16 黒い秘密
他人の情事の場面を盗み見るのはもちろん、それが浮気相手とのものだなんて、エイリにとっては未知なる恐ろしい場面である。
あいかわらずブルネット夫人は、浮気相手に陶酔して、エイリがのぞいていることなぞまったく気づきもしていないようだったが、
浮気相手の男のほうは、じっとエイリのことを見ていた。
明らかに、覗きがバレている。
エイリは、じっと額が汗で湿ってきたような気がしてきた。
『え、えええいいままよ!!!!逃げてしまえばいいんだわ!!!』
思い立ったら即行動。
エイリはマナーのマの字も頭の中から放り去って、ドレスのすそをたくしあげて一目散にその場から逃げだした。
とりあえず1階の、もといたティールームに行ってなにもなかったようにそのあと男爵とともに何食わぬ顔をして帰ればいいのだ。
そう思ってドタドタと音を出して人気のない廊下だというのをいいことに、本物のお嬢様ならあり得ない格好で走っていた。
たくしあげたドレスの裾からは、生足が見えているが気にしない。
振り乱れる髪の毛も気にしない。
だが、ひとつだけ気にすべき点があったのをエイリは見過ごしていた。
「あああっ」
ぐぎっ、と妙な音を立ててさらには妙な方向に足首が曲がる。
思いがけずそのままバランスを崩して廊下にへたりこんでしまった。
「あいたたたた…」
細いヒールを履いていたことをすっかり忘れたまま全速力をしていたのだった。
普段履きなれないものなうえに、走ることにはまったく向いていない性能を無視してしまっていたゆえの惨事である。
もしかしたら捻挫をしたかもしれないな…と思いつつ、廊下の壁に手をそわせて立ち上がろうとしたとき。
「大丈夫ですか?盛大に蹴躓いていらっしゃったが。」
「だ、大丈夫です。ご心配痛み入ります…!?」
誰もいないはずの廊下だ。だからこそエイリは全力疾走していたのだ。
なぜ、声をかけられるのだろうか。
恐る恐る、だが本当は誰なのか見当がつきながらも、ゆっくり立ち上がってその人物を視界に入れた。
「もしかして…追いかけていらっしゃったんですか?」
「そうですね。ああいう場面を見られて、なんの言質もとることなく逃げられてしまいましたから。」
そこに立っていたのは、あのブルネット夫人の浮気相手だった。
薄暗がりの廊下だが、シュッと芯の通った容貌が浮き出るようにわかる。
上着とその下のシャツが乱れているのが、先ほどまで行われていたことを想像させるようで、エイリはあわててそこから目をそむけた。
「見たくて見たわけではないのです…見てしまったものは申し訳ないですが。」
「まあそうでしょうね。好き好んでああいう場面を見るような方には見えませんから。
でも、世間一般の貴族のご婦人はゴシップ好きですからね。好き好んで見てうわさを流す者もいるんですよ。」
だから逃げられたままではいられず、追いかけてきた、と暗に言われたようだった。
浮気をしているのは彼らの事情で、何の関係もないエイリが口出しするのは問題外のことであるし、
そしてそんなプライバシー満載な場面を覗き見して逃げてしまうことほどバツの悪いものもない。
エイリは素直に頭を下げた。
「覗き見する気はなかったんですが、見てしまって申し訳ありませんでした。
口外することはありえないです。
それに、私は貴族の人間ではありません。ただの使用人なんです。
貴族の方たちの間で何かあっても、私にはどうしようもありません。」
「へえ…使用人ですか。」
一息に言った後、さっとその場から立ち去って事なきを得ようと思ったが、エイリがただの使用人だと明かしてしまったことに興味をもったらしい。
余計な一言を言うんじゃなかった…と後悔してもあとの祭りだった。
「ウィルハイム男爵は、貴族の社交の場に使用人を連れてくるのですか…
さすが、黒い噂があるだけのことはある。」
「黒い噂?」
使用人として主人の噂は気になるところだ。
カレンもいっていた、貴族のメンツとやらにかかわって、まわりまわって男爵家凋落の原因にもなりかねない。
真剣な顔をして聞きたがっているエイリの表情を見たのか、男はふふっ、と存外かわいらしく笑った。
「そこまで気になるんですか。主人思いですね。
貴族なんて、どこもたたけば埃がでてくるものですよ。
さきほど私のお相手になっていた方も、そうですし。
あとは…今日のパーティの主催者のニーゼット公なんて、前王の同腹の姉姫の愛人だという噂がずっとありますから。
姫が降嫁した際、前王と同腹であるのに格下もいいところの侯爵家だったのは、
先に別の女性と結婚をすることになったニーゼット公との間に図らずも子どもができたがために、
急場しのぎで降嫁先を探したからだといわれています。」
エイリは、あいさつをしてきたニーゼット侯爵夫妻の和やかな顔を思い出して、まさかそんな修羅場をくぐっていたとは想像だにしなかった。
微妙な顔色になったエイリに追い打ちをかけるように、男はさらに話を続けた。
「そして、色々となぞが多いといわれているウィルハイム男爵…
そもそもなぜ爵位を継承するに至ったか、公に語られていることはほとんどない。
ただ、前男爵に直系の子孫や係累がなかったがために、当代男爵を後継に指名したことが事実として残っているのみ。
一般兵卒出身で軍属一筋の男が、末端とはいえ貴族の当主のような雲の上の存在と知り合えて、なおかつ後継に指名されることなぞ、普通はあり得ない。
そこに『何か』があったとしか考えられないはず。そうでしょう?」
「…もし、その『何か』があったとしたら、どうしてそのまま爵位を継がれたのですか?
