第102話 陰陽
特高に戻った宗次は、京子に事情を話すと、彼女の車で前橋市の病院へと向かった。
既に面会時間は終了していたが、病院側も彼女達の仕事は分かっているため、すんなりと通してくれる。
そして、扉の前で自衛隊員が警護している個室に入り、ベッドに横たわった綾子と顔を合わせた。
「あの男の事だな」
両手にギブスをはめた綾子は、宗次の顔を見て要件を察する。
中央情報隊からの連絡で、准教授と彼が接触した事、そして確保に失敗した事を知っていたからだ。
宗次は前置きを抜いて、頼まれた伝言を告げる。
「七月九日、長野ピラーが最後の反攻を行う。そして、長野ピラーを破壊すると同時に、英雄から翼を取り上げる。そう言っていました」
「……そうか」
綾子も流石に驚いて目をむくが、直ぐに納得した様子で頷いた。
「先輩、本当だと思いますか?」
京子はまだ信じられないといった顔をするが、綾子は疑わなかった。
「本当だろう。あの男は真実を隠す事はあっても、嘘を吐いた事はなかったからな」
自分の都合で真実を曲げる、それは真理の探求者たる科学者の誇りに反する。
綾子は影山という男を欠片も信じていなかったが、科学に対する真摯な態度だけは信用していた。
「ですが……」
京子が反論する理由は一つ。ピラーが何を考えどう動くのか、人間に予測できる筈もないそれを、どうして影山が知っているのか。
当然の疑問に対して、綾子は逆に問い返す。
「京子、お前ならもう勘付いているのだろう?」
「…………」
沈黙は肯定を示していた。常識に反する、信じられないという感情を除けば、予想自体は簡単であったからだ。
その答えをわざわざ口に出したりはせず、綾子は話を進めた。
「どちらにせよ、証拠もない話だが、幕僚長達には伝えねばなるまい。それに、ある意味では好都合だ」
既に『英雄』の力は長野ピラーを破壊できる所まで来たというのに、作戦を実行に移さないのは、日本の次はアメリカとロシアのどちらに向かわせるか、政治家達がいまだに決めかねているせいである。
この不毛な論議を、長野ピラーから攻めてくる形で終わらせてくれるなら、むしろ大歓迎である。
もちろん、死力を尽くした最後の攻勢となれば、開戦当初と同じように何万体というCEが溢れ出てくる事であろう。
その迎撃準備を今直ぐ整えねばならず、自衛隊本部は今から寝る暇もなくなる。
「問題はもう一つの方か」
綾子は眉間にシワを寄せて考え込む。
影山はピラーの破壊直後に英雄・天道寺英人を殺すと宣言した。
だが、今の天道寺英人を殺せる者など居るのだろうか?
人々の希望と願望を一身に受け、『世界を救う英雄』と認識されて、その通りの存在となったあの少年は、世界中のピラーを破壊し尽くすその日まで、どんな危険も打破し、または無意識の内に回避して必ず生き残るだろう。
人々が望む通りに平和と幸福を勝ち取って、用が無くなるその日まで。
あの刹那CEでさえ、直接倒す事は不可能だった英雄を、影山が殺せるとは思えない。
だから、殺す方法があるとすれば――
「来るだろうな」
「……はい」
綾子の言葉に、京子も思い詰めた顔で頷き返す。
英雄を殺す方法は無い。ならば、『英雄』の力を剥ぎ取って、ただの少年に戻せばいいだけの事。
そうすれば影山の宣言した通り、天道寺英人は翼を失って、空から地へ落ち死を迎える。
「空知、頼めるか」
影山の手から天道寺英人を守って欲しいと、綾子は頼み込む。
踏み台にしてきた生徒に頼るなど、恥も外聞もない情けなすぎる話であった。
それでも、宗次は文句など一言も口にせず、ただ強く頷いたのだ。
「はい」
天道寺英人が死ぬ事で、世界中のピラーが破壊不可能となり、大勢の人がCEに殺されるのを防ぎたいという気持ちはもちろんある。
だがそれ以上に、麗華やシャロ達を傷つけた、あの男が許せなかったから。
彼は自ら戦いを望み、京子と共に病室を出ていった。
夜の帳が降りた学生寮の前で、陽向は宗次の帰りを待っていた。
焼肉パーティーの途中でシャロと一緒に姿を消したのだ、乙女的な意味で心配して当然である。
