5 職場環境のよしあし
「…あの、私って、シーヴァさんの機嫌を損なうようなことをしてしまいました?」
厨房には一切足を踏み入れるな、カウンター越しから話せ、といった厨房の主は、にこりともせず、鋭い眼光でひと睨みしてから、
エイリに非情なまでに簡潔な自己紹介をしてのち、さっさと奥へと引っ込んだ。
もしや嫌われてしまったのだろうか、初対面で。
エイリは、自分がそれほどマズイ態度をとったとは思えなかったから、おそらくシーヴァの性格が独特なのだろうと目星はついてい。
とはいえ、嫌われているとなると辛い。
一応、ジョルジュに聞いてみると、思いがけない返答が得られた。
「いえ、全然そんなことは無いですよ。
シーヴァさんはとっても人見知りの激しい方なんです。
我々に慣れて話をしてくださるようになるのも、かなり時間がかかりましたし。
夫君のルティーノさん曰く、シーヴァさんは生家でお過ごしになっている頃から余人と交わるのが苦手だったそうなので、
これでも大分マシになったそうですよ。」
「あれが、人見知り…?」
開いた口がふさがらないとはこのことである。
無表情で人のことを睨みつけ、静かな怒りをも感じさせる注意、あれのどこに人見知りの照れや臆病さが出ていたのだろうか…?
エイリの信じられない、という表情を読みとったのか、ジョルジュもさすがに苦笑した。
「確かに、一見するとシーヴァさんの態度はあまり人見知りと言った風には受け取れないでしょうけど、
あの御方はお優しくてかわいらしい方ですよ。
ルティーノさんにはちゃんと気を許していらっしゃるのがよくわかりますし、ああ、人見知りなんだなあとすぐに見てとれるかと思いますよ。」
「はぁ…そうなんですか。」
そこまでいわれると、ほんとうはそうなのかもしれない。
だいぶエイリも感覚がマヒしてきていた。
しかし、ただ、といって執事は付け加えた。
「シーヴァさんは一見しただけでは誤解されやすい方かもしれませんが、本当はデリケートで柔らかい気性の方でいらっしゃいます。
それにひきかえ、うちの主人は…いえ、あまり先入観を植え付けるのもよくないですよね。」
その言葉は明らかに、うちの主人はシーヴァのような外見だけでなく、中身も問題を抱えているんだ、といいたいようだった。
もしや、この家で一番の問題人物か?という疑念がエイリの中に生まれる。
「いえ、いいんです、教えてください。
男爵御当人について、お会いする前になにか情報をください。
そうしたら、心構えができるかもしれないので。」
「そうですかね?」
「はい、情報を戴く方があり難いです。」
エイリの熱心さに折れたのか、執事は重い口を開いた。
「そうですね…我が主人は、仕事柄、『ふつうの人』と接する機会が少ないためか、
酷い人間不信でいらっしゃるんですよね…
シーヴァさんは単なる人見知りで、恥ずかしがっていらっしゃるんだとすぐわかりますが、
うちの主人はどうも、殻に籠っていらっしゃって。
もしかしたら、エイリさんはうちの主人と会話されたら、もどかしい思いをされるかもしれませんが、
そこはご勘弁ください。」
殻に籠る?もしかして、町で流行っていると言う、仕事は長男が継ぐからやることはないし、
そうそう仕事にもつけなくて、昼間から雨戸とカーテンを閉めてただひたすら引きこもる次男坊みたいなやつの、代表格みたいなのがお出ましになるのか!?