お館さまは、常々この社交界に出てくることを避けていて、継承の際も表立つことを嫌がったと伺っています。
外野がどういう噂をなさっても、私は目の前のお館さまを信じます。」
「そう、目の前のことを信用する…一番手っ取り早い方法でしょう。
でもその目の前の視野が狭いのは、よくないはずだ。
君はどうも知らされていないようですが…男爵は、普通の軍人ではない。」
この男は何をエイリに知らせようとしているのか。
その話の先は聞きたくない。心の中でそういう声が湧く。
けれど、また、別のところでは聞きたがっているのだ。
男爵の、秘密が知りたいと。
「彼は二重軍籍だ。
表では、一般兵卒と混じって仕事をしているはずです。
爵位を得たことを軍内部で公表せずにいるのは、一般兵卒出身であるのに、爵位を得たせいである程度軍での扱いが変わることを懸念しているから。
これは、この表向きの所属に対する説明にあたります。
けれども、彼は裏でも仕事をしている…
そして、本来爵位の公表を避けたかった理由はこの裏のことにあるといっていいでしょう。」
「二重軍籍?」
聞きなれない単語だった。
今まで田舎に引っ込んでいた時は、国境付近でも紛争地域でもなかった超ド田舎だったため、軍人なぞついぞお目にかかったことがなかったのだ。
こんな特殊な単語を出されてもエイリはパッと意味がわからない。
なので素直に疑問符を浮かべると、男は、律義に解説をしてくれた。
「スパイ。
組織の暗部や人々の秘密を嗅ぎまわる国家の犬のことですよ。
表の所属と裏の所属の二つの登録を持つから、二重軍籍にならざるを得ない。
表の所属はもちろん、裏を隠すためのカモフラージュ。
君のお館さまは、本来陽の光の下にいてはならない、闇の中を生きる人間ですよ。」
頭の中ごーんと何かで響いているような感じだった。
あの男に衝撃的なことをいわれて、エイリはまともに頭が働かない。
男爵が二重軍籍だと告げられて、なにもいえなくなってしまったのだった。
これ以上の会話は無理だと思ったのか、男はそれ以上なにかを付け加えることはなく、ただ、
『私はアドレイド侯爵の息子のエドリアルです。これも何かの縁ですね』
そういって、去って行った。
ドレスの裾をたくしあげたまま全力疾走して、早く会場に戻らなくてはと思っていたはずなのに、
この話の後に、男爵に再びまみえることがこれほど躊躇するとは思ってもみなかった。
半ば放心状態のまま、会場に戻ってみると、ちょうどいいタイミングで男爵がエイリを探しにやってきて
「今日はもうこのぐらいで帰るぞ」
と告げて、あれよあれよと馬車に乗せられて男爵家への帰路についていた。
狭い馬車の中、正面に座る男爵の横顔は、煌びやかな不夜城の明かりに照らされて思案げだ。
そんな男爵を見るエイリの頭の中は
『男爵はスパイだ』
という、エドリアルの言葉がこびりついて離れない。
いろんな符号はある。
今回なぜ今まで避けて通した貴族のパーティに顔を出したか…
ニーゼット公爵は、反王家派の急先鋒だという。
もし、男爵がスパイとして反王家派を調査しているのなら、相手の誘いに顔を出すのは納得がいく。
そして、そもそも、エイリが雇われた理由は…素顔をさらしたくないから。
男なのに、なにゆえ化粧をする必要があるのか、さんざんわけがわからなかったが、
スパイだと言われれば合点がいく。
相手先に潜入したり、こうして貴族たちの前に出るときに、本来の素顔が露わになれば、業務に差し支えがある…一般の軍人ではありえないことだ。
エイリには、思い切って聞いてみたい気もあった。
どうして、私を雇ったのですか、顔を隠すのは…諜報活動をするためですか、と。
だが、聞いたところであまり詮のない話でもあった。
ただの使用人が、主人の外でのことを聞いて、なにになるのだろうか。
もし、スパイだったとして、それをエイリはどうすることもできない。
逆に、スパイでなかったら、聞くだけで甚だしく非礼である。
――そんな風に、エイリが暗い顔でいろんなことを考えていると、男爵が意外にも気にしたのか、声を掛けてきた。
「今日はどうだった?なにか不都合なことでもあったか?」
いろいろありました、ええ、そりゃあ一言では言えないくらいに、と本当のところは言いたかったが、
「いえ、今日は珍しい体験をさせていただけて本当によかったです。ありがとうございました。」
顔に笑顔を張り付けて、そういうしかなかった。
「そうか。それはよかった。」
本気にしたのかどうかは定かではなかったが、エイリの回答に満足した男爵はそのまままた元の通りに静かに外を見始めた。
その視線の先には、伏魔殿のように王城がそびえたっていた。
どうでもいいですがいきなりやってみましょうキャラのランク付け~。(ぇ)
美女美男ランク
S シーヴァ(綺麗すぎて怖いレベル)
A カレン(綺麗と可愛いの形容詞が似合うが、性格が…)
B 男爵(8頭身のナイスバランスなイケメンだが、いかんせん視線が…)
C エイリ(主人公だが平平凡凡。ただし化粧で化ける可能性アリ。女子の役得)
ジョルジュ(月並みな顔面偏差値。体は巨体。)
こんな感じです。主人公がCランクって冷遇しすぎ!と思いますが、わりと美男美女の形容詞とか美辞麗句って考えるの面倒なんで…(ぇ)
お手軽主人公が一番いいですね、はい。
で、今回のお話。ようやっとご主人様の怪しい側面が出てきました。
明らかな厨二設定ですね…(爆)
そのうち昼ドラ的な設定も出てくるのでお楽しみに…(笑)




