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初夏。穏やかな気候も過ぎ、そろそろ焼け付く暑さと纏わり付く湿気が鬱陶しくなってくる頃合い。人目を避けるように選ばれた学園の一室。そこには一組の男女が歯がゆい距離を保ちつつ談笑していた。
大人になる手前の初々しい雰囲気を纏わせたその一組は、恥ずかしそうに身を寄せ合う。互いを伺い、尊重し合いながら会話を続け、少しずつ距離を詰めては触れ合う寸前で正気に戻り、目を逸らす。
とても初々しい光景だ。
「美味しいよ。これ、作るの大変だったでしょう?」
「どうしても、何か形があるもので籐治くんを応援したかったんだ。だから大変じゃないよ」
「亜美……ありがとう。俺、頑張るよ。大会だって絶対優勝してみせるから!」
「うん。頑張れ、籐治くん!」
少女が少年に手渡したものは両手サイズのタッパー。その中身はレモンの蜂蜜漬け。
こっそりその光景を別室で見ていた二人の人物は、思わず拳を握った。そしてにんまりと笑う。青春万歳、と。
なんてベタ。なんて古風。なんてオリジナリティの欠落した模範回答。だが、それがいい。使い古された手段というものは、相手にも意図が伝わりやすい。間違いようがない。
別室の二人は巷では南アメリカ北部の共和国名のポーズをしながら悦に浸った。その間もタッパーを受け取った少年──加塚籐治は差し入れた少女、九道亜美の会話は続いていく。
「これからも、たまに作ってきてくれる?」
「籐治くんが良ければいつでも。籐治くんのサッカーファン第一号として応援は怠らないよ! ……もちろん、か、彼女としても、ね?」
「亜美……!」
はにかむ九道亜美に感動する加塚籐治。二人は誰に邪魔されることもなく、着実に愛を深めていく。
穏やかで微笑ましい少年少女の思い出がまた一つ、積み上げられた。
パリィイイイイイイン!
「ひ、彦島のメガネが割れたぁあああ」
「うぉおおおおああああああ」
「彦島! 彦島ーーー!!」
人体が、周りより一段高い板張りの台の上で転げ回る。
「完全なる不意打ち! 昔からの仲から恋人同士へのクラスチェンジ!! あかん! なんちゅう恋愛テクを使うんや!! 小悪魔! 小悪魔がおるでぇえええ」
甘酸っぱい雰囲気の一室の隣。その教室の黒板の下に空いた白い壁に、しゃがみ込み張り付く人影があった。
こちらもまた、加塚達と同じように一組の男女。しかしこちらの二人には先程の少年少女のような焦れったい空気や息を呑む緊張感はない。
その代わりにこの二人はとても不思議な、一般人には理解しにくい雰囲気を纏っていた。
人気のない教室に零された、繊細なガラスの割れる音と小声で交わされる魂の叫び。抱いた感情に同調し合うような会話。付け加えて、互いに鼓舞し合う奇妙な連帯感。
そう、この奇怪な雰囲気を持つ関係を言葉で表すなら──同志。
「しっかりしろ彦島!! まだ二人の会話続いてる!!」
「なん……やと……!?」
「ねぇ亜美。次の大会で俺のチームが優勝出来たら、お願いしたいことがあるんだ」
「お願い? 何?」
壁の向こうで興奮した獣のように鼻息荒く様子を伺っている人物がいるとは露知らず、加塚籐治は決心を露わに言葉を続ける。
不思議なことに、彼等は見つめ合う加塚籐治と九道亜美の二人の動作や表情、声の抑揚などを壁を挟んで観察しているにも関わらず克明に観察出来ていた。ここにマスメディア関係者がいたならば特集記事や番組を組まれていたことだろう。壁越しに映像が見ることが出来る超能力だの手品だの、可笑しな方向のものへ編集された大掛かりなものを。それくらいに不思議で可笑しな現象が彼らに起きていた。
しかし、彼らにとって観察している今、それは些細なことだった。原理が解らなくてもこの世界はそういう仕様なのだ。わからなくても出来てしまうことで、不便も特にないので原理解明もしない。そういうものだと割り切っている。彼らにとっては、そんなことより今は壁の向こうの二人を観察する方が重要で大事。
何故、彼らはそれ程までに人の青春を覗き見るような不粋な真似をしているのか。理由は語るべくもない。
そこに彼らの日々の糧があるからだ。
彼ら自身が持つ天秤にかけた時、趣味は現実問題より重い。それだけなのだ。ぶっちゃけ人として最低である。
焦点を加塚達に戻す。
加塚達は既に恋仲であるため、観察している彼らには加塚籐治が九道亜美と二人でいる今、このような真面目な表情をする理由に検討がつかなかった。
加塚籐治の表情に悲壮感はない。まだ付き合って間もないのだから別れ話ではないだろう。と、なれば進路の問題で遠距離恋愛になりそうなのか? はたまた新たな恋のライバルでも見つけたか? それとも身内にバレて茶化されたか?
