ホシゾラ
過去の世界から目覚めたら、そこは灰色の世界があった。
辺りを見回しても白と黒の二色しか存在しない。
鏡を見ても、自分の身体は血の通わない人形にしか見えなかった。
「嘘だろ、おい……」
拳で殴りつけた鏡は、中心部分から崩れ去り床に落ちてゆく。
鏡の割れる音を聴きつけたのか、外から何人もの人がこの部屋に向かってくるのが、数多くの足音から窺えた。
けど、そんなのはどうでも良かった。
鏡によって傷付いた拳から流れる血。
床に落ちて広がるそれさえ、紛れもなく赤ではなく黒だった。
「ハッ、ハハハハハハ……」
何時の間にか、俺は黒い血に染まった鏡の前に力なく座り込み嗤っていた。
勢いよく扉が開かれる音がして、後ろを向くと息を荒くした二~三人の男女が立っていた。服の色は分からなかったが、その容姿と格好から容易に医者と看護師だと分かった。
暫くして、手の治療とこれまでの経緯を説明された。
数日前、交通事故に遭い、身体に外傷は無いものの頭を強く打ち、そのため今まで眠っていたとのことだった。
本来なら、植物人間になっていてもおかしくない状況だったらしく、視界が灰色にしか見えないのは未だに脳が回復しきれていないためで、暫くすれば治るらしい。ただし、数日先になるか数年先になるかは不明だが。
医者の話を聞いている時には、その時の事は思い出せたので目の事は不安に思いながらも、それ以外のことはただ呆然と聞いていた。
新たな違和感を感じながら。
本当は起きた時から、色彩を失くした以外にまだよく分からない変な違和感があったのだが、俺は他に何があろうともすでに全てを受け止めていた。
夕方。
俺は何か大切なことを忘れている気がした。
そう、本当にとても大切な何かを。
「今日って、何日ですか?」
「今日は七月六日ですよ」
その時、俺は全てを思い出しベッドから飛び起きて駆け出した。
後ろから看護師の呼び止める声がしたが、
無視して裸足で病院を出た。
「どうして忘れていたんだ俺は。あの約束を、どうして……」
事故のせいか、体が重い。けど、俺は走り続けたあの場所に行くために。アスファルトの上を裸足で走ったためか皮膚が裂け、後ろにはいくつもの足跡が黒々と残っていた。
暫くして、俺はある店の前に着いた。
友人の経営しているバイク屋だ。
約束を果たすためには、あの場所に向かうためにはどうしても足がいる。そのために来た。
俺に気が付いて店の中から友人が煙草を銜えながら飛び出てきた。
「お前、事故で入院して……、抜け出してきたのかパジャマのままで。それになんで裸足なんだ、足から血が出てるぞ」
友人の質問を無視して俺は、呼吸を整えながら話を切り出した。
「すまん、今すぐにでも足がいる。用意してくれないか?」
俺の表情を見てか、一つ返事で答えてくれた。
「分かった。けど、その前に足消毒して、二階に行って着替えてこい。俺の服なら何だっていいから。パジャマじゃ乗れないだろ」
「助かる」
二階に駆け上がり急いで着替えた。
少しでも急がないと。
着替え終わり、一階に戻ると一台のバイクが用意されていた。それは、事故時に乗っていた愛車だった。
「事故の後、俺の所に頼んで回してもらったんだ。もう改修してある。言っておくが、以前よりスペック上がってるから、注意して乗れよ。ヘルメットは、壁に掛かっている青いヤツだ。」
俺は壁に向かって歩いたが、あることに気が付いた。
「すまん、どのヘルメットか分からないんだ。教えてくれないか?」
後ろから煙草の落ちる音がした。
「お前、まさか……」
「ああ、どうやら事故った時に視覚をやられたらしい」
「それで乗るなんて本気か?」
「本気だ。何があっても守らなくちゃいけない約束があるんだ」
観念したのか、グローブとヘルメットを投げて寄越した。
俺は手を伸ばすが、ヘルメットは乾いた音を鳴らし床に落ちた。
「まさか、片方見えてないんじゃないか?」
起きた時からあったもう一つの違和感。
俺は手を右目に被せてみると、何も見えなかった。
「そう……、みたいだな」
「そんなんで乗ったら、死ぬぞお前。大切な約束だからって無謀すぎる」
「あいつが待っているんだ。だから、行かないとあの場所に」
「おっ、おい、待て」
友人の忠告を無視して、グローブをしてヘルメットを被り、エンジンをかけ走り出した。
ライトの光が過ぎてゆく夜の闇の世界を照らす。けど、自分には全てが灰色にしか見えない。
街灯も、信号機も、そして人も、未来も。
片目しか見えないせいか、距離感がうまく掴めず最初は苦労したが、もう夜の十一時過ぎのため道路は閑散としていて何とかなった。
「もっと早く、もっと早く、もっと早く」
そう呟きながらスピードを上げる。
たとえ灰色の未来だろうが、それより先の未来は色に満ち溢れ輝いていると信じて。
そして俺は約束の場所に着いた。
「ごめん、待たせたな」
「うん。待ったよ、ずっと」
小さな山の上にある、小さな公園。
その先にある小さな展望台。
そこに俺たちは居た。
七月七日の七夕、午前0時0分、この展望台で再び逢おうと誓い合った些細な約束。
その約束を守るために、俺は来た。
かつて言えなかった言葉を胸に秘めて。
二人で見上げた宙は、星々で輝いていた。
もっとも俺には星座の形と星光の弱でしか星を見分けられなかったが、
「織姫と彦星も逢えているかな?」
「大丈夫。きっと、逢えているわよ。私達と同じように」
そう答えながら、彼女の表情はどこか哀しげなものだった。
「二人は幸せだったのかな?一年にたった一日しか逢えなかったのに」
「幸せだったと思う。でも、私は辛い思いもあったと思う。逢えない間、相手には怪我なんかして欲しくない。逢えたとしても、そのために危険な目にあってほしくないのよ…私は。約束を守れなくたっていい。だから、だから―…私を一人にしないでよ、お願いだから……一人にしないで」
俺が此処に来るまでのことを知っていたのに、驚きはあったもののそれ以上に彼女を泣かしてしまったことが、とても哀しかった。
そして俺は、すすり泣く彼女を抱きしめた。
「今、俺の目は色が見えない。片目も見えず、距離感といったものも分からない。だから、これからはずっと俺といて欲しいんだ
この目が治ったとき、最初にお前の笑顔を見ていたい。そして、お前との距離が分からないのは、嫌だ。だから、これからはずっと俺の手を握っていてくれないか?」
「うん。もう、絶対に離さないんだから」
色のない星空は、先の分からない未来のように暗かったが、数多くの星々は未来に光があることを俺に教えてくれた。
「織姫と彦星は幸せになれたのかな?俺達と同じように」
「幸せになれたと思う。今は離れていても、いつか絶対に一つになれるんだから。私達と同じようにね」
星空の下、手を繋ぎ合い宙に掲げると、そこには新たな二つの紅い星が輝いていた。