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第6章:調律師の支配と、狂ったピアノ

 数日が過ぎ、日常の平穏が戻りつつあったある日の夕方。  私の様子を細かく見守りながら、定期的にお母さんの病院にも足を運んでくれていた多岐川さんが、一束の資料を手にやってきた。


「お母様の退院が、いよいよ近くなってきた」


 その言葉に、私の指先が微かに強張る。  彼はテーブルに資料を広げた。


「この家を、お母様が車椅子で不自由なく過ごせる環境に整える必要がある。リフォームのプランをいくつか用意した。スロープの設置、手すりの位置……君のピアノの邪魔にならない範囲で、最善の動線を考えてある」


 私は、図面に並ぶ「介護」の文字をなぞった。ここをお母さんの終の棲家ついのすみかにする。私の音で彼女を満たす。それが私の決めた「贖罪」の形だった。

 けれど、資料の束の一番下には、別のパンフレットが紛れ込んでいた。


「……多岐川さん、これは?」


 それは、ホテルのように整った特別養護老人ホームや、手厚い医療ケアを売りにした施設の案内だった。多岐川さんは、私の視線を避けることなく、淡々とした口調で言った。


「伊織さん。君の体調は、まだ完全ではない。リハビリも途上だ。……在宅での介護が、君のピアニストとしての再起を阻む可能性があるなら、私はプロデューサーとして、別の道も提示しなければならない」


 多岐川さんの言葉は、どこまでも正論だった。私がまた倒れたら、お母さんはどうなるのか。私の精神を削りながら弾くピアノが、本当にお母さんのためになるのか。多岐川さんは、私の「再起」を守るために、あえてお母さんを「外」に預ける選択肢を差し出したのだ。私は、リフォームの図面と、施設のパンフレットを交互に見つめた。あの病院の廊下で聞いた悲鳴が、また耳の奥で小さく鳴ったような気がした。


 お母さんをこの「城」に呼び戻し、二人きりで向き合う勇気が、今の私にあるのだろうか。それとも、多岐川さんが差し出したこの「安全な扉」へ逃げ込むべきなのか。

 多岐川さんの静かな視線が、私の答えを待っていた。


 テーブルに広げられた二つの未来。最新の介護設備を備えたリフォーム図面と、清潔で「安全」な施設のパンフレット。

 多岐川さんは、私がどれを選んでも受け入れる準備ができているような、静かな佇まいでそこにいた。


「急ぐ必要はない。だが、退院の日は決まっている。……お母様にとって、そして何より『今の君』にとって、何が最善か。それだけを考えてほしい」


 『今の君』。その言葉が、私の胸の奥に冷たく響いた。  薬を断ち、ピアノの前に戻ろうと足掻き、けれど母の叫び一つで寝込んでしまうような、脆い今の私。多岐川さんは、私のそんな危うさを、この数週間の「日常」の中で、誰よりも近くで見つめ続けてきた。


 私は、リフォーム図面の端に指を触れた。ここを、お母さんの好きな花でいっぱいにしよう。私のピアノを、一日中聴かせてあげよう。そう誓ったはずなのに、その図面が今は、私を閉じ込める新しいおりの設計図のようにも見えてしまう。


 一方で、施設の案内には「24時間体制の安心」という文字が躍っている。そこに預ければ、私は再び、あの完璧な「ピアニスト・蔦原伊織」に戻るための時間と環境を手に入れられるだろう。多岐川さんの望む、最高の結果。


 私の再生への苦闘。その果てに待っていたのは、音楽という名の光ではなく、愛とエゴが複雑に絡み合った、このあまりにも重苦しい選択だった。


 私は、多岐川さんが持ってきた資料を、ゆっくりと自分の胸に抱きしめた。まだ、答えは出ない。けれど、この重みこそが、私が「生身の自分」で選び取らなければならない、逃れられない重力なのだと、自分に言い聞かせた。


