エピローグ:「花の歌」静かなる調べ
施設の片隅で奏でられる、狂った調律の『花の歌』。三人は、ホールの壁に掛かったテレビが映し出す衝撃的なニュースに気づかずにいた。
『――本日、国際共同捜査チームは、バイオテクノロジー大手「マクミラン・ファーマ社」を強制捜査。1960年代に封印された神経ブースターを不正に製品化した疑いで経営陣を逮捕しました。通称「フローラル」。全盛期のパフォーマンスを再現できるとする一方、一度の服用で人格崩壊や若年性認知症を誘発する極めて高い危険性が……』
ニュースキャスターの声は、優しいピアノの連弾にかき消されていく。お母さんを壊し、私を狂わせ、この世界に「偽りの完璧」を振り撒いた毒の正体が暴かれた瞬間だった。けれど、今の私たちには、そんな世界規模の騒乱さえも遠い世界の出来事のようだった。
私は、お母さんの震える指が刻む、たどたどしい旋律を、ただ静かに支え続けた。
十年後
窓の外には、柔らかな午後の光と、手入れされた庭の緑が広がっている。そこにはもう、あの青い粒も、完璧を強いる鋭い視線も、救急車のサイレンもない。
「……先生、今のところ、もう一回いいですか?」
幼い生徒の声に、私は穏やかに微笑んで頷く。
十年後の今、私は小さなピアノ教室を開き、静かに暮らしている。あの日以来、私は派手なステージからは退いた。指先の超絶技巧はもう戻ってこないけれど、今の私の音には、かつての「全盛期」にはなかった、人の心を震わせる優しさが宿っていると多岐川さんは言ってくれる。
多岐川さんは、今も変わらず良き友人として、時折この教室を訪れては、庭の木々やピアノの調律を眺めて帰っていく。リビングの棚には、若くして亡くなったお母さんの遺影が飾られている。その隣には、あの日、施設のホールで多岐川さんがこっそり撮ってくれた、ボロボロのピアノを前に微笑み合う二人の写真。私はゆっくりと鍵盤に手を置いた。薬物のない、嘘のない世界で、私は今日という一日を慈しむように音を紡ぐ。
(……お母さん。聴こえていますか。今の私の、この音を)
窓から吹き込む風が、楽譜のページを優しくめくった。そこに記されているのは、かつて呪縛であり、そして最後に救済となった、あの『花の歌』だった。
(了)