とエイリは戦々恐々としてしまった。
ウィルハイム男爵当人は、軍に勤めているらしく、今日は特に遅くなる用事もないので定時に仕事を終えて帰ってくるだろう、とのことで、
それまでの間に、エイリはジョルジュから屋敷の間取りについて説明を受けたり、明日からどういった仕事をするべきかなどを相談したり、
自室をあてがってもらったりしていた。
初めて生家を離れて暮らすことになったエイリは、ここに勤めることになるまでは、もし運よく奉公先を得ていても、同僚たちとの雑魚部屋に押しやられて、寝起きすることになると思っていたが、
ウィルハイム男爵家は、なんと、1人部屋と言う、使用人に対し破格の扱いをしているようだった。
ジョルジュ曰く、男爵には家庭がないため、世話をする使用人の数も少ない一方、屋敷自体は、前代の男爵が部屋数を揃えて作ったために、余りまくっており、使用人1人に対して1室を与えてもまだいくつも部屋が余るようだった。
なにしろ、シーヴァとその夫のルティーノは庭にある、元は庭師数人が共同生活をするために建てられた小屋に二人で住まわせてもらっているらしい。
最早使用人が家を買う必要がないレベルである。
一通り諸々の説明を受けてもなお時間が余ったので、男爵が帰ってくる前に早めの食事をしつつエイリはジョルジュにいくつか質問をしていた。
「男爵様はとても情に厚い御方なんですね。使用人にそんな気づかいをなさるなんて」
もぐもぐとシーヴァに作ってもらったオムレツを食べながら、
あの複雑怪奇すぎる正確に反して生み出された予想以上の美味しさに
感嘆のため息をついたエイリに対して、ジョルジュは何故か苦笑した。
「いえ、そうではないですよ。
単にうちの主人は使わない部屋が増えれば、その分その部屋は人の出入りが少なくなって、かえって不用心になるのだから、
人が住んでいれば定期的に掃除もするし、換気もちゃんとするから黴くさくもならないだろうという、かなり合理的な考えの持ち主というだけなんですよね。
私たち使用人にとっては有り難いことではありますが。」
合理的と言うか、どうも人間主体でなく、部屋、家主体のような考え方である。
ますますその性格に疑問を抱かざるを得ない状態になったが、
なぜそもそも部屋が余るかということが気になった。
前代の男爵が人がたくさん住むような家を作ったのに、当代の男爵は1人ぼっちなのか。
素直にその疑問をジョルジュにぶつけると、苦笑いと共に説明された。
「それはアレですよ、前代男爵家が一度断絶しているんです。で、現当主に新たに下賜された爵位なんです。
前代男爵は奥様と二人きりの御家族で、お子様が生まれることを見越して家を建てられたそうなんですが、
恵まれなかったために、晩年になって、現当主に後を継がせることにしたのですよ。
どうして現当主が後継ぎに選ばれたかの経緯は、男爵当人に聞かれた方がよろしいですよ。
私もそのあたりは詳しくはお聞きしていないので。」
「末期養子、というやつですか?」
最期が近くなったときに、火急に後継ぎを指定することである。
最期になると、正常な判断ができぬまま、謀略にはめられて養子が決まったり、事前の根回しが必要なデリケートなことなのに、今わの際の判断がなされて、死後に揉めに揉めたりと、
なかなかに厄介な問題なのだ。
国によっては禁止しているところもあると言う。
この国では一応禁止にまでは至っていないが、推奨されたことではない。
そうした疑問があって、エイリは質問したがジョルジュは曖昧に微笑んだだけだった。
「末期養子のようなことが当家で起こったかどうかは、私には預かり知らぬことですが、
なぜ我が当主が後継者に選ばれたかについては、問題は無かったようです。
それだけはご安心ください。」
なんだかますます不安をあおられるような発言である。
もやもやが晴れないまま、エイリがそろそろもう数口で食べきれそうなオムレツをつついている時、
玄関の人の出入りを知らせるドアベルが鳴る。
敏感にそれに気付いた執事がガタっと音をさせて椅子から立つ。
「すみません、帰って来たようなので行ってきます。
エイリさんはまたあとで挨拶にお連れするので、それまでこちらで待っていてくれませんか?」
執事が席を立ってから、バタバタとにわかに階上が足音であわただしくなり、暫くするとパタリとそれが止んだ。
どうやら御館さまが腰を落ち着けたようだ。
オムレツを食べ終えて、いそいそと自分で食後の紅茶を入れて優雅にしていたエイリだったが、ようやくジョルジュがやってきた。
「お通ししてもよいとのことなので、エイリさん、ついてきて下さい。」
「はい。」
すっとした身のこなしで歩く執事の後ろについていく。
心なしか、さきほどまで使用人たちに案内していた時よりも、執事の背に一本筋が通っているような姿勢を感じる。
やはり、仕えている人間の前に行く時は気の持ち方も違うのだろう。
エイリもまた、逸る気持ちを押えて、背筋を心持まっすぐにさせてついていった