 リフォームの図面と、施設のパンフレット。二つの未来の間で立ち竦み、答えを出せないまま、ただ時間だけが砂のように指の間をこぼれ落ちていた。


 そんな午後の静寂を切り裂いたのは、普段はほとんど鳴ることのない自宅の固定電話だった。受話器を取ると、かつてお母さんと共に参加していた慈善公演会のメンバーから、思いもよらない打診を受けた。


「……施設で、2曲、ですか」


 本格的な復帰の前、肩慣らしのつもりで弾いてほしい。そんな無邪気な善意の声が、受話器越しに私の鼓膜を叩く。多岐川さんに相談すれば、彼は間違いなく「時期尚早だ」と一蹴するだろう。今の私の、一進一退のリハビリと、あの荒れ狂うラフマニノフを知っている彼なら、当然の判断だ。


 けれど、お母さんの悲鳴の理由もわからず、自分を「スランプのピアニスト」として檻に閉じ込めていた私にとって、その依頼は、外の世界から差し込まれた細い光のようにも見えた。

 今の私が、外でピアノを弾く。

 そこには、多岐川さんの用意した「完璧なステージ」も「守られた静寂」もない。もし、その施設で弾くことができれば――。お母さんを施設に預けるのか、この家に迎えるのか。その答えを出すための、何かが掴めるのではないか。


 私は、テーブルの上の「施設のパンフレット」をそっと指先でなぞった。多岐川さんに守られた「城」の中で、答えの出ない問いを繰り返す日々に、私は限界を感じていたのかもしれない。


「……考えさせて、いただけますか」


 そう答える私の声は、自分でも驚くほど微かに震えていた。


 私は多岐川さんに相談することなく、あの電話の翌日からピアノに向かった。  指は、以前よりも素直に鍵盤を捉えていた。けれど、その指先が紡ぎ出すのは、多岐川さんが求める「再生のリサイタル」のための華やかなショパンではない。もっと素朴で、祈りのような、あるいは独白のような調べ。

 その変化を、彼の鋭い耳が見逃すはずもなかった。


「……選曲が変わったな。君が今練習しているのは、プログラムにはない曲だ」


 練習を終えたある日の夕方、多岐川さんは核心を突いてきた。初めは言い淀んでいた私だったが、彼が私を地獄から引き上げてくれた唯一無二のビジネスパートナーであるという自覚が、重い口を開かせた。

 施設の依頼を受けたこと。そこで二曲だけ弾くつもりであることを告げると、多岐川さんは意外なほど冷静に私の話を聞き、「君がそうしたいなら、やってみるといい」と、私の意思を支持する姿勢を見せた。


 けれど。私を送り出した後の多岐川さんの瞳には、凍てつくような怒りが宿っていた。


(俺がどれほど心血を注いで、彼女の聖域を守ってきたと思っている……)


 彼は即座に、自分のネットワークを使い、その講演会の会長へ直接電話をかけた。


「会長。伊織さんに直接、施設での演奏を打診されたそうですね」


 受話器越しの声は、耳を疑うほど低く、冷たかった。 彼は礼失せぬ言葉遣いの中に、激しい憤りを込めて苦言を呈した。伊織がいかに繊細な状況にあるか、そして外の世界との接触がどれほどのリスクを伴うか。


「彼女はやる気を見せています。ですから、今回は止めません。ですが……」


 多岐川は釘を刺すように、言葉を継いだ。


「依頼者の軽口で、当日に支援者や野次馬が施設に押し寄せるような事態は、万に一つもあってはならない。もし彼女の平穏が脅かされるようなことがあれば、この話はすべて白紙にさせていただきます。いいですね、徹底して口止めを」


