第7章:知られざる過去、忍び寄る不安
目の前の料理が、ぼやけていく。多岐川さんの穏やかな声が遠ざかり、代わりに、防音室特有の、耳が痛くなるような無機質な静寂が私の鼓膜を支配し始めた。
――そこは、蔦原家の練習室。
鏡のように磨き上げられたグランドピアノの前に、制服姿の私が座っている。学校帰りの高揚感など、この部屋の重厚なドアを閉めた瞬間に霧散していた。隣に立つお母さんの気配は、もはや肉親のそれではなく、私という「楽器」を調律し、研ぎ澄ますための、峻烈な「監視者」そのものだった。
「伊織、今の一音。どうしてあんなに濁ったの」
低く、抑揚のないお母さんの声。私は何も答えず、ただ震える指を鍵盤に乗せ直す。暗い表情を浮かべたまま、私はお母さんの期待という目に見えない重圧に、必死に食らいついていた。
窓のない練習室。外界から遮断されたその空間で、お母さんの指導は、私の呼吸さえも支配しようとしていた。完璧な一音。狂いのないリズム。それだけが、この家で私が「娘」として存在を許されるための唯一の条件だった。
「もう一度。……いいえ、今のフレーズを最初から百回。一音でも迷いが出たら、また最初からよ」
お母さんの指先が、私の肩に触れる。それは愛の温もりではなく、私の肉体の弛緩を許さない、冷たい杭のようだった。
私はただ、暗い穴の底へと落ちていくような感覚の中で、機械的に指を躍らせ続けた。私たちがいたのは、音楽という名の、光の射さない美しい檻の中だった。
多岐川さんの言う通りだ。私はあの日からずっと、この檻の中にいる。そしてお母さんもまた、私をこの檻に閉じ込めることでしか、私を愛せなかった。
一方、その頃の多岐川は、冷房の効きすぎたコンクール会場の客席にいた。舞台袖から現れた高校生の蔦原伊織。制服のままの彼女の背中は、年齢に見合わないほど多くのものを背負い、不自然なほど真っ直ぐに伸びていた。
ステージ中央、椅子に深く腰掛けた彼女の瞳には、あの日のキラキラとした光は微塵も残っていなかった。多岐川は、客席の暗闇の中で拳を握りしめた。一音目から、その音は完璧だった。一分の狂いもないリズム。研ぎ澄まされた打鍵。けれど、多岐川の耳に届くその旋律は、まるで血を流しながら、見えない鞭に怯えて踊る操り人形の悲鳴のように聞こえた。
(違う。……こんなものは、君の音じゃない)
ウィーンの街角で、あの小さな指先が世界を自分の色に塗り替えていた時。技術を超えた、圧倒的な「自由」と「光」を放っていた時。それこそが、多岐川が、生涯をかけて守り抜きたいと願った唯一の輝きだったのだ。その輝きを泥足で踏みにじり、磨き上げられた抜け殻に変えてしまった母親という存在。多岐川にとって、目の前のステージで完璧に弾き続ける伊織の姿は、救いようのない悲劇そのものだった。
「……もう一度、あの光を」
拍手の渦の中で、彼は一人、呪文のように呟いた。 今、目の前で味のしない食事を喉に詰まらせている伊織。多岐川は、彼女の隣でその横顔を静かに見つめる。彼は知っている。彼女が自分を「冷酷だ」と恨んでも、「母を見捨てるのか」と絶望しても、あのお母さんという重力から彼女を完全に切り離さない限り、あのウィーンの輝きは二度と戻らないことを。
たとえ、そのために彼女の心を一度殺すことになっても、彼は迷わない。それが、折れた翼を持つ彼が選んだ、唯一の「守り方」だった。
目の前に置かれた、何も書いていない空白の書類。それは、私のサイン一つでお母さんの居場所を、そして私の「義務」を、永遠に過去へと追いやるための白紙の処刑台だった。
握りしめたペンの先が、微かに震える。その震えは次第に激しくなり、私はついに耐えきれず、ペンをテーブルに叩きつけた。
「……どうして、どうして多岐川さんは、私からお母さんを引き離そうとするの!」
叫び声が、静かなリビングの空気を切り裂いた。キッチンにいた多岐川さんの背中が、微かに揺れる。私は立ち上がり、彼の背中に向かって、これまでのすべての葛藤をぶつけるように言葉を叩きつけた。
