依頼
2010年8月14日午後9時、アメリカ合衆国、ニューヨーク、ウォール街
高層ビルが立ち並ぶウォール街は、朝から夕方までは市場から大金を巻き上げることに集中する者ばかりである。だが、夜になれば彼らは酒と女を求めるか、帰宅するかで、会社のために金を稼ごうとする者はごくわずかだ。
夜空で黒く染められたビルからポツポツと出る微かな明かりは、資金繰りに困っている金融機関が生き残るために抵抗している反応か、大金を掴むチャンスを持つトレーダーたちから生み出されているのだろう。そんな微かな明かりをオフィスの窓から眺めながら歩き回る男がいた。
男の名はロイド・クレセント。2000年代後半のサブプライムローン問題から始まった金融危機で、金融機関の株や債券を空売りしたことで莫大な利益を手にしたヘッジファンド―ウィンニング・ホース・パートナーズ―の代表である。5分前に爆発音とアラブ語の声だけを携帯電話に残し、消えたレイナの父でもある。
微かに電話から聞こえた音声で、レイナが誘拐されたという予測をロイドをすぐに始めた。金を稼ぐことに取り憑かれた彼とは違い、心優しい娘が誘拐されてもおかしくない。政情不安のイラクは、アメリカ人というだけで誘拐や殺人を行うテロリストたちの温床となっている国だ。これまでにもテロリストたちは何度もアメリカやその同盟国の出身者を人質にした事件を起こしている。
オフィスをただ歩き回ることをやめたロイドは自分の机に移動し、パソコンの横に置かれた電話の受話器を耳に当て、番号を入力した。コール音が3回なったあとに『ご用件は?』という無機質な女の声にロイドは答えた。
「デザート・ストーム」
ロイドが事情を一から話す手間を合言葉は省かせ、『秘匿回線に繋ぎます』と無機質な女の声に言わせた。
『ロイド。かけて来ると思ったわ』
受話器から先ほどの無機質な声の女とは別の女の声が聞こえてきた。ロイドはホッと息を漏らし、イスに座った。
「テロリストに娘が誘拐された。君の声の様子だと予想していたようだが」
ロイドの問いかけに女は無言のままだった。都合の悪いことには答えない。ただ、期待している言葉には答える。それが電話相手の女の特徴であり、彼女の職業なら仕方ないか、とロイドは思った。
「娘を助けてほしい。君の仕事の範囲ではないかもしれないが、私には君以外にこの件で頼れる者がいない」
『ええ、いいわ。でも条件がある』
「条件とは?」
『報酬は1000万ドル。ただし、場合によっては2000万まで上がるかもしれないわ。作戦の進行次第よ』
「1000万から2000万か。ま、用意できる金額だな。日本人の友人が立ち上げるヘッジファンドに同額を出資する予定だった。彼には悪いが、それを使おう。」
普通の家庭の父親なら応えられない要求金額だが、ロイドは即答で応えた。ただ、娘のためなら何でもやるという部分は普通の父親と共通するものだった。
「ところで」とロイドは続けた。
「なぜ、そんな大金が必要なんだ?娘の命が1000万ドル以下だとは言わないが、訳を聞かせてくれないか?」
『報酬と言ったけど、性格には費用よ。今回の作戦には傭兵を使うからね。私の手取りは0よ』
「傭兵?君なら米軍や優秀な部下をつかえるだろ?」
『あなたの娘をさらったテロリストは、米軍や部下には手を出しづらいのよ。でも傭兵なら金次第でそれを可能にするの』
どういうことだ、と状況を掴めなかったロイドだったが、それ以上の詮索をやめた。テロリストを相手にしたことのない自分には縁もない話だと思ったからだ。
「わかった。ただ、傭兵について詳細を教えてくれ。娘の命を預ける者のことは知っておきたい」
投資を決定する上で情報は欠かせない。ウォール街で生きてきたロイドの経験は傭兵の情報を聞くことを忘れさせなかった。
するとパソコンの画面にメール通知が現れ、ロイドをそれをクリックする。新着メールの内容を映した画面中央には、男女計6名のバストアップ写真が上下に3枚ずつ載っていた。
『そう言うと思って、情報をメールで送ったわ』
女のやけに早い用意にロイドは眉間にシワを寄せた。彼女がすでに作戦を用意して、メンバーも選定していたからだ。事件を予知していた彼女に疑問を抱いたロイドだったが、不信感は抱いていなかった。まさか彼女でも事件を自作自演にすることはないだろうし、そんなことをして何の意味があるのか理解できなかったからだ。『まずは最初に一番左上の女からクリックして』という彼女の指示に従い、ロイドは説明を聞くことにした。クリックすると、ブロンドで、頬まで伸びる前髪をわけた、横髪が胸まで伸びた美女の写真とプロフィールが出てきた。