 電話を切った多岐川は、静かに自分の指先を見つめた。伊織を外に出す。それは彼にとって、自分が築き上げた完璧な箱庭に、他人の無責任な手が入り込むことを意味していた。



 私は、震える手で依頼者の女性に電話をかけた。オファーを受けることを伝えると、受話器の向こうから弾んだ声で「ありがとう、本当に嬉しいわ」と感謝の言葉が溢れた。


「日時は、来週の土曜日、午後二時からでいいかしら。身内だけの、本当に小さな集まりなのよ」


 一週間後。 私はその日付を、頭の中の真っ白な五線譜に刻み込んだ。


「……事前に、ピアノの状態を確認させていただいてもよろしいでしょうか。その、私が今弾ける音と、楽器との相性を確かめておきたいんです」


 私の申し出に、相手は快諾してくれた。明日の午後、フロアの利用者が少ない静かな時間に十分ほど。電話を切った後、私は窓の外を眺めた。多岐川さんの車が停まっていないことを確認し、深く息を吐く。明日は、一人でそこへ行く。翌日、私は約束した時間にその施設を訪れた。多岐川さんの視線を離れ、自分で呼んだタクシーの窓から流れる景色は、どこか現実味を欠いて見えた。


「――お待ちしておりました、蔦原さん」


 出迎えてくれた職員の方に案内され、私はフロアの隅に置かれたアップライトピアノの前に立った。自宅にある、あの完璧なスタインウェイとは似ても似つかない、使い込まれた小柄なピアノ。表面には細かな傷があり、鍵盤はわずかに黄色く変色している。


 けれど、そのピアノが置かれた場所には、西日の柔らかな光が差し込んでいた。


「今、利用者の方々はレクリエーションで別室におります。十分ほどですが、どうぞ」


 職員が静かに去り、私は一人、そのピアノと向き合った。  椅子に深く腰掛け、そっと鍵盤に指を沈める。

 ポーン、と。調律は少し狂っていた。けれど、その音は驚くほど素直に、耳の奥へと届いた。多岐川さんの管理下で磨き上げられた、あの息の詰まるような自宅のピアノの響きとは違う。代わりに、誰かの生活の断片を吸い込んできたような、温かくも切ない響きがそこにはあった。私は、自分が選んだ一曲を、なぞるように弾き始めた。


(……弾ける)


 胸を締め付けていた予期不安が、鍵盤を叩く指の重みによって、少しずつ溶けていくのを感じた。かつての「女王」としてのプライドでも、強迫観念でもない。ただ、一人の弾き手として、私はこの古びたピアノの鳴りを確認していた。約束の時間が終わる頃、私はふと、ピアノの横に置かれた小さな花瓶に目を留めた。そこには、名前も知らない野の花が、一輪だけ挿されていた。


「ありがとうございました。……良い音ですね」


 戻ってきた職員に会釈をして、私は施設を後にした。 帰り道のタクシーの中で、私は自分の指先が、不思議なほど熱を持っていることに気づいた。一週間後。 ここで、私はお母さんではない「誰か」の前で弾く。 それが、私の新しい「薬」になるのか、それとも最後の一線を超える引き金になるのかは、まだわからなかった。


 施設からの帰り道、私はあえて自分から多岐川さんに連絡を入れた。  夕食の席、向かい合って座る彼に、今日一人で下見に行き、自分の指でピアノの感触を確かめてきたことを事後報告として伝えた。


「――一人で、そこまで行ってきたのかい?」


 多岐川さんは一瞬、箸を止めて目を見開いた。驚きがその端正な顔をよぎったが、すぐにそれは、見たこともないような深い悦びの表情へと変わった。


「素晴らしいよ、伊織さん。君が自発的に、しかも一人で行動できた。これこそが何よりの回復の証だ。……本当に、嬉しいよ」


 彼は心底感心したように頷き、ワイングラスを傾けた。その笑顔に嘘はないように見えた。彼は私の「再生」を誰よりも望んでいる。  けれど、彼はそのグラスを置くと、穏やかな、しかし拒絶を許さない口調でこう付け加えた。


「当日は、私も同行させてもらうよ。君の初めての外での演奏だ。万全の態勢で臨めるよう、私が隣に付いていよう」


 それは結局、彼の管理下に戻ることを意味していた。けれど、今の私にはそれを跳ね除けるほどの頑固さはなかった。

 食事の間、私たちは少しだけお母さんの退院後の生活についても言葉を交わした。リフォームの図面と、施設のパンフレット。テーブルの隅に置かれたままのそれらに目をやりながら、多岐川さんは静かに提案した。