「お母さんの幸せは、ここで暮らすことでしょう? あの人が心血を注いで私を育て、守り抜いてきたこの家で、私の音を聴きながら過ごすことじゃないの? それを奪うことが、どうして『最善』だなんて言えるの!」
多岐川さんは、ゆっくりとこちらを振り向いた。その表情は、驚くほど冷静で、そして深い悲しみを湛えているようにも見えた。彼は、散らばった書類を静かに見つめ、それから私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「伊織さん。君の言う『幸せ』は、お母様のものか、それとも君の『罪悪感』を埋めるためのものか、どちらだい?」
彼の低い声が、私の心臓を冷たく掴む。
「あの日、コンクールのステージで死んだような顔をして弾いていた君を、お母様は『幸せ』そうに見ていたかい? 違う。彼女が求めていたのは君の幸せではなく、君という作品の『完成』だった。……そして今の君がしようとしているのは、自分を犠牲にして、二人で再びあの共依存の泥沼に沈んでいくことだ。それは『幸せ』とは呼ばない。……共倒れと呼ぶんだ」
多岐川さんの言葉は、一滴の容赦もなく、私の理想を打ち砕いていく。お母さんの幸せ。私の幸せ。その二つが、決して同じ場所には存在できないという現実を、彼は無慈悲に突きつけていた。
――共倒れ。
多岐川さんのその言葉が、私の耳の奥で、割れたピアノの弦のように鋭く弾けた。視界が歪み、足元の感覚が遠のいていく。脳裏に浮かんだのは、サキちゃんと笑い合った放課後。 「バザーで一緒に弾こうね」と指切りをした、あの幼い約束。 誰のためでもなく、ただ音が空気に溶けていくのが楽しくて、キラキラした光の中でピアノを叩いていた子供の頃の自分。
けれど、その光の記憶を塗り潰すように、制服姿の私が暗い練習室でお母さんの視線に射抜かれている姿が重なる。自由になろうとすれば、お母さんの期待を裏切ることになる。お母さんを救おうとすれば、私は二度と自由にはなれない。
(ああ……私は、どっちを選んでも壊れてしまうんだ)
逃げ場のない閉塞感が、私の呼吸を浅くする。震える指先が、テーブルの上の真っ白な書類に触れた。多岐川さんの言う「正しい未来」へと続く、無機質な紙。その瞬間、握りしめていたペンから、ポタリと黒いインクが滴り落ちた。真っ白な世界に、取り返しのつかない汚れが広がっていく。それはまるで、私の心の中にあった最後の「希望」という名の白紙が、現実という黒い毒液に侵食されていく光景のようだった。インクの染みは、書類の文字を、そして私の逃げ道を、じわじわと塗り潰していく。
「……多岐川さん」
私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。 インクを吸って重くなったペン先を、私はその黒い染みの中心へと突き立てる。
「私は、お母さんを……」
あの日のキラキラした私は、お母さんを切り離すことでしか、「蔦原伊織」という自由を手に入れることはできないのではないかと感じ始めていた。
ペン先が書類に触れる、そのわずか数ミリ手前で、私の指が凍りついた。
脳裏をよぎったのは、お母さんの冷たい言葉でも、サキちゃんとの五百円玉の約束でもない。 つい先ほど、多岐川さんが吐露した自らの過去。
『――あの時、なぜ、手が止まってしまったんだい?』
『――会場のステージの上の伊織には、微塵も(輝きが)残っていなかった』
私は、伏せていた視線をゆっくりと上げ、キッチンの方を……背中を向けて片付けをしている多岐川さんを見つめた。 心臓の鼓動が、急激に速くなる。
(……おかしい)
多岐川さんは言った。私がウィーンに留学中、ストリートピアノを弾いていたあの時、初めて私という存在を知ったのだと。けれど、さっきの彼の言葉はどうだろう。彼は、私が高校生だった頃、あの窓のない練習室で磨り減り、コンクールで抜け殻のように弾いていた私の姿を「見ていた」かのように語った。
ウィーンで出会うよりもずっと前。私がまだお母さんの支配下で、絶望の中にいたあの頃。多岐川さんは、一体どこにいたのか?
