田図卓也は役立たず!-前編ー
下裏羅 占一は、駆け出しのスーツアクターだった。スーツアクターとは、ざっくりいえば、怪獣の着ぐるみやヒーローの衣装を着て、演技する人である。顔は出さず、そのアクションだけで人々を魅せる、影の立役者。子供の頃の占一は、この職を知ったとき、これが真のヒーローのあるべき姿のように思った。彼は、当然のようにこの職を自分の仕事に選び、一直線に進んできた。
とはいうものの、正直言ってそれ一つで生活をできる仕事ではなかった。
仕事をとれても、一話限りのエキストラばかりで、家にまともにお金を入れることはできなかった。他にバイトを掛け持ちしつつも、妻と幼い息子にひもじい思いを強いることになった。
占一は仕事に対して非常に真摯ではあったが、いつまでも下積みの状態から抜け出せなかった。それには理由がある。能力者が当たり前になりつつあった時代、俳優やスーツアクターは能力者が優遇される表舞台だった。一般人の占一をおいて、新しい養成所上がりの能力者がどんどん起用され、仕事をとっていく。CGを使わずとも、手から火を出せたり、目にもとまらぬスピードで動けたり、能力者たちはいとも簡単にただの映像を特撮へと昇華させた。
占一はそれでも努力を続けた。能力で飾り付けられた上辺だけの演技では、人々に感動を与えられないと心の底から信じていたからだ。ヒーローは、悪者を倒す時に出すビームがかっこいいのではない。皆を守ろうと必死に戦っている背中が最高にかっこいいのではないか。素性を隠し、見返りを求めず、ひたすらに人々を助け続けるその姿勢が何より自分を、この道に進ませてくれたのではないか。
占一は自分をそう励まし、家族にも支えられ、一人のヒーローであり続けようとした。しかし、職場で認められることなく、やがて逃げるように家族のもとを去り、消息を絶った。その時、安らげる場所であったはずの家庭が占一にどう見えていたかは定かではない。
残された家族はといえば、母は悲しみ嘆き、一通り自分を責めた後、自殺未遂までに至った。小学生になったばかりの息子は、何をするにも父の幻影を見るようになった。息子は、父を忘れたくない一心で、自分が父のなろうとしていたヒーローになろうとした。
占一がそれを望んでいなかったことを、その息子が知る由もなかった。
「僕は大学の時の後輩だったんだよ。なんだったか、演劇サークルかなんかの。……よく覚えてるわけないだろ、僕は幽霊部員だったからね。占一さんとはそのサークルの飲み会で、初めて会った。いやいや、たまたま無理やり参加させられた時のことだったなあ。そこにOBとして、占一さんが呼ばれていたんだよ。
真面目で堅苦しそうな人だなあと思って、僕は近づこうとしなかった。人見知りもあったけどね。まあその時、僕が話せる相手なんて、十人近くいるサークルの中で、一人くらいいしかいなかったから。僕はもともと寂しいやつなんだよ」
田図は、占一の息子である鮎広にそう言うと、一気にくたびれたかのように、大げさに椅子にもたれかかった。
潰れたネットカフェの薄暗い店内で、田図の陣取るブースだけが、パソコンの液晶で不気味に光っている。田図の影がぼんやりと鮎広にかかる。
「言いたいことがよくわからん。で、僕の父親がどうだって」
鮎広は静かに言う。田図がうっとおしくて、憎くって、恨んでいたように思っていたはずだったが、やけに落ち着いた自分が鮎広には一番不気味だった。
「一言でいえば、尊敬できる人だったよ。これじゃ中身がないか。そうだな、んー。根暗な僕に声をかけてくれたあの時から、僕はあの人に負けていた。屈伏していた。なんて言えば、君好みだろう。何その顔は。分かったよ。まじめに言えばいいんだろう。なんか、近くにいると自然と背筋をまっすぐしてなくちゃいけないような、いい人なんだよね。あの人は。いい人過ぎて、相当周りの人は、さぞ生きづらかっただろうに。少なくとも僕はあの人のそばにいるといつも以上に疲れたよ」
