である真の一突きがある。
まだその高みに手が届かない彼は、ただ一心にこの練習を繰り返すしかない。
丸一時間をかけ、三百回の突きを繰り返したところで、宗次は息を吐いて槍を置いた。
「今日はここまでだな」
普段であればもう一時間は費やすところだが、明日は授業に加えて大事な試合があるので無理はできない。
それに、もう一つ練習しておきたい事があったのだ。
「すぅー……はぁー……」
夜空の下で仰向けに寝転がり、大きく深呼吸を繰り返しながら全身の力を抜いていく。
素人が見ればただ寝ているように見えるが、これも重要な武術の鍛錬。
強めよと思えばまず弱め、閉めよと思えばまず開ける。
力を最大に入れるための、力を全て抜く方法、完全脱力の訓練であった。
「…………」
呼吸を平常に戻しながら、指先から順に力を抜きさっていくと、まるで体が溶けて消えていくようであった。
己の『我』が消えて『空』になるような感覚。
その中で、宗次はあえて右手だけは『有る』と、『色』を持って存在すると意識した。
体は消え去り、右手が脳にでもなったように、そこにだけ意識が宿る。
「……よし」
満足のいく感触を得られ、宗次は脱力を解き、槍を手に立ち上がった。
「本番でも上手くいけばいいが」
「面白い事をしてるのね」
息が掛かるほどの真後から、女の声が響いた。
「――っ!?」
ゾクッと恐怖で身が竦む前に、宗次の体は思考よりも早く、刻み込まれた動きを繰り出す。
右横に飛びながら回転し、槍を片手で薙ぎ払う。
空壱流槍術・柳風車
真後ろからの奇襲を避けながら、逆に相手の背骨を叩き折るカウンター技。
しかし、槍は何の手ごたえもなく空を切り、飛び退いて地面に着地する軽い音と共に、女の笑い声が響いた。
「あはっ、流石は実戦派の古武術、エグい技を隠しているのね」
天に輝く月と同じように、大きな弧を描く口で、嘲笑のような賞賛をさえずる。
その姿は、昼間見たモノと同じでありながら全くの別物。
「千影沢音姫」
「こんばんは、空知宗次君」
まるで夜道で偶然出会った友人のごとく、その女、音姫は親しげに挨拶を告げた。
「何の用だ」
「別に、貴方が面白い事をしていたから、話しかけただけ」
「…………」
「本当よ、貴方に危害を加える気はないわ」
両手を上げて無害を主張する音姫を、宗次は額の冷や汗を拭いながら信用する。
彼女が本気で自分を害する――殺す気なら、気配も無く背後を取られたあの一瞬で、決着はついていたのだから。
だからといって、警戒を緩める気にはなれない。
昼間、あれほど敵意を剥き出しにしていた女が、愛する男に泥を塗った相手に、笑顔で話しかけてくるなんて、誰が見ても異常すぎる。
「お前は、本当に千影沢音姫か?」
変装した別人か、双子の妹だとでも言われた方がまだ納得がいく。
そんな感情からふと零れた言葉に、音姫は何故か目を大きく見開き、そして天を仰いで笑い出した。
「あはっ、あはははっ! そうよ、私は千影沢音姫、天道寺英人の幼馴染で、彼の事が大好きなの」
「…………」
「父が銀行員で転勤が多く、小学校三年の時に英人と離れ離れになったけど、特高で運命の再開を果たしたの。嫉妬心が強くて英人が他の女の子と話していると、怒って暴力を振るったりもするけれど、二人きりの時は子供みたいに甘えるの」
「何を……」
「好きな食べ物はイチゴ、嫌いな食べ物はアスパラガス、好きなアーティストはルナティック・ブルー、ゲームやアニメは詳しくないけど、英人が子供の頃から好きだった『レジェンド・ヒーローズ』だけは集めているわ」
「何を言っている!」
宗次は聞いていられず、思わず大声で遮ってしまう。
音姫が自分のプロフィールを語るのが趣味な、痛い少女ならまだよかった。
しかし、台本でも読むように語る彼女の口は、あくまで笑みを形作りながらも、目だけはまるで虫のように、全く感情が宿っていないのだ。
天道寺英人に感じたモノとはまた別の、得体の知れない恐怖がそこにはあった。
「ごめんなさい、貴方が本当に愉快だから、少し嬉しくなっちゃって」
「…………」
「楽しませてくれたお礼に、一つだけ忠告してあげる」
その声には、恫喝する暴力の色はなく、雪のような温かさが微かに滲んでいた。
「貴方は、天道寺英人に勝てない」
希望でも予想でもなく、決まった事を語るような断定。
「貴方は強い、全学年のエース隊員を見ても、真正面から勝てる者はおそらくいないでしょう」
「背後からでなくとも勝てそうな奴が、目の前にいると思うが」
皮肉るでもなく素直な感想を告げると、音姫はさらに笑みを深めながら続けた。
「貴方は天道寺英人よりも強い、けれど勝つ事はできない。何故なら、望まれていないから」
「…………」
「勝者は、絶対無敵の英雄は、たった一人でいい」
それだけ言うと、音姫は背を向けて歩き去っていく。
彼女の姿が視界から完全に消え去っても、宗次は暫くの間、槍を下ろせず立ち尽くしていた。




