6 ご主人様のおなり
男爵御当人の部屋は、想像していた通り、壁が本で埋め尽くされ、部屋の中央には格式ばった応接用の机と椅子があり、そのさらに奥に、
主人の書斎たる風格を備えた重厚な飴色の文机があった。
そして、その文机の奥で、革張りの一等品の椅子に深く腰をかけ、夕陽を背にしてなにやら書きものに目を落としている人物が目に入った。
「化粧師の方をお連れしました。エイリ・ティスディルさんです」
執事に話しかけられたにもかかわらず、相も変わらずエイリを一顧だにせずなにやら書類とにらめっこしている。
『なんなのこの男、私をわざわざ探しておいて、こっちを見向きもしないでいるって、どういう了見の持ち主なのよ!』
内心イライラを募らせながら、エイリはあいさつのために渋々口を開いた。
「エイリ・ティスディルと申します。これから精一杯お仕えいたしますので、よろしくお願いします。」
特に声が変だったとは思わない。
が、なにを思ったのか、今まで書類に没頭していた男が、唐突に顔をあげた。
「エイリ…?
ジョルジュ、私がお前に連れてくるよう頼んだのは、マイア・ティスディル氏だったはずだが、
どこでどう間違えた?」
荒らげてもないし、抑揚の利いた声でもない。
しかし、冷やかな声音は、まるで叱責されているかのような厳しさに満ちていた。
主人のそんな発言にどっと緊張感を増したらしいジョルジュだったが、ひとことひとこと落ち付いて答えを返した。
「それに関しては事後報告になってしまい申し訳ありません。
ただ、弁解といってはなんですが、マイア氏はすでにお亡くなりになられた後でした。
そこで、マイア氏の娘で弟子だったエイリさんが仕事を受けてくださると言ってくださったので、御連れいたしました。
エイリさんの技術はこの目で見ましたが、はっきりいって、マイア氏が得ていた名声そのままでした。
お館様が欲しておられる技術をそのまま体現できると言っていいでしょう。」
エイリからすれば、これ以上ない称賛の言葉だった。
たった一度だけ披露しただけだというのに、ジョルジュがここまで信頼してくれているとは思ってもいなかったのである。
もしかして、やっぱりいい職場に来たんだわ…と、エイリが心ひそかに喜んでいると、そこに冷や水を浴びせかけるようなお館様の御言葉が降り注いだ。
「だが、お前の言葉を借りれば、マイア氏と同等の名声そのままの技術があるようだが、
なぜ、その名が轟いていないんだ?
エイリ・ティスディルという名など、一度も聞いたことがない。
マイア氏は、都の女たちにとっては、一種の怪奇伝説のような存在だった。
引退してから何年を経ていても、噂が立ち消えないほどに、な。
もし、そこの者が客を1人でも取っていれば、マイア氏再来といわれていたはずじゃないのか?
なのに、その噂は、ない。
どういうことか、説明してもらえるだろうか?」
それまで、ジョルジュと会話をしていたのに、射抜くようにエイリを見つめてくる。
そこで初めて、エイリはまじまじと、ウィルハイム男爵当人を見ることになった。
椅子に座っていて机の影に隠れているため、上半身から上しか見えないが、上着を脱いでシャツだけになった姿は、
軍人らしく逞しいようだ。
少し離れたところからでも、腕の太さや首の太さは鍛えられたものだとわかる。
しかし、そんな首の上にくっついている顔は意外にも小さい。
そんな小顔な男爵のはっきりとした造作は、伸ばしっぱなしにされているらしい長い前髪に隠れて覗けない。
ブルネットの濃い陰影の奥に潜んでいるらしい。
ただし、髪の隙間から眼光を発している瞳の色は、目が覚めるような青色で、その冷たさには身も竦むようだった。
「…御指摘の通り、私は、一度も御客をとったことがありません。
師匠であるマイアが、晩年は長患いだったこともあって、そういう状況にありませんでした。
私の腕が信用できないと仰る道理はよくわかります。
でも、執事のジョルジュさんにもお見せしたとおり、マイアからあらゆる知識を伝授されました。
もし、ここで腕を披露せよと仰るなら、やらせていただきます。」
ジョルジュにもそう言って腕を披露したのだ。
それくらいいわれる覚悟はあった。
しかし、ここまできつく言われるとまでは予想はしていなかったのだが。
エイリの真剣な言葉が響いたのかどうか、男爵は興が削がれたかのように言った。
「いや、使えるか使えないかは追々判断する。
もし使えなかったとしても、使用人が必要だったところだ。
で、この話は終了だ。
ジョルジュ、人払いをして、例の件について話をしたいのだが。」
「あ、はい、かしこまりました。
エイリさん、申し訳ないのですが、退出なさっていただけないでしょうか?