「母上の今後については、この小さな、小さなリサイタルが無事に済んでから決めよう。今は、君のその前向きな気持ちを一番に大切にしたいんだ」


「……ええ。約束します」


 一週間後の、午後二時。それが終わるまでは、何も決めない。何も壊さない。私たちは、かりそめの平穏の中で、最後の一週間を過ごすための約束を交わした。多岐川さんの向ける優しい眼差しが、今日触れたあのアップライトピアノの西日のように温かく、けれどどこか、逃れられない夕闇の予感を含んでいるような気がして、私はそっと視線を落とした。


 その一週間、私はこれまでにないほど充実した時間を過ごしていた。自分で選んだ曲、自分のための練習。生活にハリが戻り、指先にはかつての、あるいはそれ以上の力が宿り始めていた。多岐川さんはそんな私の変化を喜び、無理をしすぎないよう、細やかに、献身的に私を支えてくれた。


そして、当日。

 多岐川さんの運転する車で施設に到着した私は、用意されたホールの入り口で足を止めた。多岐川さんと講演会会長との「口止め」の約束は、表向きは守られていたはずだった。けれど、そこには私の予想を遥かに上回る、百人近い人々が詰めかけていたのだ。


 施設の利用者だけではない。その家族、あるいは噂を聞きつけた音楽愛好家たち。彼らは、あのアカギレで血を流し、薬に溺れた「かつての女王」の醜聞など知るはずもない。ただ、蔦原伊織というピアニストの演奏を、この至近距離で聴けるという奇跡に、静かな熱狂を帯びて息を潜めていた。


 多岐川さんの横顔を盗み見ると、彼は冷徹なプロデューサーの表情で、ホールの密度を測っていた。その瞳には、自分の管理しきれなかった「誤算」への苛立ちと、それすらも舞台の糧にしようとする強欲さが混在している。


 私は、自分の手のひらを見つめた。百人の視線。百人の期待。そして、その背後に透けて見える、多岐川さんが守ろうとした「城」の影。かつての私なら、この程度の人数に怯えることはなかった。けれど、今の私は違う。この百人の前で、私は「何」を差し出すことになるのか。


「……伊織さん。準備はいいかい」


 多岐川さんの低い声が、背中を押す。私は深く息を吸い込み、西日の差し込むステージへと一歩を踏み出した。


 私が椅子に深く腰を下ろした瞬間、ホールを支配していた微かなざわめきが、ナイフで切り落とされたかのように消失した。そこに現れたのは、ただの静寂ではない。100人の期待と好奇心、そして多岐川さんの鋭い凝視が何層にも積み重なり、肌にまとわりつくような重厚な沈黙。 私は、自分の肩が大きく上下するほどの深呼吸を一回、吐き出した。肺の奥に溜まった淀みをすべて出し切るように。そして、震えを止めた指を、静かに、けれど迷いなく鍵盤へと沈めた。


 1曲目――バッハ(マイラ・ヘス編)『主よ、人の望みの喜びよ』。


 多岐川さんがかつて私に求めた、完璧な技巧の結晶のようなラフマニノフではない。流れるような三連符の旋律が、教会の祈りのように静かにフロアへ広がっていく。その音は、驚くほど透明だった。アカギレに苦しみ、薬の暗闇を彷徨った私の指から、これほどまでに濁りのない音が生まれるとは自分でも思わなかった。


 100人の聴衆は、息をすることさえ忘れたかのように、私の背中に見入っていた。誰一人として動かない。音が重なるたびに、ホールの静寂はさらに密度を増し、重力を帯びていく。