多岐川という男が、私の人生に現れたのは、本当にあのウィーンの街角が「初めて」だったのだろうか。 それとも、私はもっとずっと前から、彼の……「観察者」の視線に晒されていたのではないか。
「……多岐川さん」
私の問いかけに、食器を洗う水の音が止まった。静寂が、以前よりもずっと重く、不気味な粘り気を持ってリビングに満ちていく。
「あなたは、私の留学前の演奏を……日本のコンクールでの私を、どこで見たんですか?」
多岐川さんの背中が、一瞬、石のように硬直した。
多岐川さんはゆっくりと振り返り、濡れた手を拭うことも忘れたまま、私を真っ直ぐに見つめた。 その瞳は、遠い過去の、眩しすぎる光を追っているようだった。
「……初めて君に会ったのは、ウィーンの街角にあるストリートピアノの前だ。それは嘘じゃない。ただ、僕のウィーン留学中のことだ。」
彼は重い口を、一つ一つ言葉を噛みしめるように開いていく。
「東洋人の女の子が、母親と連弾していた。母親らしい女性のリードで始まったはずの演奏だったのに、気づけば、その幼い少女の表現力が、大人の演奏を……あの場の空気すべてを圧倒していたんだ。母親が弾けないんじゃない。君の才能が、あまりにも巨大すぎて、周囲を飲み込んでいたんだよ。僕はその時、打ちのめされると同時に、魅了された」
多岐川さんの声に、かつての熱が宿る。
「数ヶ月後、僕は知った。僕のパトロンとして名乗りを上げてくれていた男性の娘が、君だったということに。プロのピアニストとして活動を始めてすぐの頃だ。……だから、君が日本のコンクールに出場すると聞いて、僕は迷わず会場へ向かった。君のあの自由で、世界を圧倒する演奏が、また見られると信じていたから」
彼はそこで言葉を切った。自嘲気味な笑みが、その端正な顔に浮かぶ。
「けれど、ステージにいたのは、僕の知っている君ではなかった。お母様の完璧な管理下で、型にはめられ、魂を削り取られた……ただの『優秀な学生』だった。僕は、その光景に耐えられなかったんだよ。君をあんなふうに変えてしまった存在が、許せなかった」
パトロンの娘。お父さんを通じて、彼は私をずっと「見守っていた」のではない。彼は、お父さんの庇護を受けながら、その裏で、私が壊れていく過程を……お母さんによって「自由」を奪われていく様を、絶望とともに見つめ続けていたのだ。
「パトロン……お父さんが……」
多岐川さんの口から漏れたその言葉が、私の胸の奥に澱んでいた薄暗い猜疑心の影を、静かに、けれど確実に消し去っていった。 そうだった。お父さんは昔から、若くて才能のある芸術家を支援することに、私への教育と同じくらいの情熱を注いでいた。その中の一人が多岐川さんだったのだとしたら。彼が私の成長の過程を、時にはお父さんからの報告で、時には客席からの視線で追い続けていたとしても、不思議ではない。
彼がコンクールの会場にいたのは、私を監視するためではなく、かつて自分が救われた「光」の続きを、ただ純粋に追い求めていただけだったのだ。
私の指先から、強張った力が抜けていく。インクの染みがついた書類が、今はもう、私を追い詰めるだけの凶器には見えなかった。これは、多岐川さんが私をあの絶望の練習室から救い出そうとして差し出した、不器用な、けれど何よりも強固な「盾」なのだ。
「……疑って、すみませんでした。多岐川さん」
私は、テーブルに叩きつけたペンを、もう一度静かに拾い上げた。インクの染みは消えない。けれど、その黒い染みさえも、これから始まる新しい旋律の一部にできるような、不思議な静寂が私の中に満ちていた。 多岐川さんは、私の言葉に小さく息を吐き、穏やかな眼差しを戻した。
「いいんだ、伊織さん。君が僕を疑うのは、それだけ君が自分の意志で歩もうとしている証拠だからね。……さあ、食事の続きを。冷めてしまったかもしれないけれど」