ユウナ・ブルック
1985年8月14日生まれ。25歳。
出身:アメリカ合衆国オクラホマ州
2003年デルタ・ブレイドに所属
「ずいぶん簡潔なプロフィールだな」とロイドは呆れたような眼差しをして言った。
「デルタ・ブレイドというのは、作戦に参加する傭兵たちの所属する傭兵派遣会社か?」
『そうよ。国家への忠誠や愛国心なんて持ち合わせていない連中が集まる会社。金次第で平気で殺人を請け負うところは殺し屋みたいだけど、彼らのような連中のおかげで今回の作戦を実行できるの』
「それにしても」とロイドは言った。
「こんなお嬢さんが戦えるのかね?」
画面に映るブロンドの美女は童顔で、年の割には少女のように見える。
『彼女は元ユニオン・フォース隊員のアシュリー・ブルックの双子の妹よ。彼女も姉と同じく高い戦闘能力を持ってるわ。それに157cmの小柄で細身な体は潜入任務にも最適よ』
「ちょっと待て。ユニオン・フォースってあの対テロ特殊部隊だろ」
ユニオン・フォースとは2003年に創設されたアメリカの大統領直属の秘密特殊部隊である。大統領直属の部隊のために国防総省の所属ではない。ある意味大統領の「私兵部隊」のような存在である。その特徴はデルタ・フォース、CIA、傭兵派遣会社の精鋭たちが集められていた点だ。ユウナの姉のアシュリーも傭兵として部隊に参加していた。2008年にその存在と数々の非合法作戦が明るみになり解体された。
『そうよ』と女が言った。
『創設当時はユウナがデルタ・ブレイドの新人で、評価できる戦績もなかったから彼女に声は掛からなかったけど、今の彼女なら参加できたでしょうね。もっとも今は存在しない特殊部隊だけど』
「どうせなら彼女の姉の方に今回の作戦に参加してもらったほうがよかったんじゃないか?」
『ユウナの姉のアシュリーは部隊解体後は薬中のストリッパーに落ちぶれて、今回の作戦には不適格よ。言っとくけど、彼女以外のユニオン・フォースの隊員たちは落ちぶれなくても、そのほとんどが政府によって監視されていて、傭兵としては不適格だから』
「そうか」と言って、次の人物の写真をロイドはクリックした。画面には黒い短髪で、アゴに無精髭を生やした若い男の拡大画像と経歴が表示された。
マックス・ベルナー
1988年6月30日生まれ。22歳
出身:アメリカ合衆国、カリフォルニア州
2006年アメリカ海兵隊に入隊
2007年アメリカ海兵隊を除隊
2008年デルタ・ブレイドに所属
「おいおい、さっきのお嬢ちゃんよりも若造じゃないか。しかもなんだこの経歴。まるで新人じゃないか」
『彼は確かにいい経歴じゃないけど、戦闘能力は確かよ。それにまだ若くて、傭兵の世界にも染まっていない。彼みたいな青二才が一人ぐらいは必要なのよ。傭兵部隊の暴走を止めるためにね』
「そうか、まあいい」と何も言う気が起きないロイドは次の人物をクリックした。黒の短髪で眉毛の内側から太く、外側に向けて鋭くなったアジア系の男の拡大画像と経歴が表示された。
ジン・ヨシノ
1980年1月9日生まれ。30歳
出身:日本、熊本県
1998年フランス軍外国人部隊へ入隊
2003年フランス軍外国人部隊を除隊
同年デルタ・ブレイドに所属
「日本人か」と目を少し見開いたロイドは言った。
「平和ボケした国の奴にしては珍しい経歴だな」
『彼は戦場に身を置くことで、生き残る以外のことを考えたがらない人物よ。ある種の反社会性人物ね。外人部隊ではスナイパーとして頭角を見せ始め、彼の任期満了後にその腕をデルタが買ったのよ』
「次を見てみよう」と言ったロイドが次の人物をクリックした。栗毛の短髪の男の画像と経歴が出てくる。短髪を見飽きていたロイドだったが、これまでに見てきた連中よりも経歴を多く持つ男に注目した。
ウィリアム・クロウド
1967年4月28日生まれ。43歳
出身:アメリカ合衆国メリーランド州
1985年アメリカ海軍に入隊
1986年ネイビー・シールズに入隊
1989年パナマ侵攻に参加
1991年湾岸戦争に参加
1993年ソマリアのモガディシュの戦闘に参
加
2001年アフガニスタン戦争に参加