しかも、先に帰ってきたシャロの方は、目を真っ赤に腫れさせて「何でもないであります!」と無理に笑うと、直ぐ部屋に閉じこもってしまった。
「うぅ~、いったい何があったのよ……」
怖くて電話を掛ける事もできず、頭を抱えて座り込んでいた陽向は、土を蹴る荒々しい足音に気付いて顔を上げた。
「宗次、君……?」
呼びかけようとした声が、急激に萎んでいく。
見慣れた彼の姿が、まるで別人のように感じられたからだ。
抜き身の刃を思わせる鋭利な殺気と、マグマの如き煮えたぎる熱を全身から発している。
怒っていた。常に冷静沈着で皆を支えてきた槍使いが、周りも見えぬほどの憤怒を浮かべていたのだ。
「宗次君っ!」
陽向は思わず悲鳴のような声を上げながら、彼の元に駆け寄った。
「……陽向さん」
今初めて彼女の姿に気付いたと、戸惑うように足を止める。
陽向はそんな宗次の前に立つと、両手で挟むように彼の頬を叩いた。
「……えっ?」
パチンッと乾いた音が上がり、驚いて目を見開く宗次を、陽向は真っ直ぐ見上げる。
「宗次君、凄く怖い顔をしてるよ」
その理由が何か、陽向は聞いたりしない。
自分達には話せない機密に関わる事であり、きっと知らない方が良い事なのだろう。
そして、誰かのためなら英雄の踏み台とて受け入れる彼が、これほどの怒りを浮かべるのは、自分のためではなくて、大切な人達のためだと分かっているから。
「何があったのか、知らないけれど」
優しさから生まれたその怒りを、陽向は否定しない。
ただ、自分のワガママで素直な気持ちを伝えるだけ。
「宗次君には、笑っていて欲しいな」
かつて、自分の無力さに絶望して自暴自棄になりかけた時、彼がそう言ってくれて嬉しかったから。
あの時の言葉を返して、陽向は太陽のように笑って見せたのだ。
「陽向さん……」
照れ臭そうな彼女の笑みと、掌から伝わってくる熱に、宗次の顔から憑き物が落ちたように険が取れる。
それと同時に、師匠である祖父の言葉が、急に思い出された。
――心を無くしては人に有らず、されど、心に囚われては獣にすぎず。
大切な人達を傷つけられて、怒りを覚えなくなったら、それはもう人間ではない。
けれど、怒りを晴らす事だけを考え、大切な人達の心を忘れれば、それもまた人間ではない。
――宗次よ、空壱流の開祖様は『空』を悟り、御仏に至ったと言い伝えにある。だがな、ワシはそうではないと思っておる。
奥義・無ノ一のさらに先、流派の終着点について尋ねた時、祖父はそう告げた。
――人は仏になれん。槍術なんて人殺しの技を磨いている者ならなおさらだ。
技を磨き強くなりたい、そんな我欲にとらわれた武術家が、何事にもとらわれない『空』を悟れるはずがない。
では何故、開祖は『空』を流派の名前としたのか。
――有って無い、無くて有る、相反する二つを矛盾なく内包する『空』の心。それを身に着けよと言いたかったのだとワシは思う。
無論、これは祖父の解釈にすぎず、正解である保証はない。
ただ、自ら悩み考え抜き、答えを見つける事こそが、秘伝書に何も残さなかった開祖の望む道なのであろう。
――極端に偏らぬ『中道』と言えば分かりやすいか? それとも、相反する二つの要素が絡み合う『陰陽思想』の方が近いか?
首を傾げる幼い宗次に、祖父はそう噛み砕いて説明した。
――だが所詮、男は陽であり無でしかない。形のない『空っぽ』な夢や野望に振り回される馬鹿だからな。
そう自嘲して、一度祖母の方を見てから笑って告げたのだ。
――だから、形ある現実を、『色』をしっかりと見据えた、陰の存在が必要なのだ。
「宗次君?」
不意に黙り込んだ彼を見て、陽向は不安げに声をかける。
すると、宗次はハッとした様子で我に返り、頬に当てられた彼女の手を取った。
「心配をかけてごめん。あと、心配をしてくれてありがとう」
もう大丈夫だと笑う姿は、いつもの彼に戻っていた。
「そっか、よかった」
ほっと胸を撫で下ろす陽向の脳裏に、一条の電光が走る。
(この雰囲気、行くなら今ではっ!?)