私は、一口。今度は、さっきよりもずっと、料理の味が鮮やかに感じられた。それは、お母さんという重力から切り離され、多岐川という理解者の隣で、ようやく自分の足で立とうとする者の、苦くて、けれど確かな決意の味だった。
静寂が、再び食卓を支配した。カチリ、とフォークが皿に当たる音が、ひどく大きく聞こえる。
私は、インクの染みがついた書類を見つめたまま、喉の奥に溜まっていた熱い塊を、言葉に変えて吐き出した。
「……多岐川さん。私は、お母さんを捨てるんでしょうか」
その言葉を口にした瞬間、心臓が握り潰されるような痛みに襲われた。 母の期待。母の狂気。母の冷徹な指導。そのすべてが私という人間を形作ってきた。それを切り離すことは、自分の半分を殺して捨て去ることに等しい。
多岐川さんは、私の言葉を否定しなかった。慰めるような甘い言葉をかけることもしなかった。彼はただ、片付けようとしていた皿を置き、私の目を真っ直ぐに見つめて、静かに、けれど揺るぎない確信を込めて答えた。
「いいえ。……君は、あの日ピアノの脇に置いてきた自分自身を、迎えに行くんだ」
彼はゆっくりと私のそばに歩み寄り、テーブルの上に置かれた私の手に、自分の手を重ねた。それは驚くほど熱く、けれど調律師のように正確な温もりだった。
「お母様と一緒にいれば、君は永遠にお母様にとって、君を『完成した作品』として閉じ込め続ける地獄でもがき続けることになる。捨てるのではない。君たちは、お互いを自由にするために、一度離れなければならないんだ」
多岐川さんの指先が、書類の上のインクの染みをそっとなぞる。
「この染みは、君の覚悟だ。……お母様という偶像を捨て、自分という音楽を拾い上げるための、境界線なんだよ」
私は彼の熱を感じながら、目をつぶった。まぶたの裏に、ピカピカと光る五百円玉が見える。
(……迎えに、行かなきゃ)
私はゆっくりと目を開け、多岐川さんの手の下にあるペンを、もう一度しっかりと握りしめた。
彼の手は、私の震えを止めるように力強く、けれど押しつけるような冷たさはなかった。まるで、昨日の連弾の時のように彼が低音部で私の旋律を支え、どこまでも高く跳ばせてくれた、あの調和。
(……迎えに、行かなきゃ。あの日の私を)
インクの染みがじわりと滲む書類の上に、私はペン先を落とした。多岐川さんの手が、私の手の甲を包み込むように重なる。二人の指が一本のペンを共有し、まるで連弾で一つの和音を刻むように、ゆっくりと、私の名前をなぞり始めた。
一画、一画。それは、お母さんという神殿を壊していく音のようでもあり、新しい楽譜を書き込んでいく音のようでもあった。『蔦……原……伊……織』 書き終えた瞬間、私は深く、肺の底に溜まっていた澱をすべて吐き出すような吐息を漏らした。
書類に刻まれた自分の名前は、これまでのどのサインよりも歪で、けれど力強かった。
「……書けました」
多岐川さんは、そっと手を離した。私の手の甲には、まだ彼の熱の残像がこびりついている。彼は満足げに書類を手に取ると、そこに残ったインクの染みさえも愛おしむように、優しく見つめた。
「よく頑張ったね、伊織さん。これで、君の本当の音楽が始まる」
窓の外では、夜の帷がさらに深まっていた。お母さんを「捨てる」という決断。それは同時に、多岐川さんという新しい重力へと、自ら身を投じる契約でもあった。私は、テーブルの脇に置かれたあの五百円玉……かつて自分が置いてきた自由が、暗闇の中で一瞬、これまでになく強く光ったような気がした。
多岐川さんと交わした契約の重みを抱えたまま、私はその足でお母さんの入院する病院へと向かった。
ナースステーションでは、担当のソーシャルワーカーが明るい表情で私を迎えた。
「蔦原さん、施設の契約を済ませてくださったんですね。本当に良かったです。あそこなら専門のケアも受けられますし、お母様もきっと安定されますよ」