観察している彼らは前のめりで加塚籐治の会話に集中する。音一つ聞き漏らさないよう構えている。あまりにも真剣な表情をしているため、誰かが隣で怪しげな組織が犯罪の取り引きをしているにではないかと思わせる程だ。見た人は確実にドン引きであろう。
加塚籐治は九道亜美の手を握りそっと口を開く。
「大会で優勝したら、お、俺と……」
「うん」
「その、つまりね?」
「……うん」
言葉に詰まる加塚籐治の雰囲気に高まる緊張感。戦慄く少年の唇。呼吸を一思いに吐き出そうと、力み……。
「……っ、き」
瞬間、つるりとした白い指先が空気を切る。その指先は今まさに、と開こうとした加塚籐治の唇の動きを制止し、言葉を喉に留まらせた。
九道亜美は唇に触れている指をそのままに、恥ずかしそうに俯く。察しの良い性格の彼女のことだ。加塚籐治の考えにも行き着いたのだろう。どこか震えた声で、更に一押し。
「優勝出来たら、ね?」
「………!!」
──大会で優勝出来たら、キスしてあげる。
口には出していなかったが、彼女から発せられるサインが続く言葉を自然と連想させた。
「あえて言わせない二人だけの秘密の約束ーーーー!!!」
そして、こちらにも一押し来ていた。
言葉にしなくても伝わる、勝利への約束。以心伝心のコミュニケーション。
幼馴染という関係ならではの絆の深さが生み出した、素晴らしい一幕であった。とその素晴らしさに例外なくやられた彼らも息を詰まらせる程に感動している。
つらい。呼吸困難である。酸素ボンベ持ってきて。
余程感動したのであろう。途切れ途切れに呟かれる言葉には強い感情が込められていた。
宛らそれは感情のウェーブ。甘酸っぱさに萌えては一息、萌えては一息……。荒波に攫われるが如く理性は引っ込み、その場に残るは感情の阿鼻叫喚の渦。
相変わらず小声で吐き出される咆哮は、感情の昂りからか彼らに吐血にも似た苦しさを感じさせていた。
しかし、その苦しさとは正反対に彼らの表情は──緩んでいた。可愛くて仕方が無い保護対象を見た時のような、慈愛を含んだだらしのない顔である。
否、この苦しさは寧ろ本望。この苦しさこそ私達の求めていたもの。
激情にも彼らは心を折らせることはなかった。彼らは苦痛すらも受け入れ、その苦痛ごと愛おしんでいるのだ。苦しい中でも気高くあらんとするその姿勢は、事情を知らぬものなら応援したくなるような真剣さを携えている。
「完全に手玉に取ってると思いきや恥ずかしげなあの表情!! なんや!? あんな恥じらいの顔その場でしてくださいっちゅーのと変わらんわ!!」
「ていうかキスまだしてなかったのかこの純情カップル!! 早く結婚しろ!!」
「右に同じ!!」
ただし吐き出される会話は不真面目の塊である。
── 萌え。
誰が言い出したか、生み出したか。
いつしか天上の言葉としてとある業界にて祭り上げられた言葉。口に出して説明することが難しいとされる特異な感情、その様。
誰それの言動に意外性を見出しただの、動物の仕草に庇護欲が湧いただの。
十人十色の変化性を持つオタク達の聖言。それが、萌え。
彼らはあまりの衝動に本能のままに床をシバき、転げ回る。先程割れた少年の眼鏡などは、更に悲惨な姿になっていた。
あまり派手に騒ぐと隣室の本人達にバレそうなもので、本来なら怖いところなのだが…この世界はそういう仕様なので、ここもその心配はいらない。
寧ろ大声でもバレないので、本当は彼らが小声で叫び合う必要もない。思う存分叫んだところで青春している二人は気づかないのだ。が、彼らがここで自制を止めてしまうと今度は後々現実で同じようにやらかし、地獄を見る危険性があると推測したらしい。後、なけなしの良心が咎めた。
故に必然と、相手にバレないよう気遣って現在の行動に至るようだ。気の遣い所を間違えているが、それを指摘する人がいないためどうしようもない。
「まったく。外見に反して行動がピュア過ぎやで、加塚……」
「はー、ギャップがたまらんな。よっしゃ、次行こう彦島。あの様子なら次は大会のイベントのはず」
「それを早く言い。急ぐで!」
「了解!」
青春の一幕を観察し終えたらしい彼らは、素早く教室から移動し、何処かへ走り去っていく。
いつの間にか加塚籐治と九道亜美も隣接する教室から姿を消していた。
その場に残ったのは目に見えない甘酸っぱい空気の残り香と不純な好意の残骸……。
混沌の成れの果てのみだった。
私立早瀬川学園。そして学園のある早瀬市。その中で起こる無数の恋の奇跡。
娯楽と趣味と研究を兼ねて、彼らはあらゆる可能性を花開かせ、展開される関係性に身悶える。
恋愛観察。悪趣味とも言われかねない性癖。それを全力でオープンに出来る世界で、彼らはお互いに分かり合える同志と共に今日もまた、学園を走り回る。
「誰か! お客様の中に神父様はいらっしゃいませんか!? 至急挙式をお願いします!!」
「小さなチャペルを予約しろォオオ」
「ちょっ! 寸止め…!? なんでだよ! こっちはとっくに婚姻届の準備は出来てるんですよ!?!?」
──萌えの咆哮は止まることを知らない。