第8章:決意のリサイタル、虚構の栄光そして……。
「伊織さん、準備はいいかい?」
リビングから多岐川さんの落ち着いた声が聞こえる。私は鏡の中の、死人のように青ざめた自分を凝視し、無理やり口角を上げた。「……はい、行きましょう。多岐川さん」カバンの中には、新しい人生へのパスポート(楽譜)と、破滅への招待状(青い薬)。多岐川さんの差し出した手を取りながら、私は自分の心が、急速に冷え切っていくのを感じていた。お母さん、見てて。
あなたの娘は、今日、最高傑作として、あるいは……。
ステージを包む万雷の拍手が、地鳴りのように私の足元を揺らした。一歩、足を踏み出すごとに、カバンから取り出したタブレットケースの硬い感触が、手のひらを通して私の罪を突きつけてくる。
「リラックスして。君の音楽を信じなさい」
袖で送り出してくれた多岐川さんの、あの穏やかな、けれどどこか祈るような声が耳の奥で反響している。私は一礼し、黒く光るピアノの前へと進んだ。客席は暗く、お母さんの顔はまだ見えない。けれど、あの無数の視線の中に、私を切り刻むような「あの眼差し」が確実に存在している。その予感だけで、指先が氷のように冷たくなっていく。
私はペットボトルと、そしてあの青い粒の入ったケースをピアノの端に置いた。 それは私にとっての命綱であり、同時に、多岐川さんへの裏切りの証。
椅子に深く腰を下ろした瞬間、会場が、真空になったかのような静寂に包まれた。
(……お母さん。聴こえていますか。これが、私の選んだ道です)
一曲目、ラフマニノフの前奏曲『鐘』。重厚な、葬列の鐘のような低音がホールに響き渡る。一音、一音、魂を削るように鍵盤を叩きつける。指は驚くほど動く。練習した通り、多岐川さんに導かれた通りに。けれど、私の心は演奏しながら、ピアノの端に置いた「タブレットケース」から目を離すことができない。まだ、薬は飲んでいない。けれど、次のフレーズで指がもつれたら。お母さんが客席で顔を背けたら。その瞬間に、私は迷わずあの青い深淵に飛び込んでしまうだろう。激しくうねる旋律の中で、私の視界の端に、最前列で身を乗り出すようにしてこちらを凝視する「一つの影」が映り込んだ。
『鐘』の最後の残響が、ホールの高い天井に吸い込まれて消えた。指先は熱く、呼吸は荒い。けれど、私の心は急速に凍りついていった。
鳴り止まない拍手の向こう側。最前列で、微動だにせず私を見つめる一人の女性。お母さん。彼女は、喜んでいるようには見えなかった。かといって、あの日病院で見たように取り乱しているわけでもない。ただ、ただ、無表情だった。その顔を見た瞬間、私の脳裏に、かつての過酷なレッスンの日々が濁流のように流れ込んできた。
「伊織、今の打鍵は何? 心がこもっていないわ」
「そんな濁った音で、誰に聴かせるつもり?」
私の快進撃を支えたはずのその無表情が、今は私の「不完全な自由」をあざ笑う、巨大な壁となって立ちはだかる。CDの中の穏やかな母も、病室の狂った母も消え去り、そこにはただ「私の音を裁く神」としての母だけが座っていた。
(ああ……やっぱり、お母さんは認めてくれないんだ)
今のラフマニノフは、お母さんの望む「全盛期の私」ではなかった。自由を履き違えた、崩れた音楽。そう断罪されたような気がして、激しい眩暈が私を襲った。 拍手に応えるために立ち上がることさえ困難だった。視界が白く霞み、胃の底からせり上がる吐き気が、ついに限界に達しようとしている。私は、震える手を伸ばした。ピアノの端に置かれた、あの水のペットボトルと、小さなタブレットケース。袖で見守っているはずの多岐川さんの視線さえも、今はもう感じることができない。 私は、お母さんのあの「無」を消し去るために、あるいはあの視線に耐えるだけの「偽りの静寂」を手に入れるために、ケースの蓋に指をかけた。パチン、と、プラスチックの弾ける音が、私の絶望に引導を渡した。
プラスチックの冷たい感触が指先に触れた瞬間、私は客席から立ち上がる無数の熱気を感じて、ハッとした。ここには、お母さんだけがいるわけじゃない。私の復活を信じ、息を呑んで待っていてくれた人たちが、この沈黙の先にある一音を待っている。
私は、タブレットケースから逃げるように指を離した。震える手でペットボトルの水を一気に飲み込み、無理やり自分を現実に繋ぎ止める。
2曲目は、――ショパンの**『革命のエチュード』**。今の私の荒れ狂う心象風景を、そのまま音にしたような激しい旋律。左手のアルペジオが、かつての絶望を叩き潰すように鍵盤を駆け巡る。
続いて3曲目――リストの**『愛の夢 第3番』**。 お母さんから与えられなかった愛を、あるいは多岐川さんへの不確かな信頼を、甘く、切なく紡ぎ出していく。
曲が終わるたびに、会場の熱狂は一段ずつ階段を登るように高まっていく。スタンディングオベーション寸前の空気。誰もが「蔦原伊織の完全復活」を確信し、酔いしれていた。
けれど、私の意識は、ステージの袖で陶酔したようにこちらを見つめる多岐川さんでも、拍手を送る観客でもなく、ただ一点、最前列のあの「無表情」にだけ釘付けになっていた。
(どうして……? どうして何も感じてくれないの?)