彼らにとって、これは「解決」なのだ。一人の患者が適切な場所へ収まり、家族の負担が軽減されるという、誰にとっても喜ばしい「正解」。私は引き攣ったような笑みを返し、事務的な懇談を終えた。
それから、廊下の突き当たりにある病室へと向かった。 病室のドアを開けると、お母さんは窓際のリクライニングチェアに座っていた。以前よりもさらに削げ落ちた頬。焦点の定まらない瞳。かつて私を一音の狂いもなく監視し続けたあの峻烈な意思は、もうどこにもなかった。お母さんは、私が入ってきたことに気づいているのかさえ怪しかった。私を見ても、何も言わない。かつての罵倒も、厳しい指導も、そして期待さえも、今の彼女からは一滴も漏れ出さない。
(……お母さん)
私は、お母さんのために用意した施設のパンフレットをバッグの中で握りしめた。「お母さん、退院の日が決まったよ。……すごく、綺麗なピアノがあるところなの」嘘ではない。
けれど、それは私自身に言い聞かせるための誤魔化しだった。お母さんは、私の声に反応してわずかに首を動かしたが、すぐにまた、何もない壁の一点を見つめる作業に戻った。
その徹底的な無関心が、私の心を切り刻む。私はその空虚な視線を直視することができず、逃げるように病室を後にした。 消毒液の匂いが漂う廊下を歩きながら、私は自分の右手の感覚を確かめた。
多岐川さんと一緒にサインをした時の、あの確かな熱。それを失えば、私はまたあの「安い幸福」を噛み締めることさえ許されない、真っ暗な練習室へと引き戻されてしまう。
「……これで、いいんだよね」
誰にともなく呟いた言葉は、冷たいタイルの床に吸い込まれて消えた。
お母さんが施設に入所してから、数ヶ月が過ぎた。
週に一度の定期的な訪問。清潔なラウンジで、穏やかな陽光に照らされるお母さんは、以前の鋭利な毒気をすっかり失っていた。会話は噛み合わないままだったけれど、荒れることもなく、ただ静かにそこにいる。その姿を確認するたびに、私の心には冷たい安堵と、消えない痛みが交互に押し寄せた。
けれど、その「痛み」さえも、今の私にとってはピアノに向かうためのガソリンになっていた。
驚くべきことに、私の指はかつてないほどの精度と速度を取り戻していた。多岐川さんのレッスンは、以前よりもさらに緻密で、容赦のないものになっていたけれど、今の私にはそれに応えるだけの「余白」があった。家の中から、あの重苦しい沈黙と、いつ壊れるか分からない母の気配が消えたからだ。
「……いいよ、伊織さん。今のフレーズ、光が見えた」
多岐川さんの声が、練習室の空気を震わせる。回復のスピードに合わせるように、周囲も騒がしくなり始めていた。無期限延期とされていた復帰リサイタル。その開催に向けた具体的なタイムテーブルが、多岐川さんの手によって次々と提示されていく。ホール、プログラム、衣装、そしてプロモーション。
再び「蔦原伊織」という名前が、クラシック音楽界の表舞台へと躍り出ようとしていた。
「次のリサイタルのメインは、やはり『花の歌』を組み込むべきだと思うが、どうだい?」
多岐川さんの問いに、私は鍵盤に置いた指を止めた。あの、お母さんが唯一愛した、そして私を縛り付けた曲。 今の私なら、あの狂った調律のピアノではなく、最高級のフルコンサート・グランドで、完璧な「花の歌」を弾くことができる。でも、それは一体、誰のための演奏になるんだろう。
「いいえ。予定通りラフマニノフでいきましょう」
私の言葉に、多岐川さんはわずかに目を見開いた。迷いのない、鋼のような響き。それは、数ヶ月前までの、誰かの顔色を伺いながら鍵盤を叩いていた私の声ではなかった。
「……ラフマニノフか。今の君の指なら、あの重厚な和音も完璧に鳴らせるだろう。だが……」
多岐川さんはピアノの端に手をかけ、少しだけ身を乗り出すようにして私を覗き込んだ。その瞳には、かつてないほど濃い「懸念」の色が浮かんでいる。
