第45話 「タクシー」
5分くらいすると、誠は駅員を連れて戻って来た。
その手には担架が用意されて、瑠美は運ばれた。
その後、救急車に乗せられて、近くの病院で診察を受けた。
幸いにも骨に異常は無かったが、足首は固定されて、一人で歩くのは無理だった。
椅子に腰掛けると鮎川瑠美は呟いた。
「どうしようー。マネジャーが来るまで、まだ時間あるし。」
お腹が空いた様子の誠が言い出した。
「それじゃー、僕は、これで帰ります。」
誠は、留美に一礼すると、出口に向かって歩き出した。
「待って! 待ってください!」
留美は、慌てて立とうとして、倒れてしまった。
誠は、振り向くと戻って来た。
「大丈夫ですか? 無理しないでください。」
誠が、留美の顔を見ると、泣き顔になっていた。
「こんな所に、一人、置いていかないでください。」
待合室の灯りは、薄暗く、他に誰も居なかった。
誠は、お腹が空いていた。
「あと3時間くらいですかね。何か食べにでも行きますか?」
鮎川瑠美は、お腹の空き具合よりも、自宅で横になりたかった。
「ちょっと疲れちゃって、もしお願い出来れば、自宅まで送ってもらえませんか?
何か御馳走もしますから。駄目ですか?」
すぐに何か食べたいと言いたげな誠だったが、瑠美の気持ちを察した。
「別にそれは構わないですけど・・・。」
鮎川瑠美が嬉しそうに言った。
「ありがとう。自宅は、横浜駅の近くのマンションなんだけど。タクシー、呼んでもらっていいですか?」
誠は、みずきのことが好きになって付き合っているという自覚もあって、あこがれの鮎川瑠美との再会にも消極的になっていた。
しかし、鮎川留美の自宅の場所が分かると思うと少し嬉しくなって来た。
「分かりました、あそこにタクシー会社直通の電話が有るから掛けて来ます。」
鮎川瑠美の顔に笑みがこぼれた。
「助かります。本当に野田さんが居てくれてよかった。」
少し待っていると、タクシーが来た。
2人が乗り込むと鮎川瑠美が運転手に行き先を告げた。
「横浜駅方面へ向かってください。」
タクシーは、2人を乗せて走りだした。
30歳代の男性運転手が、声を掛けて来た。
「お客さん、もしかして、鮎川瑠美さんですか?」
誠は、ハッ!として、瑠美の顔を見た。
瑠美は、慣れたように返した。
「はい。分かりましたか。」
運転手のテンションが急に上がった。
「やっぱり! CD沢山持ってますよ。デビュー曲の『Love Kiss』最高ですよね!」
瑠美の顔は仕事モードになっていた。
「ありがとうございます。」
運転手の口は軽くなった。
「新曲もいいですよね! サビの所なんてもう、勝手に身体がリズム取っちゃって・・・」
瑠美が、おしゃべりが止まらなくなりそうな運転手に割って入った。
「応援してくれる皆さんのお陰で、新曲も1位になりました。ありがとうございます。
あっー、すみません。あそこのコンビニで止めてください。ちょっと買いたい物が出来たので。時間がかかるので、待たずに行ってください。」
運転手はどうしたんだろうと思った。
「えっ? そうですかー。分かりました。」
2人は、タクシーを降りた。
運転手は残念そうだったが、ドアーを閉めて走り出した。
瑠美は、誠の肩に掴まりながら言った。
「御免なさい。自宅を知られたくないから。他のタクシーを捕まえましょう。」
誠は、うすうす気が付いていた。
「有名人は、大変なんですねー。」
瑠美は誠の顔を見てニッコリした。
「転んだ階段のところに、サングラスを置き忘れちゃったから、バレちゃったみたい。
ねー、その帽子貸してもらえない?」
誠は、ヤンキースの野球帽を手に取って見ながら言った。
「いいですよ。でも、汚れてますよ。」
瑠美が、手を上げた。
「あっ! タクシー、来た!」
2人は、タクシーが前に停まると乗り込んだ。
誠はお気に入りのヤンキースの帽子を、瑠美に手渡した。
瑠美は礼を言うと、運転手に顔が見えないように帽子を前に傾けて被った。
「すみません。横浜駅そごうの裏側の方にお願いします。」
乗ってすぐに、具体的なマンション名を言ってしまうと、先ほどのように鮎川瑠美であることが分かってしまうとまずいので、瑠美はアバウトな言い方をした。
タクシーが走りだすと、瑠美が誠の顔を見て話しだした。
「私の為に、振り回して御免なさい。何かお礼がしたいんだけど、もし何か有れば遠慮なく言ってください。」
礼のことなんて考えていなかった誠は、直ぐに答えた。
「別に、そんな、いいですよ。」
そうはいかないと、瑠美はちょっと意気込んだ。
「でも、この前の事もあるし、何でも言ってみてください。私が出来そうな事なら考えてみますよ。」
誠は、10秒くらい考えて言い出した。
「それじゃー、サインを10枚もらえますか?」
慌てて瑠美は、人差し指を唇に当てて、小声で言った。
「シーシー、だめよ、そんなこと言っちゃ。」
誠も小声で慌てて返した。
「あっ! そーですよね。また、ばれちゃいますね。すみません。」
小声の会話がかえって運転手の気を引いたのか、ルームミラーで様子を伺っていた。
瑠美は、ごまかそうとして、わざとらしく声を大きくした。
「何か予定が有ったんじゃないの?」
誠も同調した。
「いいえ、特に何も無かったですよ。気にしないでください。」
暫くすると、タクシーは横浜駅そごうのそばに来た。
瑠美が、運転手に道を指示した。
「あの高い建物です。次の信号を左に曲がると前に出ます。」
タクシーが正面に着くと、2人は降りた。