第84話 「心情」
橘みずきの挨拶も、他の者たちには、ライバルが増えたとしか思われていないのだろう。
誰も声を出すものもなく、歓迎のムードなど微塵もなかった。
そんな空気を気にすることもなく、講師の渡瀬が指示をした。
「では、橘さんは、あのピアノに掛けてください。
ほかの人達は、今言ったことを参考にして、作曲をしてください。」
3人の女子の目は、誰が見ても真剣そのものだった。
このSクラスというのは、渡瀬充が必ず売れると見込んだ者たち、つまりは、奨学生の集まりで、シャイングループのバックアップを受けて、メジャーデビューに一番近い者達のクラスだ。
「あの、あたし、ピアノは学校の授業くらいでしか、弾いたことないんですが・・・。」
「大丈夫、ギターがあそこまで弾けるのなら、すぐに上達するし、作曲の道具として利用するのが目的だから、人に聴かせるほど上手くなる必要もない。君の場合は、ギターでイメージやコード進行を作って、ピアノで煮詰めていくのが良いと思う。これから毎日、一時間はピアノを練習して、あと一時間は、ボイストレーニングと歌の練習。残りの一時間をギターと作曲・作詞の時間にあてることにしよう。頑張って毎日来てくれ。頑張った時間だけ、君は必ず成長する。」
「はい、頑張ります。宜しくお願いします。」
「あと、僕が来れない時は、坂崎俊というものが来るから宜しく。」
「もしかして、KTMの坂崎俊さんですか?」
「そう、僕の優秀な教え子の一人だ。」
「渡瀬さんって、凄い方なんですね。」
「もしや、僕のこと全く知らない?」
「はい。」
「あっ、そう。 其の方がいいかもしれないね。一応、名刺を渡しておくよ。」
渡瀬は、スーツの内ポケットから名刺入れを出して、一枚をみずきに手渡した。
その名刺には、(株)シャインミュージック常務取締役 兼プロデューサー渡瀬充
と書かれていた。
一般には、プロデューサーとして有名だったが、みずきは、常務取締役の文字を見て、かしこまると、おじぎをした。
こうして、みずきのメジャーデビューに向けての第一歩がスタートした。
同じ頃、鮎川瑠美は、日本武道館でライブのリハーサルをしていた。
瑠美は、マネージャーの真紀を呼びつけて、話を始めた。
「ねぇー、もう終わりにしない? 朝から、ズーッとで、疲れちゃった。」
「何言ってるの。もう時間がないのよ。前の瑠美は、そんなこと言わなかったのに。」
「もう、年なのよ。 足が、パンパンだわ。」
「うそ。早く帰って、誠さんと、いちゃつきたいんでしょ!」
「そうよ、何が悪いのよ。 やっと掴んだ、愛なのよ。 大事にしたっていいじゃない!」
「ファンが聞いたら、嘆くわよ。」
「何よ。 いつも、二言目には、ファン! ファンあっての、鮎川瑠美なのよって!
解ってるわよ、そんなこと。だけど、ファンは、私の欠けた心を癒してくれないわ。」
「いいえ。あなたは、解ってない! ファンが、どれだけ大事なものかが。」
「もういい! 私、帰る!」
瑠美は、歩きだした。
「待ってよ! あなた、プロでしょ!」
瑠美の足取りは止まらず、出て行ってしまった。
そんな瑠美の後ろ姿が見えなくなると、真紀も本音を漏らした。
「まったく! 信じらんない!
何で私が、あなたのマネージャーなんかしなきゃいけないのよ。」
真紀は、監督のところへ行って、お詫びをした後、舞台に立ち、マイクを使ってスタッフに話した。
「皆さん、すみません。鮎川瑠美は、体調不良により、帰らせました。
明日以降、また、宜しくお願い致します。」
真紀の言葉を聞くと、スタッフはブツブツと文句を言いながら、解散していった。
舞台にたたずむ真紀自身も、最近の瑠美の言動には、イライラが募っていた。
瑠美は、そんなことは気にも掛けずに、誠の待つ自宅に車を走らせた。
「誠、帰ったわよ。」
「お帰り。意外と早かったね。」
「うん。長くやってれば、いいってもんじゃないから。」
「そう・・・真紀さんとは、うまくやってよ。一番の理解者なんだから。」
「解ってる。 晩ご飯、まだでしょ? 外に食べに行こう?」
「真紀さんに怒られるよ。 パパラッチされたら、大変だし。」
「大丈夫だよ。 そんなに気付かれるものじゃないわ。行きましょう。」
「そうかなー。 サングラスくらいは、してよ。」
「はい、はい。」
2人は、真っ赤なポルシェに乗って、ランドマークタワー方向に向かった。
ところが、駐車場から出てきたところを待ち伏せしていた者がいた。
写真週刊誌キャツアイの記者 友永真司だった。
「ライブのリハから随分と早く帰るなと思って尾行したら、ビンゴ!
やっぱり男でしたか、鮎川瑠美さん。
あなたには、何の恨みもないが、いや、返って歌声に元気をもらっている一人だけど、
こっちも商売なもんで許してくれよ。」
彼の手にあるデジカメのモニターには、真っ赤なポルシェのハンドルを握る鮎川瑠美と
その助手席に座っている野田誠の顔がハッキリと写っていた。
撮影されたことも知らずに、瑠美と誠は、ランドマークタワーのレストランでディナーを摂り、臨海公園で夜景を楽しんだ。