鮎広は以前の自分だったら、「何も知らないでっ!」と叫んで、手が出ていたと思った。目の前にいる田図もまた、自分と同じようにつまらないことに悩むただの人間だ。そう思えたからこそ、鮎広は大人しく話を聞いていられた。「それで」と田図を促す。
「僕はあんな人にはなれない。なりたくない。だから、ならない。鮎広、君なんかの父親に少しでもなれた覚えはない」
「それって」鮎広は自分を棚に上げて、田図に迫った。「謙虚なつもりかよ。自分勝手にもほどがある。そういって、僕から逃げるのか。どうやったって、逃げることなんかできないのに。だって、」
「家族だから?ただのくくりだよ、実際にある形じゃない」
いつから家族がそう見えるようになってしまったのか、田図は記憶を辿ってみた。頭の中で結論が出る前に、答えは目の前にいた。わかっていたつもりだったが、どうやらこのガキが言う通り、自分は逃げていたとでもいうのか。田図は心中で首を振った。
僕は距離をおいていただけだ。鮎広に背を向けた覚えはない。距離をおいて、見守って、それで、……それで、申し訳程度にも保護者気取りだったわけか。
思わず田図は、口元を抑えて笑ってしまった。なんだそれは。偉そうに自分は鮎広の父親ではないと言いつつ、やはり本心は鮎広の父親でありたかったのだ。正直なところ、鮎広の母親と一緒になれれば、それだけで十分のはずだった。一時は鮎広に引け目を感じていた。しかし、そんなことよりもなにより自身のため、割り切っていたのではないか。確かに、自分勝手だ。それでも、素直にそうだと鮎広にいうことなんかできない。きっかけはあてつけだったなんて。
「楽で簡単なら、こんなことにならない。少々やりすぎのように思うけれど。田図、僕はこんな……」
「わかったように言うね」
田図はそんな鮎広を評価するような自分の物言いこそ、わかったように言っていると思った。でも、どうすることもできない。今まで田図は、鮎広に対して、ずっとこう接してきた。もう大分染みついてしまっている。自分がこんなに頑固だとは思わなかった。いつも飄々と、臨機応変に自分は立ち回っていると信じていた。いつだって、なんだって、鮎広に偉そうに言える。なぜなら、自分は鮎広よりはわかっている人間だと思い込んでいたからだ。
一人、大きなため息をつく田図に、鮎広は言う。
「なんか言いたいんなら、さっさとはっきりわかりやすく言ってみろよ。たくさんの人に迷惑をかけたんだ。これでいつものようにまた来週じゃあ、話にならない」
雰囲気が、やはり似ていた。親子って怖いな、嫌だな。でも……、でもなんだ。女々しい限りだ。田図は余裕ぶって足を組む。
「わかってる。自分が逃げないようにこうしたんだよ。君と今後の身の振り方を相談するためにね。そういうつもりでここにいる。――鮎広、僕はね、どうしてだか、なにもしたくないんだ」
「ふざけるな」
「その勢いで僕をぶってくれると、少し報われるかもしれない。やってみろよ」
特撮ものみたいに簡単にはいかない現実で。なにを見本にしていいのか分からない。悩みつかれて無気力になった僕を助けてみてくれよ、鮎広。と、田図は我ながら卑怯だと思う願いをした。
時は遡り一日前。鮎広が暴力団まがいの集団に囲まれ、黒タイツのおっさんに助けられた日。エキセントリック四天王と名乗るいい年した大人にぼこられた日。自称ヒロインの小学生に鮎広が顔面を踏まれ、それから励まされた日。よくわからんこという飛空累斗と言うやつに会った日。鮎広がヒーロー仲間だと勝手に思っていた淡井から、一連の黒幕である田図の味方につくと言われた日。そして、淡井にやられた後輩大庭貝太を抱え、鮎広が撤退した後のことである。
場所は閑静な住宅街にある平凡な一戸建ての下裏裸家、二階の鮎広の部屋。本棚から漏れた漫画が勉強机まで侵食していて、敷布団は万年床状態で、九畳ほどの部屋のあちこちに筋トレグッズやねじれたスプーンがとっ散らかっていた。
「うへえ、汚い。小学生の女の子を迎える部屋じゃないよこれ」
