王冠放棄
王太子レオンハルトは、子供の頃から笑うことがなかった。
それは感情が欠けていたからではなく、笑う必要のある場面が人生の中に一度も用意されていなかったからであり、彼自身もまたそれを疑問に思うことなく、そういうものなのだと理解する前に受け入れていた。
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物心がつくよりも前に、母とは引き離されていた。
理由は政治的配慮だと説明されたが、その言葉の意味を理解できる年齢ではなかったし、理解しようとする機会も与えられなかった。ただ、それが王族として当然の処置であると告げられ、レオンハルトは何も言わずに頷いた。
彼にとって、理解することよりも先に、従うことが求められていた。
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侍従たちは常に一定の距離を保ち、感情を一切挟まずに職務を遂行する。
「次は歴史の授業です」
「次は算術の授業です」
「次は礼法の時間です」
その声はいつも同じ調子で、抑揚もなく、まるで時計の針のように正確に時間を刻んでいく。
レオンハルトの一日は分単位で管理されており、食事、休息、会話に至るまで、すべてが予定の中に組み込まれていた。そこに自分の意思が介在する余地はなく、それでも彼は不満を抱かなかった。
それが王族としての義務であり、役割であり、生まれた時から与えられた当然の形だったからだ。
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やがて婚約が決まる。
相手は家格の釣り合う公爵家の令嬢であり、その選定に感情が入り込む余地はなかった。
「貴方のような美しい方が婚約者に決まり、嬉しく思います」
レオンハルトはそう口にしたが、その言葉はあらかじめ用意された定型句に過ぎず、そこに実感は伴っていなかった。
「私も、賢いと聞く殿下の婚約者となれて光栄です」
令嬢もまた同じように返す。
それ以上の言葉は続かなかった。
お互いに、相手に対する関心が存在しなかったからだ。
それでも問題はなかった。
それが正しい形だったからだ。
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魔法学院への入学もまた、義務の一つとして与えられた。
だが、そこはこれまでの世界とは明らかに異なっていた。
授業は存在する。
だがその内容は、すでに王太子教育の中で学び終えたものばかりであり、レオンハルトにとっては確認にすらならない反復だった。
それ以上に異質だったのは、時間の存在だった。
授業と授業の間に空白がある。
何をしてもいい時間が、そこにあった。
レオンハルトはその時間の扱い方が分からなかった。
何かをしなければならないわけではないが、何もしてはいけない理由もない。
その曖昧さは、彼にとって初めての経験だった。
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そんな中で、少女に声をかけられた。
「王太子って、本当は不幸なのね」
あまりにも直接的な言葉だった。
レオンハルトはその意味を理解できず、わずかに視線を向ける。
「……なぜだ」
少女は一瞬だけ言葉を選ぶように黙り、それから静かに言った。
「ごめんなさい。あなたを恨んだことがあるの」
恨みという言葉に、レオンハルトは引っかかりを覚えた。
自分が誰かにそのような感情を向けられる存在だとは、これまで考えたことがなかった。
「なぜ?」
少女は少しだけ視線を逸らしながら答える。
「お腹が空いて、イライラした人に殴られたり蹴られたりするの。孤児院では普通のこと。でも、あなたには想像できないでしょう?」
その言葉の内容は理解できた。
だが、それが現実の出来事として存在していることを、実感として受け取ることができなかった。
レオンハルトは黙ったまま、何も返さない。
すると少女は続けた。
「でも、あなたはあなたで苦しんでるのね」
「苦しむ……?」
その言葉は、自分に向けられるものではないと思っていた。
「心を殺して、自分を守ってるのね」
レオンハルトはその言葉をすぐには理解できなかった。
だが、否定もできなかった。
なぜなら、笑うことも、怒ることも、悲しむこともなく日々を過ごしてきた自分の状態が、それに近いものであるように感じられたからだった。
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それから、少女と話す機会が増えた。
特別なことを話すわけではない。
だが、言葉を交わすという行為そのものが、これまでの彼の生活には存在しなかったものだった。
時間が流れる。
予定ではなく、自分の感覚で。
その変化は小さなものだったが、確実にレオンハルトの内側に影響を与えていた。
「君と話していると、心が柔らかくなる。それが、嬉しい」
その言葉は、彼にとって初めて“自分の内側から出てきた言葉”だった。
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やがて、周囲が動き出す。
王太子に近づこうとする者たちにとって、少女は明確な障害だった。
排除すべき対象だった。
ある日、少女は傷だらけの姿で現れた。
服は裂け、肌にはいくつもの痣が浮かんでいる。
それでも、彼女は静かに言った。
「レオンハルト、会えるのはこれが最後だと思う」
その声には不思議と恐怖がなかった。
「私は殺される」
レオンハルトの中で、何かが強く揺れた。
「僕が守る。そんなことはさせない」
その言葉は反射的に出たものだった。
だが少女は首を振る。
「どうやって?」
その一言で、すべてが止まる。
レオンハルトには理解できた。
自分には何もできない。
王太子であるにもかかわらず、自分の意思で動かせるものが何一つ存在していないことを。
「あなたの命令を聞く人なんていない。あなたを型にはめる人しかいない」
その通りだった。
レオンハルトは初めて、自分が空っぽであることを理解した。
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「お願い。一緒に死んで」
少女の声は静かだった。
「あなたに会えないのは辛い。今世で結ばれないなら、来世で」
レオンハルトは考えた。
初めて、自分で何かを選ぼうとした。
これまでの人生はすべて決められていた。
何一つ、自分で決めていない。
王冠も、地位も、義務も、すべて与えられたものだった。
「……どうやって」
少女は小さな瓶を取り出す。
「毒よ。苦しまない」
レオンハルトはそれを見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
それが、彼の人生で初めての選択だった。
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二つの盃に毒を注ぐ。
その手は不思議なほど落ち着いていた。
少女と向き合い、互いに見つめ合う。
「ありがとう」
その言葉が、誰に向けられたものなのかは分からなかった。
二人はお互いに毒杯を呑ませ合う。
お互いの手は震えていなかった。
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分単位で管理されてきた人生も。
王冠も放棄した。
すべてを手放して。
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レオンハルトは、初めて自分で何かを選んだ。
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二人の遺体は、穏やかな表情をしていた。
それはまるで、ようやく何かから解放されたかのようだった。
この短編は、乙女ゲームのバッドエンド絵師、ゲーム世界に転生する 〜バッドエンドしかない世界で、運命を捨てる〜の中に出てくるゲームの内容です。