 彼らは魅了されていた。かつての「女王」の帰還を喜んでいるのではない。今、目の前で、ボロボロになりながらも一音一音を慈しむように紡ぐ、一人の「人間」の音楽に、魂を掴まれていた。私は、多岐川さんの視線を背中に感じながらも、意識のすべてを指先に注いだ。この祈りのような旋律の中に、私はお母さんの悲鳴も、多岐川さんの野心も、自分自身の罪も、すべてを溶かし込んでいけるような気がしていた。最後の一音が空間に溶けて消えた後も、誰も拍手すらできなかった。ただ、重なり続けた静寂だけが、祈りの残香のようにその場に漂っていた。


 2曲目――ドビュッシー『月の光』。


 その滑り出しは、夜の湖面をなぞるような、完璧な滑らかさだった。1曲目のバッハで浄化されたホールの空気は、さらに幻想的な色を帯びていく。だが、中盤、光が揺らぎ、和音が複雑に絡み合う瞬間に、それは訪れた。


 私の指が、冷たい氷に触れたように凍りついた。頭の中の楽譜が、真っ白な吹雪に呑まれて消えていく。


 止まってしまった右手。空を切る左手。十秒。あまりにも長く、残酷な空白。  先ほどまでの奇跡のような静寂は、不信と不安が混じった「ざわめき」という名の毒に変わっていく。


(……おしまいだ。私は、やっぱり壊れている)


 絶望が背筋を駆け上がったその時。


 私の左側に、音もなく、けれど圧倒的な熱量を持った何かが滑り込んできた。

 視界の端に、多岐川さんの端正な横顔が見える。彼の手が、私の止まった旋律を拾い上げるように鍵盤を叩いた。男性らしい力強さを秘めながらも、驚くほど繊細で、霧のように柔らかいタッチ。多岐川さんの刻むリズムが、死に体だった私の『月の光』に、新しい心音を吹き込んでいく。


 ざわついていたホールが、一瞬で魔法にかけられたように静まり返った。私は、彼の指の動きに誘われるように、震える右手を再び鍵盤へと置いた。彼が支え、私が歌う。言葉ではない、指先を通じた激しい対話。二人の呼吸が重なり、不完全だった曲は、かつて誰も聴いたことのないような濃密な音楽となって、ホールの隅々まで満たしていった。


 最後の一音が消え、静寂が訪れる。次の瞬間、割れんばかりの拍手喝采が巻き起こった。聴衆は、今の「事故」さえも、計算し尽くされた官能的な演出だと思い込み、興奮に顔を上気させていた。


 汗に濡れた私を横で見つめ、多岐川さんは一度だけ深く、満足そうに頷いた。そして、鳴り止まない拍手の中で、彼は私の耳元に唇を寄せ、熱を帯びた声で囁いた。


「素晴らしい。……だが、まだ終わらせないよ。最後にもう一曲、これに応えてくれないか」


 多岐川さんがリクエストしたその曲名を聞いた瞬間、私の心臓は、今日一番の大きな音を立てた。


 多岐川さんの唇が、その曲名を囁いた瞬間。私の心臓は、恐怖とも歓喜ともつかない激しい震えに襲われた。


「――ランゲ、『花の歌』」


 返事をする間もなかった。多岐川さんは私の驚愕を飲み込むように、滑らかな動作で再び鍵盤に指を置いた。彼が奏で始めた『花の歌』。それは、男性が弾くにはあまりに繊細で、水面を渡る風のように滑らかだった。ざわついていたホールは、再び、今度はもっと深い、魔法のような静寂に包まれていく。


 多岐川さんの指が紡ぎ出す愛らしい旋律は、私の記憶の中にある「あの日の防音室」の情景を、残酷なほど鮮明に呼び覚ましていった。彼は、私をどこまで連れて行くつもりなのか。お母さんの愛を、その記憶を、音楽という形で私に差し出すことで、彼は私の「支配者」から、私の「救済者」へと塗り替わろうとしているのか。


 私は動けなかった。多岐川さんの横顔は、慈愛に満ちているようにも、獲物を追い詰める狩人のようにも見えた。 しばらく呆然と彼の旋律を聴いていた私は、やがて、吸い寄せられるように右手を鍵盤へと伸ばした。 彼が奏でる「花の根」のような伴奏に、私の「花の歌」を重ねるために。