部屋の入り口に立つなり、士二総代は、口元を押さえながらそう言う。にしては、きょろきょろと、新しいケージに移された小動物が如く、興味津々で部屋の様子を窺っている。
「だから来るなって言ったろ。ただでさえ狭くなってんだから、三人も入るかよ」
鮎広は部屋の入り口に突っ立っている総代を退け、一旦躊躇してから、万年床に負ぶっていた貝太を下ろした。かなり雑に下ろしたが、貝太はぴくりともしなかった。これ本当に気絶してるだけなのか、と鮎広は淡井を疑った。
総代がなかなか部屋に入ってこないので、しぶしぶ鮎広は散らかった部屋を片付け始める。総代はいつも繊細で神経質で生真面目な鮎広を見ていたせいで、部屋の様子が意外に見えていた。
「鮎広、もういいよ。えっちな本が見えたって、私大人だから見て見ぬフリする」
「ないよそんなもの。買う勇気も拾う逞しさも自室に持ち込む度胸はない」
鮎広は部屋の中央にスペースを作り、壁に立てかけてあった小さなちゃぶ台を置いた。総代にそこに座るよう促すと、総代は勉強机に座った。
「そこ、馬鹿の足が向けられてるとこじゃん。最悪」
「なんなら帰ってくれてもいいんだけれど」
「なんですぐ追い出したがるのかな。照れてるの」
「そうだよ。もう勝手にしてろ」
「すーぐひーねくーれるー。ひねるーねるー」
総代は坦々と鼻歌交じりに机を物色し始めた。ノートというノートを開き、引き出しという引き出しを開けた。そのうち小さな南京錠のついた手帳を見つけた。一人ちゃぶ台で一息ついている鮎広に見えるよう、総代はその手帳をひらひらさせて反応を待った。
「…………あっ、それっ、お前引き出し抜いたなっ。ちょっと!」
「当たりみたい」
鮎広が手帳に手を伸ばすと、総代は鮎広に背を向け、手帳を抱え込むようにした。こうすると、鮎広は手が出ないことを総代は知っていた。鮎広は一層くたびれ、腰を下ろした。
「あ゛ー。疲れる。そんなことして楽しいか」
「んー、楽しいねぇ。これの鍵はどこ」
「僕の思い出の中」
「出して」
「そう簡単に出せないんだけどなぁ」
すると、総代はポケットから出した何かを鮎広に投げつけた。鮎広が拾ってみたところ、それは十円だった。思わず鮎広は明後日の方向にそれを投げそうになったが、貝太がいたので、すんでのところでやめて、ポケットの中にしまっておいた。もう天災と割り切ってさっさと言うとおりにしたほうが利口か。鮎広は重い腰を上げた。
「それ大して面白いこと書いてないからな」
そう言うと、鮎広は本棚から漫画を七冊ほどまとめて出して、その奥に隠れていた本を手にした。
戦隊ものの、古びたムック本だった。それを丁寧に開くと、安っぽい鍵が挟まっていた。鮎広が鍵を手にとると、挟まっていた部分に鍵の形の窪みがくっきりとついている。その窪みを見るたび、鮎広はなぜこんな保管法をとったのか、と後悔する。
「それが鮎広の思い出なの」
「僕には十円ぽっちのものじゃないんだけどな。総代からしたら、一円の価値もないかもしれないし……ぶつぶつ」
「いいからよこす」
鮎広が渋っていると、総代は強引に鮎広から鍵をひったくった。流れるような動作で南京錠は解かれ、ノートは開けられた。総代は勉強机に戻り、熟読の構えをとった。
なんとも言えない表情で鮎広は、総代の背中をじっと見ていた。まずくはない。なにも後ろめたいことなんか書いていない。そのはずだが、なぜか背筋が冷えていく鮎広であった。
しばらくして。
「この、SPヒーローの設定は分かる。正義日記とかいう、いいことした記録も分かる。でも、その中に出てくる杭鉈っていう女は誰。書き方からしてきょーだいとか親戚じゃないよね。分かんないんだけど」
「小学生の時の、友達だよ。ヒーローごっこに理解があったっていうだけで、お前の想像しているようなものじゃない。他にも人名はあっただろ。なんで杭鉈だけ……」
「正義日記の最初の方、はやとだのじゅうもん?だの一緒に正義ごっこしてる人の名前が出てるけど、最後の方まで残ってるの、この子だけじゃん。あやしい」