2003年イラク戦争に参加
2010年ネイビー・シールズを除隊
同年デルタ・ブレイドに所属
「ほう。多くの戦争に参加している男じゃないか。いかにも軍人って感じだな」
ネイビー・シールズに所属し、5つの戦争を生き残ったクロウドに対して、これまでに見てきた連中よりも頼りになりそうだ、とロイドは感じた。
『彼の特徴は経験よ』と女が返した。
『多くの戦争に参加しただけじゃないわ』
「と言うと?」
ロイドは受話器に視線を移し、女の言葉の先を待つ。
『ビンラディンを90年代から追っていたの。そのために軍での生活のほとんどを中東で過ごしているわ』
『そりゃ、今回の任務には適材だな』と言ったロイドはしばらくクロウドの画像を見つめた。彼がなぜ長年狙っていたビンラディンを追うのをやめ、デルタ・ブレイドに所属したのかが気になったが、そんなことを考えるよりも、次の人物の詳細を見る方が生産的だと、ロイドは考え、マウスを動かした。
次の人物はブロンドで、前髪を眉毛よりも下に垂らした男だった。その表情は凶悪犯のように見えた。経歴はそう見えてもおかしくないものだった。
スコット・レングラン
1962年2月14日生まれ。48歳
出身:ロシア連邦、モスクワ
1986年殺人罪および強姦罪により死刑宣告
を受ける
1998年デルタ・ブレイドに所属
2003年イラク戦争に参加
「強姦罪」という文字に、娘を持つ父親であるロイドは憤りを覚えさせられた。
「おいおいおい、何なんだこいつは!?犯罪者じゃないか!」
受話器からは『うっ!』と、怒鳴り声に耳を痛めさせられたと想像できる女の声が流れた。
『犯罪者であるのは過去の話よ。腕は確かよ。利用できる奴は使えばいいのよ』
女の言葉に呆れながらロイドは一つの疑問を彼女にぶつける。
「そもそもこいつは死刑囚じゃないか。そんな奴がなぜ今も生きてるんだ?」
『それは』と女が言って、しばらく間が空いた。機密情報を漏らすべきか女は考えたのだろう。
『95年にある作戦のためにMI6が脱獄させたのよ』
MI6ーイギリスの諜報機関ーの名を聞いたロイドはレングランの過去について詮索するのをやめた。イギリス人連中の作戦についてアメリカ人である自分が知っても仕方ないと思ったのだろう。
次の男で最後か、と思ったロイドはカーソルを移動させる。画面には整髪料で黒髪を立てた男の画像と経歴が出てくる。
ディヴァイド・ソーヤ
1973年11月14日生まれ。36歳。
出身:アメリカ合衆国ノースダコタ州
1991年アメリカ陸軍に入隊
1994年特殊部隊デルタ・フォースに入隊
2003年デルタ・フォースを除隊
2004年ハード・ラインと契約
2005年コールド・ナイフと契約
2006年ブラック・リヴァーと契約
2010年デルタ・ブレイドと契約
アメリカ政府が公式には存在を認めていない対テロ特殊部隊のデルタ・フォース。そこに所属していたソーヤは軍を除隊後、4つの傭兵派遣会社を渡り歩いている。まさに戦争屋で頼りになりそうだと、ロイドは思った。
「この男が今回の傭兵部隊の隊長か?」
対テロ特殊部隊出身、4つの傭兵派遣会社との契約、それらのキーワードからロイドはソーヤが部隊の中心だと推測した。
『そうよ。察しがいいわね』
「投資家としての本能かな」
『彼は同じデルタ・フォース出身のレクター・フォードやジャック・ハーディングと一緒に作戦に従事していたこともあるわ』
「そりゃ頼もしいな」とロイドは言いながら、2年前にニュースに写真が出ていたフォードとハーディングのことを思い出した。全世界に衝撃を与えた極秘の対テロ特殊部隊ユニオン・フォースの存在が明るみになった時のことだった。ハーディングはその部隊の隊長であったが、対テロ戦争で戦死。生き残った副隊長のフォードは、数々の非合法作戦の指揮をしていた責任を司法の場で問われ、現在はイリノイ州立刑務所に服役している。
ロイドはソーヤの画像を見つめた。元特殊部隊員、傭兵。ソーヤの率いる傭兵部隊が、救出作戦を成功をさせることを祈ることぐらいしか、ロイドにはできなかった。ロイドの座る椅子の後ろにある棚に、置かれた写真に写るレイナは笑っていた。それを見たロイドはため息を漏らしながら顔を天井に向けた。
『作戦は絶対に成功させるわ、ロイド』と言った女が電話を切った音が受話器から聞こえた瞬間、パソコンに映っていた傭兵たちの情報が自動的に削除された。