一音のミスもなく、感情も込めた。全盛期には届かなくても、今の私の「最高」をぶつけている。なのに、お母さんの瞳は濁ったまま、私の音楽を一切受け付けていないように見えた。
多岐川さんは、私の演奏の変容――その「お母さんへの執着」から生まれる異常なまでの集中力を、ただの『音楽的な深み』だと誤解して、満足げに頷いている。彼は気づいていない。 私が今、自由を求めて弾いているのではなく、再びお母さんという鏡に向かって、死に物狂いで『正解』を叫んでいるだけだということに。
プログラムは、ついにメインディッシュ――ラフマニノフの『ピアノ・ソナタ第2番』へと差し掛かろうとしていた。
ラフマニノフのソナタ、その熾烈な中間部。 視界の端で、最前列の母の指が、まるでピアノを弾くようにピクリと動いた。その瞬間、私の精神はついに限界を超えた。 お母さんに、私の「自由な音」は届かない。拒絶されている。私は、もはや無意識に手を伸ばしていた。鍵盤を叩く左手の合間、一瞬の休符を利用して、ピアノの上に置かれたケースを弾くように開ける。転がり出た**「青い粒」**。 袖で見ていた多岐川さんの顔が、恐怖に歪んだのが見えた。
「ダメだ、伊織さん!」
声にならない叫びが彼の唇から漏れる。けれど、彼は動けない。今ここでステージに上がれば、ピアニスト・蔦原伊織のキャリアを、自らの手で殺すことになるからだ。私は、水を流し込む余裕さえなく、その苦い粒を噛み砕いた。
数分後。
偽りの安らぎが脳を麻痺させ始めた頃、私の演奏は人間離れした、冷徹なまでの「完璧」へと変貌した。指が勝手に動き、難解なパッセージを光速で処理していく。
(ああ、お母さん。これでいいんでしょう? 望んでいたのはこれでしょう?)
私が微笑み、安らぎの極致にいたその時だった。
「――ダメよ、伊織! そうじゃないわ。そのパッセージ!」
静まり返ったホールに、切り裂くような絶叫が響き渡った。
お母さんの叫び声は、ホールに冷や水を浴びせた。戸惑う観客の視線の中、付き添いの女性が慌ててお母さんの車椅子のハンドルを握り、無理やり旋回させる。
「静かにして、行きましょう!」
ガラガラと、静寂を切り裂くような無機質な車輪の音が、お母さんの罵声とともに遠ざかっていく。
「そんな音、教えた覚えはないわ! やり直しなさい、伊織!」
ステージの上から見たその光景は、私という存在が、一生あの「車椅子に乗った審判」から逃げられないことを宣告しているようだった。会場は騒然となり 私の心は、その瞬間、ズタズタに引き裂かれた。 安らぎの霧は一瞬で晴れ、残ったのは、薬によって感覚が飛んだ、痺れたような指先だけ。それでも、私は弾き続けた。止まれば、本当に死んでしまうと思ったから。ラストの和音がホールを震わせ、沈黙のあと、爆発するようなスタンディングオベーションが巻き起こった。
けれど、私にはそれが、自分を嘲笑う悪魔の羽音にしか聞こえなかった。フラフラと一礼し、顔を上げることもなく足早にステージを降りる。袖に立つ多岐川さんの、幽霊のような青白い顔。私は彼と目を合わせることさえできず、突き飛ばすようにして廊下を駆け抜け、控室の重い扉を閉めた。カチリ、と鍵をかける。私は壁に背を預けたまま、ずるずると床にへたり込んだ。
「……っ、あああああ!」
声にならない叫びが、狭い部屋に虚しく響く。 手のひらを見つめると、まだ指先が、薬の影響で小刻みに震えていた。
「開けてください! 鍵を!」
多岐川さんの怒声と、係員の慌ただしい金属音が、遠のいていく意識の境界で響いていた。
ガチャリ、と無機質な音を立てて扉が開かれた瞬間、多岐川さんの目に飛び込んできたのは、華やかなドレスを身に纏いながら、床に崩れ落ち、獣のような呻き声を上げる私の姿だった。
薬の副作用……急激な血圧の変化と、お母さんの絶叫による精神的なショックが、私の体を内側から焼き尽くしていた。