「正義日記の最後の方っていっても」「え、じゃす……、なんて?」「小6の時までの記録だし、正直小学生に男友達も女友達もないと思うんだが」「あるけど」「く、杭鉈は付き合いが良かっただけで、中学生に上がってから学校変わって一度も会ってもないし」「家近所って、書いてあったのに、不自然だね。引越しとかしたわけじゃないよね?」「そのはずだけど……いや、待て、なんでそんな詮索してんだよ」
呆然とする鮎広に、総代はあっけらかんと応える。
「そーよのライバルと思っているから」
なんだか腹立たしかった鮎広は、勢いに任せて言う。
「思い出した。その杭鉈って、確か僕の初恋の相手だったよ」
爆発が起きる前兆、空気が乾く瞬間、鮎広は身じろぎし誤って貝太を踏んづけてしまった。「ぐえ」と貝太は起きた。
「おはようございます我がヒーロー。いや、途中から狸寝入りをこいていたことを気づいていたのですか……流石です」
どうやら爆発の危機は一時的に過ぎ去ったようだ。ただ、総代は貝太を睨んでいる。事態は、総代の敵意の方向が変わっただけであり、依然として鮎広は気が気でなかった。
「貝太、大丈夫なのか」
「ええ、万全ではないですが大丈夫です。その、起きるタイミングを失っていたと言いますか……それより、我がヒーローのピンチに駆けつけられずすみませんでした」
貝太はなんのためらいもなくその場で頭を下げた。鮎広はいいよいいよ、生きててよかったと貝太を起こそうとする。しかし、貝太は頭を布団にこすりつけたまま動こうとしなかった。
「気づいたらすぐ起きればいいじゃん。何?聞き耳でも立ててたの?それって悪趣味だよね」
総代がそこに茶々を入れ、貝太はようやく頭を上げた。
「……お前こそ人様の、ましてや我がヒーローの部屋を物色するとは育ちが悪いにも程がある」
総代と貝太の間にぴりぴりとしたものが走り出す。鮎広は慌てて話し出す。
「喧嘩しないしない。部屋焦がしたくないから言っとくけど、総代、さっきのは嘘な」
すると総代は「あとで詳しくきくけどね」と言って貝太の方を見向きもしなくなり、貝太の方は何も言わず目を伏せた。
鮎広はほっと胸をなでおろす。
「さて、状況を整理したいんだけど、……」
「卓也が敵になった。一郎も一緒。明日二人とも倒しに行く。そんで鮎広へ刺客()を送ってくるのをやめせる。終わり」
総代がさらりと言った。突っ込みたいこともあったが鮎広は黙った。平たく言えば現状と目的はそれでいい。
「次に具体的に明日どうするかだけど」
「明日朝9時にここに来ますよ。そして一緒にあのシャッター街を目指しましょう。我がヒーローは田図との戦いに備えて、道中の刺客は任せてください」
「ん、お、おう」
貝太が頼もしく言うが、鮎広は不安だった。それを察してか、貝太は続ける。
「確かに今日はキャプテン仮面に遅れをとりました。ですが、だからこそこの雪辱は必ず晴らしたいのです。またキャプテン仮面が目の前に立ちはだかったときも、望んで戦うつもりです。それに……」
「それに?」
「今のキャプテン仮面は底が知れません。先ほど相対したとき、能力が『遠隔ひざかっくん』なんかでは絶対にありませんでした。万が一、我がヒーローがやられることはないにしても、苦戦を強いられるかもしれないです」
「そうか……確かに貝太がこんなにやられるくらいだからな。でも、本当に任せていいのか?」
「ええ、一度相対しているからこそ、分かるものがありますから」
貝太のまっすぐな目にやられ、鮎広は「ああ、頼んだぞ」と言ってしまった。
「じゃ、なんとなく決まったし、解散ね」
そう総代はいい、貝太を払いのける仕草をする。いや、お前も帰れよと鮎広が言う前に総代が遮る。
「そーよはもう少し遊んでから鮎広に家まで送ってもらうから。馬鹿は早く一人で帰って。さよなら」
ひと悶着後、それぞれの家に送り届け、さらにくたびれる鮎広であった。