「今の君の心の負担にはしたくないんだよ。ラフマニノフは精神を削る。無理に自分を追い込む必要はないんだ。今の君なら、もっと軽やかで、聴衆の心に寄り添うような曲から復帰しても、誰も文句は言わない」
多岐川さんの指先が、ピアノの黒い塗装を不安げになぞる。 彼は、私がまたあの「死んだ目」に戻ることを恐れているのだろうか。あるいは、お母さんという重しを外した反動で、私がどこか遠くへ飛んでいってしまうことを危惧しているのか。
「多岐川さん。お母さんをあそこに預けた時、私は決めたんです。中途半端な自分は、もうあの日、書類と一緒に捨ててきたんです」
私は、ラフマニノフの練習曲の一節を、叩きつけるように鳴らした。 重厚な低音が練習室の空気を震わせ、私の全身に振動として伝わってくる。
「今の私には、このくらいの重さが必要なんです。自分を追い込んで、指先が壊れるほど弾いて、そうしてやっと『生きている』と感じられる。……そうじゃないと、お母さんに顔向けができません」
多岐川さんは、私の激しい打鍵を黙って見つめていた。
(……私は、お母さんの代わりに、ピアノという神様に自分を捧げようとしているんだろうか)
「負担」という言葉は、今の私には生ぬるかった。 私は、自分の限界を突破したその先にある景色を見なければならない。それが、お母さんを切り離した私に課せられた、唯一の罰であり、救いなのだから。
多岐川さんは、私の指が奏でるラフマニノフの重い余韻が消えるのを待って、ゆっくりと頷いた。その表情には、まだ拭いきれない不安の影が薄く、一抹の迷いとして残っている。
「……分かった。君がそこまで言うのなら、プログラムは予定通りラフマニノフで行こう。君の今のコンディション、そしてその意志を尊重したい」
多岐川さんは、まるで自分自身に言い聞かせるようにそう言葉を紡ぐと、手元のタブレットにいくつかの修正を加え始めた。彼の「了承」は、私にとって大きな勝利のはずだった。 自分の選んだ曲で、自分の意志で、再び舞台に立つ。それは、お母さんの操り人形だった頃には決して叶わなかった、本当の意味での「自立」への一歩だ。
けれど、多岐川さんが見せたあの一瞬の躊躇が、私の胸に小さな刺を残した。彼は何を見ていたのだろう。順調すぎる私の回復。迷いのない私の打鍵。それは彼にとって、手放しで喜べるはずの「成功」ではなかったのか。
「ありがとう、多岐川さん。期待に応えてみせます」
私は、自分でも驚くほど冷徹な声で言った。お母さんを施設へ送り出し、多岐川さんの保護を受け、私はようやく「自分」を取り戻した。いや、取り戻したのではない。私は、過去の自分を犠牲にして、新しい、より強固な「ピアニスト」という鎧を身にまとったのだ。多岐川さんは一度、何かを言いかけようとして唇を動かしたが、結局、静かに微笑むだけに留めた。
「期待しているよ、伊織さん。……だが、忘れないでほしい。僕は君の『演奏』を愛しているが、それ以上に、君という人間が壊れないことを願っているんだ」
その言葉は、練習室の壁に反射して、いつまでも消えずに響き続けていた。
リサイタルの開催日が正式に発表され、チケットの販売が始まると、周囲の喧騒は日増しに熱を帯びていった。ポスターに印刷された自分の名前。かつてはそれを見るだけで吐き気がしたのに、今は不思議なほど冷静に、どこか他人事のように眺めることができた。
私の回復は、多岐川さんの予想さえも裏切るほどに、驚異的で、そして順調だった。
指先の感覚は、日に日に鋭敏さを取り戻していく。もちろん、コンクールを総なめにしていた十代の頃の、あの無尽蔵なスタミナや、神懸かり的な超絶技巧に比べれば、まだ及ばない部分は多い。けれど、今の私には、あの頃にはなかった武器がある。
(……楽しい)
練習室で一人、ラフマニノフの旋律を紡いでいる時、ふと、そんな言葉がこぼれ落ちる。 お母さんの視線に怯えることもなく、多岐川さんの「正解」をなぞるだけでもない。