人気のない深夜に二人きり。散々浴びせられたヘタレの汚名を返上するなら、今この時しかない。
それに気付いて、陽向は咄嗟に勇気を振り絞った。
「宗次君! わ、私ね、君の事が――」
ただ、彼女は一つ忘れていた。己の恋愛運がマイナスにまで振り切れているという運命を。
「兄弟ぃぃぃ―――っ!」
陽向が『す』まで言った所で、寮の玄関から飛び出てきた映助の怒声が、全てを吹き飛ばした。
彼に続いて、一年D組の怒れる男子達まで集まっている。
「どうした?」
不思議そうに首を傾げる宗次に、皆を代表して映助が叫ぶ。
「どうしたもこうしたもあるかっ! シャロちゃんにいったいどんなエロい事をしたんやっ!」
「……はぁ?」
「二人で抜け出して、シャロちゃんだけ泣いて帰ってくるなんて、変態プレイを強要した以外に考えられんやんかっ!」
酷い誤解をしている映助に、他の男子達も追従する。
「言えっ! ロウソクとムチ、どっちを使った!」
「俺はむしろシャロちゃんに踏んで欲しいっ!」
「何て羨ま……いや羨ましいっ!」
「どうしてそうなった?」
嫉妬の黒い炎を燃やす仲間達に、宗次はただ困惑するしかなかった。
ちなみに、「シャロさんが告白してフラれたのでは?」という一樹のまともな意見は、残念ながらモテない男子達に無視されていた。
「しかも今度は、陽向ちゃんにまで手を出して、なんて羨ま……羨ましい、か?」
剣道少女と手を繋いでいるのを見て、さらに怒鳴ろうとした映助の声が、急激に萎んでいく。
他の男子達も、彼女の可愛らしい顔と、可愛らしい(比喩表現)体の一部を見て、戸惑った様子で顔を見合わせた。
「あっ、うん、羨ましいじゃないかな?」
「美人だし? スレンダーだし? 需要はあると思うぞ?」
「正直、ロリ以外のまな板に価値は……」
「バカっ! そんな事を言ったら可哀想だろっ!」
性格を知らなかった入学当初ならともかく、訓練でも宗次以外には負けなしで、男子達を容赦なく叩きのめしてきた猪娘を、今さら女子として見ている者はほぼ居なかった。
「…………」
盛大に地雷を踏み抜く映助達の姿に、宗次は言葉も無くして陽向を見る。
俯き肩を震わせていた彼女が、ゆっくりを顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは、先程の宗次より千倍は恐ろしい阿修羅の笑みだった。
「……心々杏」
「はい、こちらにっ!」
いつの間にか現れた心々杏が、舎弟のように膝をつきながら二本の竹刀を差し出す。
「……神奈」
「う、うん……」
玄関に立っていた神奈が、怯えながら扉を閉めて鍵をかける。
これで愚か者達の退路は断たれ、宗次は邪魔にならぬよう無言で下がった。
「えぇ、知ってたわよ。ロマンスの神様とやらが、胸の脂肪でエコヒイキするゲス野郎だって事くらい……」
「あ、あの、陽向さん?」
竹刀を両手に装備し、空間を歪ませるほどの殺気を放つ阿修羅の姿に、男子達はようやく己の愚行を悟ったが遅すぎた。
「胸が貧しい奴に人権はないってのかぁぁぁ―――っ!」
「そこまでは言って、ぎゃあぁぁぁ―――っ!」
乱舞する二本の竹刀によって、馬鹿な男子達が次々と宙に舞う。
剣の聖女にも負けぬその無双っぷりに、宗次は暫し呆気に取られ、そして腹を抱えて笑った。
彼は怒りも憎しみも、そして喜びや愛すらも障害と捨て去り、悟りの道を開く事など不可能な凡俗にすぎない。
ただ、この愉快な仲間達を守るためなら、きっと空とて掴み取ってみせる。
そう、心の底から思えたのだ。