翌日の朝。布団から起き上がり立とうとすると、鮎広は突如としてひざかっくんを受けたかのように、足が自然と脱力してしまった。その場に四つんばいになるよう倒れこむ。すぐに動けるようになったので、カーテンを開け外を見ると、家の前に一人の赤い男がいた。
慌てて玄関まで飛び出す鮎広。
「はっはっは。きてしまった」
変身済みの真っ赤な姿の淡井だった。
「はえーよおっさん、まだ8時前だぞ……。それにご近所の目があるからその格好でたずねてくるのやめてくれませんかね……」
パジャマ鮎広は玄関前にて対応する。
「どうにも眠りが浅くてな。酒で寝るとどうにもいかんな!」
「休日の早朝から張り切りやがって……。家族サービスとかいいんですか」
「うちのは今度するつもりだ。それより君の家のほうがピンチのようだったから駆けつけたまでさ」
「敵としてですか……」
鮎広は母親がまだ寝室からでてきていないことを確認し、淡井を家に引っ張り込んだ。
「おいおい、いいのかい。敵を招き入れて」
「これから着替えるのに、外で待たれていたら通報されかねないんで。ただ、家には上がらないでくださいよ。母に見つかったらややこしい」
「まあいいだろう。早く準備したまえ」
鮎広は母親を起こさないようにゆっくりと自室へと向かった。さらに時間稼ぎにトイレにも寄った。
その足取りは困惑していた。鮎広はまさか向こうからやってくるとは考えていなかったのだ。このままでは貝太に淡井を任せたといったものの、流れで自分が戦うことになりそうだ。それは貝太を裏切ることになるのではないか。それはできれば避けたい。しかし、貝太がくるであろう、あと1時間後までどうやって持たせればいいのか。悶々と考えながら私服の上にポンチョと赤いマフラーを装着し終わり、準備ができてしまった。待たせすぎて大声で呼ばれたり、痺れを切らして家に上がられるのも嫌だったので、渋々玄関へ戻る。
淡井は玄関と廊下の段差に座り込み、おとなしく待っていた。
「いい家じゃないか。うちよりでかいぞ」
「そうですか。田図のですけどね」
「おかしな言い方だな。君の家でもあるだろう」
「僕の家という家はずっと、前に住んでたおんぼろアパートですよ。もう今じゃ知らない誰かが住んでるかもしれませんけど」
「……君は、寄る辺がないって思ってるのかい?」
「寄る辺……?」
「絶対に安心できる居場所だよ。家とか物理的な空間や、趣味に没頭できる場所とかでもいいし、一緒にいると落ち着く、安らぐ人物の側でもいい」
「……」
この家は住み心地は悪くはないが、それだけだ。趣味なら人助け、それをしている場所はシャッター街の一角だが、あそこを避けていた時期があったものの、それで特別落ち着かなくなったりすることはなかった。あと人物だが……。
鮎広は肉親である母を挙げてこの場を切り抜けようと思ったが、ここで嘘をつくこともできなかった。母は、無責任にいなくなった父の血が混じっている僕を嫌っている。父がいなくなった直後、少しでも僕が父と似た仕草、口調を言うと癇癪をおこしたようにそれはやめなさいと怒鳴っていたからだ。だんだん怒鳴るのも疲れたのか、今ではほぼ無干渉になってきている。会話もほとんどない。一緒にご飯を食べる程度だ。安らぎなんてない。嘘でも言うには憚られる。
黙りこむ鮎広を見て、淡井は言った。
「ないならないでもいい。……でもそう認めるのが怖いか?足元も見えずに、一緒に手をつないで歩いてくれる相手もいないまま、どこを目指すわけでもなく、ここまで歩いてきたことが不安に感じるか?今の自分が何者であるのかも分からないような感覚に陥るのが嫌なのか?」
鮎広は血の気が引き、なぜか堪らなく泣きそうになっていた。
「僕は……」
「ああ、ゆっくりでいい、言ってみるといい」
「僕は、一人だったんですかね?」
「何を言う。そんなの君だけじゃないさ。私だって一人だ。どこの誰だって一人だよ」
「淡井さんには、家族がいるじゃないですか」
「君にもいるはずだがね」
「僕のは、なんか違いますよ。形も歪だし、心が通い合っていない」