――多岐川は静かに想い浮かべていた、ウィーンに留学していた頃の記憶。石畳の街角に置かれたストリートピアノ。足早に通り過ぎる異国の雑踏の中で、その親子だけが、切り取られたように温かな光の中にいた。九歳か十歳ほどの東洋人の少女。そして、その左側に座り、優しく伴奏を弾き始めた母親。若き日の多岐川さんは、何気なくその光景を眺めていた。音楽学生として、微笑ましい日常の一部として。だが、少女の指が鍵盤を躍った瞬間、彼の全身に衝撃が走った。母親の導きを軽々と飛び越え、空気を震わせ、聴衆の心に直接触れてくるような、圧倒的な表現力。母親の演奏にかき消されるどころか、その幼い指先は、世界を自分の色に塗り替えていた。

……そして今、その旋律が、日本の、この施設の古びたアップライトピアノで再現されている。



まだ私が幼く、ただ無邪気に指を躍らせていた頃、この曲を弾き終えた私の頭を撫でて、「綺麗な音ね、伊織」と微笑んでくれた。


(どうして、あなたがこの曲を……)


 驚きを飲み込む間もなく、私の右手が、吸い寄せられるように鍵盤に沈んだ。多岐川さんの伴奏は、私の記憶にあるどの日のお母さんのそれよりもずっと繊細で、ずっと強固に私を支えている。


 お父さんが遺してくれたこの家で、多岐川さんが用意した沈黙の中で、私はずっと「何者か」にならなければならないと自分を追い詰めてきた。けれど、今、多岐川さんの隣で弾いているこの感覚は、ただ、音楽の中に溶けていく、剥き出しの自分だった。


 私たちの指先が重なり、最後の和音が響き渡る。それは、失われた過去と、壊れかけた現在が、一瞬だけ完璧に調和した瞬間だった。ピアノの最後の余韻が空気に溶け、二人の指が同時に鍵盤から離れた。一瞬の真空状態の後、ホールは地鳴りのような拍手喝采と、至近距離からの歓喜の声に包み込まれた。


「素晴らしい!」「伊織さん!」


 押し寄せる熱量に、私は目眩めまいを覚えた。  湧き上がるアンコールの声。けれど、多岐川さんは一度だけ聴衆に向けて深々と頭を下げると、すぐさま私の肩にそっと手を添えた。


「――皆様、本日はありがとうございました。ですが、彼女は病み上がりです。本日はここまでとさせてください。申し訳ない」


 その声は穏やかだったが、それ以上の介入を一切許さない拒絶の響きを含んでいた。多岐川さんは熱狂する観客から私を隠すようにして、足早に楽屋へ、そして出口へと私を導いていく。

 施設の玄関を出ると、冷たい夕暮れの風が頬を打った。あんなに熱かった指先が、外気に触れて急激に冷えていく。


「……多岐川さん」


 車の助手席に滑り込み、ドアが閉まった瞬間、ようやく私は声を絞り出した。けれど、彼は何も言わず、ただハンドルを握る指に力を込めた。

 背後の施設では、まだ私たちが残した音の余韻に人々が酔いしれているだろう。 だが、今の私は、あの「花の歌」を弾ききってしまった空虚さと、彼が私の「原風景」を完璧になぞってみせたことへの、名状しがたい畏怖の中にいた。


 「城」へと戻る車内には、重苦しいほどの沈黙が流れていた。  この沈黙の先に、約束していた「お母さんの今後」という現実が待っている。私たちは、魔法が解けた後の冷え切った日常へと、静かに、けれど確実に引き戻されていた。


 自宅に戻ると、多岐川さんは手慣れた動作でコーヒーを淹れ、小さな皿にクッキーを並べてくれた。芳醇な豆の香りがリビングに広がる。けれど、私はそれらに手を伸ばすこともできず、ただ深く、深くソファーの沈み込みに身を任せていた。


