タカ
「あのーそこのハエをとってください。」
右斜め後ろのある男性が言った。
下が伸びないのか、一生懸命手を伸ばしていた。
私はハエというか、昆虫全般が大嫌いだった。だからできれば触りたくないし、近づいてもほしくなかった。なのに、男性の欲しがっているハエは私のつかまっている棒の、手を添えた真上にいた。明らかに私に向けて発せられ、頼まれたものだった。
「あなたのご自慢の舌で捕まえればよろしいのでは?」
私は嫌味に聞こえないよう声色を調整しながら言った。
その人は気にせず目はずっとハエにくぎづけだ。答えてもくれないほど。
私は辺りを見回した。
私の前に座る完全防備の女性は知らん顔だし、隣に立つ男性は肩をすくめただけで、それがお断りのサインだったようだ。そうとなると私が捕らなければならない。他の乗客も知らん顔なのだから。しかしその捕る動作を考えただけでも寒気がする。
ハエが手をこする。まるで命乞いをするかのように。
「次は田原町です。お降りの方はバスが停車してからお立ちください」
沈黙の車内で完全防備の女性の後ろの席の人が降りる準備を始めた。
その音を聞きながら、私はどうやって手を使わずハエを捕らえるかに悩む。
「ハエ・・・・ハエをください・・・・」
男性は苦しそうに目を見開いて言った。これは我慢の限界なのだとわかる。命の危険を感じる。私は意を決してハエと向き合った。ちょうごあった(本当は買った肉を入れようとしていた)袋で、ハエを囲んだ。
ハエはびっくりしたようにその袋の中で飛び回り、やがて袋の底についたのを見て私は袋を閉じた。それを右斜め後ろの男性につきだす。すると男性は袋ごと舌でとり、飲み込んでしまった。
それからだった。
顔を真っ赤にしたかと思うと、男性は自分の首を両手で絞めあげた。そして顔色はどんどん悪くなる。
「田原町、田原町です」
何も知らない運転手はゆっくりとバスのスピードを落とす。そして止まった。
男性の時も同時に。
何も知らない顔して乗客の数人は降りる。そしてがたいのいい女性が乗る。その鋭い目ですぐさま死んだ乗客を見つけ、近寄ってきた。先ほど亡くなった男性を片手で持ち上げると、それをひざの上に乗せ、その席に座る。
「今日はいい日だねぇ」
がたいのいい女性は私の隣の男性にそう話しかけた。男性はひきつった笑みでそうですねと答える。
「次は田原町三丁目です」
私は近くのボタンを押した。ビーという音が鳴る。
がたいのいい女性は笑顔で窓の外を見、隣の男性はちょうど良い温度の中ハンケチで額を拭う。
「停車します」
何も知らない運転手はゆっくりとバスのスピードを落とす。そして止まった。
私は足下の鞄を持ち、運転手に定期券を見せバスを後にした。そのまま会社へと向かう。
今日の夕飯を考えながら。
勢いで書き上げたものです。
朝起きて考えつきました。
おつきあいいただきありがとうございました。