「家族は無条件に分かり合える集団と捉えているのか。そんな絵に描いたような家族、そうそういないと思うがな」
鮎広は気づいたら淡井の隣に座っていた。
「淡井さんの、寄る辺は家族じゃないんですか?」
「家族だよ。ただ心が通い合ってるかは別だよ。そんなのできたらエスパーだと思わないか。喧嘩だってしない。まあそういう能力者なら別だけれど」
「……」
「言わないと伝わるわけがない。言ったところで完全に分かり合えるわけでもない。その辺を心得ておかないと、人との関わり合いは辛いだけさ」
「なんだか、そもそも人と関わる必要がないように思えてきましたよ。寄る辺がないなら、ないでもいいんでしょう」
「それで、寂しく思わないのならそれでいい。私は家族と一緒にありたいと思うよ。面倒に感じることだってたまにはあるけれどな」
「それって、やっぱり一人じゃないんじゃ……」
「一人さ。なんせ誰も私のことを分かってくれる人なんかいないからね。だからこそだよ。だからこそ、誰かに分かって欲しいと思うし、誰かのことを分かりたいとも思う。そうだ、前に私は能力のことをその人の『悲鳴』で例えたような気がするが、あるいはその人の『主張』なのかもしれないな」
「なぜそこで能力の話に……?」
「いや、思いついただけさ。我々は話合ったところで完璧にお互いのことが分かり合えるわけではない。でも分かって欲しいから、自分はこんなやつだっていうものを現実に、能力として人に見せつけるわけだ。ぶつけるわけだ。自分はこんな人間なんだぞーというのを他人にな。なかなか面白い仮説だろう?その説からすると、君はスプーンをきっかけにひねくれたことを、誰かに分かってもらいたいのか?」
鮎広はそれを否定できなかった。
「ふむ、帽子少女は分かりやすいだろう。気に入らないものを爆発させる。子どもっぽいわがままさだな。裕福少年は限定時間内での強さ。圧倒的な力はほしいが、それには制限がなくてはならないと、欲望と変な生真面目さが入り混じった感じか。かくいう私は、何だと思う?」
「寄る辺の話はどこへ……」
「君がまるで分かってないようだったからもういい。ちなみにだが、私の能力の『本質』が分からなければ、私には勝てないだろう。もっと言えば、この自分たちの能力の『本質』を正確に把握しなければ、先には進めないぞ」
「つまり、人と向き合え、自分と向き合えってことですか」
「さっきの話に引っ張られすぎてやしてないか。それでも構わんが。よく考えてみるのも一興」
「うーん」
鮎広はなぜか目頭が熱くなるのを淡井に悟られないよう、考え込むふりをした。考えても分からない。自分という人間の本質?僕の分かって欲しいこと……。鮎広の頭の中は混沌としていた。自分の中にあったひっかかりを、引っ掻き回されたあげくそれがなんなのか結局よくわからないというもどかしさ。
「淡井さん、僕はやっぱり考えるのは苦手です。生きることも苦手です。伝えることも苦手です。もしこの能力が僕自身を表す『名刺』になってくれるのであれば、『主張』になってくれるのであれば、僕はこの力を一番にぶつけたい相手がいます」
「それは、私ではない、そうだな」
「はい」
「ならばもう行け。そいつの元に。私はもう一人、道を示してから後を追うよ」
「僕を止めに来たんじゃ……僕らの敵になったのにいいんですか?」
「敵ね、だってそうだろ?いつだって苦難をぶつけ成長を促すのは敵の役目だ。なんらおかしくない。それにもしここで君を止めにかかっても無駄だろう。今君には行くべき場所が見えている。話がごっちゃになるが、寄る辺がなくたって平気で生きていける方法は……」
「?」
淡井は鮎広の背中を叩いた。
「足元が崩れ落ちる前に前へ進め、だ」
前によろめきながらそのまま立ち上がる鮎広。
「……はい」
鮎広は淡井に向き合い、しばらく沈黙した。
「どうした悩める若者よ。振り向く前に、前へ進めだ」
「いや、なんかこの空気ですみませんが、鍵閉めるんで一緒にでましょう」
「ああ、そうだな」
台無しだった。
……後編に続く。