 かつて、ステージが終わるたびに襲ってきたあの震えや、焦燥感はない。薬を飲んで無理やり脳を黙らせていた頃の、泥のような眠気とも違う。


 (……弾けた。私は、弾けたんだ)


 まぶたを閉じると、指先に残る鍵盤の重みと、多岐川さんの繊細な伴奏の響きが蘇る。 100人の前で手が止まったあの瞬間、世界が終わったと思った。けれど、そこに滑り込んできた彼の音は、私を「ピアニスト」としてではなく、ただ一人の「伊織」として救い上げてくれた。


 お母さんが唯一褒めてくれた、あの『花の歌』。それを、どうして彼が知っていたのか。どうしてあんなにも優しく、私の呼吸を知っているかのように弾けたのか。


 その謎は、今の私には心地よい謎のままだった。思考を巡らせる気力さえ奪うほどの、純粋な脱力。自分の内側が、自分自身の奏でた音で満たされている。この感覚こそが、私が「薬」の向こう側にずっと探していた、本当の安らぎだったのかもしれない。

 多岐川さんは、私がソファーに沈んだまま動かないのを見ても、何も言わなかった。ただ、少し離れた椅子に座り、冷めていくコーヒーの湯気越しに、静かに私を見守っていた。


 この時間が永遠に続けばいい。そう思ってしまうほどの静寂の中で、けれど私は知っていた。この満たされた眠りのような時間の先に、お母さんと、そして「薬」が残した現実と向き合わなければならない時が、すぐそこまで来ていることを。


 深い脱力感に身を委ねているうちに、私はいつの間にか、意識の底へと沈み込んでいた。西日の残像がまぶたの裏で揺れ、心地よい疲れが波のように全身を包み込んでいく。

 その眠りの中で、私は柔らかな浮遊感を感じた。多岐川さんの、たくましくも静かな腕が私の身体を掬い上げる。

 彼は、薬で泥のように眠っていた頃と同じように、重力から私を切り離し、静かに階段を上がっていく。寝室のベッドに横たわされた瞬間、微かにシーツの清潔な香りが鼻をくすぐり、厚手の毛布が私の孤独を優しく塞いだ。


「……おやすみ、伊織さん」

耳元で、風のような囁きが聞こえた気がした。


 暗闇の中で、多岐川さんはしばらく私の寝顔を見つめていたのかもしれない。けれど、やがて静かな足音と共に、リビングの明かりが消え、玄関の鍵が閉まる音がした。彼は帰宅した。  私が私の「家」で、一人で穏やかに眠れるように。今日の演奏。あの「花の歌」。そして、彼の腕のぬくもり。すべてが夢の中に溶け出していく中で、私は一度も目を覚ますことなく、明日という現実が訪れるまで、深い、深い眠りの中に留まり続けた。


 翌朝、私はこれまでになく透き通った意識で目を覚ました。  カーテンの隙間から差し込む光が、ほこり一つないシーツを白く染めている。


 私はゆっくりと起き上がり、キッチンへと向かった。


 多岐川さんに頼るのではなく、自分の手で冷蔵庫を開け、簡単な朝食を用意する。湯気を立てるコーヒーの香りを吸い込みながら、私はただ、椅子に座ってその「たわいもない日常」の感触を味わっていた。

 かつては、この静寂が怖かった。

 音が聞こえないことが不安で、何かを埋めるように薬を飲み、あるいは狂ったように鍵盤を叩き続けていた。けれど今の私には、この静けさが心地よい。

 食事を終えると、私はリビングの窓を大きく開け放った。  冬の終わりの、冷たくて鋭い空気が一気に流れ込み、部屋の中に停滞していた重苦しい「昨日」を押し流していく。


「……どうして、あんなに難しかったんだろう」


 窓を開ける。空気を入れ替える。そんな、誰にでもできるはずの簡単なことが、なぜこれまでの私には、エベレストに登るよりも困難なことに思えたのか。私は吸い込まれるように二階へと上がり、一箇所ずつ、丁寧に窓を開けて回った。