ただ、この複雑な和音の響きの中に、自分の呼吸を混ぜていく。 音が、私の指を通して自由に空気に溶け出していく。
それは、あの日ピアノの脇に置いてきた五百円玉が、今、私の手のひらの中で熱を持っているような、確かな充足感だった。
お母さんは施設で、穏やかな沈黙の中にいる。多岐川さんは私の隣で、私の「自由」を見守っている。
「蔦原伊織」というピアニストは、一度死んで、別の生き物として生まれ変わったのだ。全盛期の影を追う必要なんてない。今の、この不完全で、けれど誰よりも音楽を楽しんでいる私の音を、聴衆に届ければいい。
リサイタルまで、あと三日。指先の感覚は最高潮に達し、ラフマニノフの難解なパッセージも、今の私なら呼吸するように弾きこなせる。
そう確信していた夕暮れ時。一本の電話が、練習室の静寂を無惨に引き裂いた。
「伊織ちゃん、久しぶりね。復帰リサイタル、本当におめでとう。みんなで楽しみにしてたのよ」
電話の主は、母が元気だった頃に家族ぐるみで付き合いのあった、母の数少ない友人だった。懐かしい声。けれど、その後に続いた言葉に、私の血の気が一気に引いた。
「それでね、よかったら、あなたのお母様と一緒に伺いたいと思っているの。施設の方ではあまり刺激もないでしょうし、娘さんの晴れ舞台を見たら、きっとお母様も喜ぶわ。いいかしら?」
受話器を握る指先から、感覚が消えていく。心臓が早鐘を打ち、胃の底からせり上がるような吐き気が私を襲った。
「……あ、……はい。ありがとうございます」
断らなければならない。今の母にはまだ早い。私のために。お母さんのために。そう叫びたいのに、喉が塞がって言葉にならない。結局、私は震える声で承諾することしかできなかった。
受話器を置いた瞬間、練習室の壁が迫ってくるような錯覚に陥った。脳裏にフラッシュバックするのは、あの日の病室。 髪を振り乱し、耳を塞いで狂ったように叫んでいた母の姿。 その時、病室に流れていたのは、私が「完璧」に弾いたはずの、私のCDだった。
(もし、またお母さんが叫び出したら……?)
私の指が縺れたら。ラフマニノフの重厚な和音が、お母さんの望む「正解」から一ミリでも外れたら。お母さんは、あの客席で再び発狂し、私の音楽を否定するのではないか。 せっかく手に入れた「自由」が、一瞬にして砂の城のように崩れていく。全盛期には届かない今の私の技量を、あのお母さんの耳が許してくれるはずがない。
「……どうしよう、多岐川さん……」
私は、さっきまで愛おしんでいたはずの鍵盤を、まるで爆弾でも見るような目で見つめた。光に満ちていた世界は、再びあの日と同じ、逃げ場のない「暗い練習室」の気配を帯び始めていた。
リサイタル当日の朝。楽屋に持ち込む衣装を選ぼうと、クローゼットの奥へ手を伸ばしたとき、指先に硬い感触が当たった。引き出された古いポーチの底。そこには、お母さんの支配から逃れるために縋り、そして私の精神をボロボロにした、あの忌まわしい青い錠剤が数粒、忘れ去られたように転がっていた。
(……まだ、あったんだ)
それを見た瞬間、喉の奥がヒリついた。 多岐川さんの手によって、私はもうこれが必要ない体になったはずだった。彼が差し出してくれた「自由」という名の薬を信じていたはずだった。
けれど、客席の最前列に、あの無表情な、あるいは再び発狂するかもしれないお母さんが座っている。その光景を想像しただけで、ラフマニノフの重厚な和音が、頭の中で不協和音となって弾け飛ぶ。 今の私の「不完全な自由」では、お母さんの審判に耐えられない。 あの青い粒さえあれば、この震えは止まる。吐き気は消える。お母さんの視線さえも、霧の向こう側に追いやれるかもしれない。 私は逃げるように、その青い粒を小さなタブレットケースに移し替え、カバンの中の奥深くに忍ばせた。