「伊織さん! 伊織さん!!」
多岐川さんの腕に抱き上げられた感覚を最後に、私の視界は真っ暗な練習室へと沈んでいった。遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。それは、私の新しい人生を祝うファンファーレではなく、何かを取り返しのつかない場所へ運ぶための葬送曲のようだった。
病院へと搬送される車内、多岐川さんは私の冷え切った手を、壊れ物を扱うように握りしめていた。 彼の目には、絶望と、そして自分自身への激しい怒りが滲んでいた。
だが、そんな惨状とは裏腹に、世界は「蔦原伊織」を称賛した。
翌朝の新聞やSNSには、衝撃的な見出しが躍った。
『悲劇の天才ピアニスト、狂気の母を越えて完全復活』
『ラフマニノフに見る、魂の絶唱』
客席で起きたあのアクシデントは、彼女の演奏にさらなるリアリティと悲劇性を与えたと評価され、皮肉にもリサイタルは大成功を収めていた。チケットは完売、次回の公演依頼が殺到する。多岐川さんが望んだのは、こんな「血を流した成功」ではなかったはずだ。私が望んだのは、こんな「嘘にまみれた称賛」ではなかったはずだ。
病室のベッドの上で、私はぼんやりと天井を見つめる。手の中には、もう五百円玉も、ピアノの鍵盤もない。ただ、白い天井と、隣の椅子で黙り込んでいる多岐川さんの、重苦しい沈黙だけがあった。
あの日、地獄のような喝采から救急搬送されたリサイタル以来、私の時間は止まったままだった。
次回の公演は無期限の中止。世間の熱狂をよそに、私はリビングのピアノに触れることさえできずにいた。黒い塗装の上に薄く積もった埃の膜は、私の心の死を象徴しているようだった。
けれど、多岐川さんは諦めなかった。彼は足繁く私の元を訪れ、焦らすことも、責めることもなく、ただ隣にいてくれた。あの「青い粒」を見てしまった絶望を飲み込み、彼は再び、私の調律師になろうとしていた。
「伊織さん、お母さんのところに面会に行こうか」
その優しい声に促され、私は重い足取りで施設へと向かった。
けれど、いざ到着しても、母の自室へと向かう勇気が出ない。廊下で立ち竦む私の目に飛び込んできたのは、共用ホールの片隅に置かれた、あの調律の狂った、古ぼけたアップライトピアノだった。
吸い寄せられるように、私は椅子に座った。蓋を開け、震える指を置く。奏で始めたのは、ラフマニノフのような重厚な叫びではない。ランゲの『花の歌』。お母さんが唯一愛した、あの無垢な旋律。
狂った音程が、かえって私の傷ついた心に優しく響く。その時だった。視界の左端に、静かに滑り込んでくる車椅子の車輪が見えた。 お母さんだ。多岐川さんが、私に会わせるために連れてきてくれたのだ。 私は演奏を止められなかった。止めるのが怖かった。けれど、お母さんの口から漏れたのは、あの日の絶叫ではなかった。
「……うちの伊織、すごいでしょ? 大人顔負けの演奏をするのよ」
お母さんは、隣に立つ多岐川さんを振り返り、誇らしげに、少女のような純粋な瞳で微笑んでいた。そこには支配も、完璧への強迫もない。ただ、娘を愛する一人の母親の姿があった。
「あなた、最高だわ。伊織。よく頑張ったわね」
その言葉が、私の心の中で張り詰めていた最後の弦を断ち切った。演奏が途絶える。視界が滲み、鍵盤の上にぽつり、ぽつりと、透明な雫が落ちていく。
驚きに目を見開く多岐川さんの前で、お母さんは震える手を伸ばした。そして、私の涙で濡れた鍵盤の上で、細々と、ポロン、ポロンと、頼りない指取りで『花の歌』を奏で始めた。
不協和音だらけの、けれど世界で一番優しい連弾。お母さんは、私を捨ててはいなかった。私も、お母さんを捨ててはいなかった。私たちは、この狂ったピアノの音色の中で、ようやく「ただの母娘」に戻れたのだ。