今日はもうお疲れでしょうし、お休みになってください。
寝具などはカレンさんに聞いてください。ほんとうにもうしわけありません。」
ジョルジュに急き立てられるように男爵の私室から追い出される。
なにがなんだかわからない。
エイリは、ちらり、と出ていく間際に男爵のほうをみやった。
てっきり、エイリなんて意識の外の外の外、また書類に没頭しているのだろうと思って、
それに乗じて鬱憤を晴らすために思い切り睨みつけてやろうと意地悪く考えていたのだ。
だが、予想に反していた。
エイリのことを、じっと見つめていたのだ。
思いがけない厳しい目線に、エイリは思いがけずたじろぎながら、部屋を後にしたのだった。
「へえ~え、お館様にそんなこと言われたのね。ふ~~ん。」
エイリは、ジョルジュに言われた通り、カレンに案内されて、寝具類をとりに屋敷のリネン室にやってきていた。
これが、枕、これがシーツ、これが敷布団で…とぽんぽんぽんとカレンは渡すついでに、で、あんたなにいわれたのよ、と聞いてきたので、
正直に言われたままのことを言ったのだった。
「厳しいことを言われると思ったんですけれど、なんだかどうせ使えなくても使用人としては雇ってやる、みたいなことを言われるとは思わなかったんです。
期待しないけれど、働いて良いって言われると思わなくて。」
「まぁ期待されてない云々は私には預かり知らないことだけど、
うちは使用人の追加をしようって言うところだったから、そういうセリフはさもありなん、って感じだけど。」
「え?どういう意味ですか?」
エイリが枕やシーツや掛け布団を抱えてあっぷあっぷしているのに、一切手を貸さずに、そのままリネン室を片付けて出る準備をしているカレンは、
相変わらずの艶っぽい声でいった。
「うちのお館様って、実はこの家に住み始めたの2ヶ月前なのよ。」
「え…?に、2ヶ月前…!?」
とんでもなくつい最近である。
しかし、使用人たちを案内してくれていたジョルジュがいっていた、料理人のシーヴァは長年ここで働いている、ということ。
それに、カレンやジョルジュのこの家での立ち居振る舞いは、たった2ヶ月前に雇われた人間のそれではない。
なのに、なぜその使えられていたはずの男爵当人が2ヶ月前に住み始めたところなのか。
ぐるぐる混乱しているエイリを見て、カレンはくすっと笑った。
「まあない頭使って考えてもわからないでしょうけどね。
お館様は軍人なのよ。で、爵位を賜った頃からずっと地方の任務に長年つかれていたわけ。
そりゃあ都に軍本部がある訳だから、何度かこの家にお泊りになることはあったけど、
本格的にこの家に住み始めたのは、本部付の辞令が下った2ヶ月前なのよ。
で、それまでは、あたしと執事とシーヴァさん夫妻とで回せたわけよ、この家のこと。
だって、実質家の管理をするだけで、あとはあたしたちが共同生活してる、ってな感じだったから。
でも、お館様が御帰還されたら話は違うもの。
人手が必要だから、そうおっしゃったんでしょう。」
ということは、男爵は、爵位を賜って貴族になったはいいが、長年地方任務についていたため、貴族らしいことは殆どしていなかった。
が、2ヶ月前に都に帰ってきて、貴族らしいことをやる羽目になった、ということのようだ。
しかし、その貴族らしいことが、使用人を舌鋒鋭く問い詰めることやら、眼光鋭くすることではないはずだが。
「まあうちはお館様ご本人しかいらっしゃらないけど、こまごまと御世話しなくちゃいけないでしょ?
で、お館様が使われるお部屋とかの掃除も定期的に必要だから、私の仕事はその分増えるわ。
執事も、お館様が都に帰還されたんだから、嫌でも貴族としての交際が増えるから、その差配が必要だし、
今まで何日かに一度の手紙かわすだけのサポートをしていたお館様と、
毎日直に顔合わせてなんやらかんやらしないといけなくなったっていう負担もある。
シーヴァさんも、私たち相手ならそれほど凝った料理なんて出さなくていいけど、
お館様がいらっしゃったらそうはいかない。
しかも、万が一のことがないよう、毒味も慎重にならざるを得ないでしょうしね。
お館様1人増えるだけでいろいろ仕事がどかっと増えるわけよ。
だから、あんたが化粧師として使えなくても使用人としては必要だ、って仰ったわけ。」
すらすらとカレンは屋敷全体を見渡したことを言った。
さすがベテランだけある。
「…そう、なんですか。なら、もし男爵様に化粧の腕を見放されても、なんとかやっていける、かも…」
エイリらしからず、弱気なことばが口を衝いて出た。
ようやくえっちらおっちらと寝具を担いで居室に入ろうとした時、隣室のカレンは、
ドアノブに手をかけながら、今日初めて笑みを浮かべてエイリに向かって言った。
「御厳しいお館様に堂々と反論して、そう言ってもらったのよね?
あんた、それだけ言えたんなら大丈夫よ。思ってたより気骨あるみたいね。
ま、私はあんたの腕とやらがどんな具合か全然知らないから、ほんとに化粧ができるとは信じてないけれど、
せいぜいお館様に化粧する機会が巡ってきたら、頑張んなさい」
「さ、最後の一言は余計です!」
エイリの反論にほがらかにわらいながらカレンは部屋の中に入って行った。
エイリも自室に入る。
がらんとした、6畳ほどの居室だったが、小窓から見える月明かりが射しこむ、使用人には勿体の無い部屋だった。
「ここが、出発点なのよ、ね。」
ベッドに寝具を置いて、座って小窓の外を眺めた。
不夜城ともいわれる、貴族の邸宅の灯りが目に飛び込んできた。
これから、その末端とはいえ、その世界に足を踏み入れたことになる。
「明日のことはわからない。でも、やれることは精いっぱいやったって、胸を張って言えるように。」
一抹の不安を消し飛ばすように、エイリは心の中で誓った。