 お父さんの書斎、かつてお母さんと過ごした防音室の入り口、そして――。

 風が家中を通り抜けていくたびに、私を縛り付けていた透明な糸が一本ずつ解けていくような感覚があった。二階の窓から見える街並みは、昨日の「100人の喝采」とは無関係に、ただ穏やかに動き出している。家中を新しい空気で満たしたとき、私は不意に、あることに気づいた。


 昨日、あのアップライトピアノで多岐川さんと奏でた『花の歌』。あの旋律が、今は「呪縛」ではなく、私を支える確かな「記憶」として胸の中に収まっていることに。

 すべての窓を閉め終え、心地よい疲労感と共にリビングへ戻ろうとした時だった。  静かな廊下に、普段はほとんど鳴ることのない固定電話のベルが響いた。


 一瞬、多岐川さんからの緊急の連絡かと思い、身が強張る。  


受話器を取り、恐る恐る声を出すと、そこから聞こえてきたのは、昨日私を温かく迎えてくれたあの施設の女性職員の声だった。


『――蔦原さん、お疲れのところ失礼いたします。昨日は本当に、本当にありがとうございました』


 彼女の声は弾んでいた。昨日の演奏がいかに素晴らしかったか。利用者の方々が、あなたが帰られた後もずっと「魔法にかかったようだった」と涙を浮かべて喜んでいたこと。そして、体調が万全でない中であれほどの熱演を届けてくれたことへの、心からの感謝。


「……いえ、私の方こそ。あのような機会をいただけて、感謝しています」


 私は、自分の声が昨日よりもずっと落ち着いていることに驚いた。多岐川さんの「管理」や「期待」というフィルターを通さない、純粋な「ありがとう」という言葉が、新鮮な空気で満たされたばかりの私の肺に、温かく染み込んでいく。


『また落ち着かれましたら、ぜひ遊びにいらしてくださいね。皆様、お待ちしておりますから』


 電話を切った後、私はしばらく受話器を置いたまま、その場に立ち尽くしていた。私はもう、誰かに許可をもらわなくても、自分の指で誰かを幸せにできる。多岐川さんの用意した「完璧な舞台」がなくても、あの傷だらけのアップライトピアノ一台あれば、私は世界と繋がれるのだ。

 受話器を置く音が、静かな家の中にカチリと響いた。それは、私の心の中で何かが決まった音でもあった。


 ふと視線を上げると、窓の外は正午の光に満ちていた。 私は、膝の上に置いていた文庫本をそっと閉じる。 それは、お父さんの書斎の棚で、幾層もの埃を被っていた古い小説だった。


 いつか読もうと思いながら、ピアニストとしての重圧に押し潰され、あるいは薬の副作用で文字が躍って見えていたあの数年間、ずっと開くことのできなかった物語。今日、私は何年振りかにその「続き」を読み、栞を数ページ先へと進めることができた。

(……物語が、頭に入ってくる)


ただそれだけのことが、涙が出るほど誇らしかった。外界の音をシャットアウトするためにイヤホンを押し込む必要もない。ページをめくる乾いた音と、自分の穏やかな呼吸の音。それだけで、私の正午は満たされていた。立ち上がり、キッチンへ向かって水を一杯飲む。新鮮な空気と、お父さんの遺した本。

 この家は、いつの間にか多岐川さんの「管理棟」ではなく、再び私の「家」へと戻り始めている。 だが、安らぎが深まれば深まるほど、心の端っこにある一つの問いが熱を帯びてくる。


――お母さんを、どうするのか。


あの施設の、西日の差し込むホール。100人の呼吸。多岐川さんの、運命を暴くような『花の歌』。 私はもう、ただ守られるだけの「患者」ではいられない。読みかけの小説に再び栞を挟み、私はリビングの机の上に置かれた、病院からの書類へとゆっくりと手を伸ばした。リビングのテーブルに広げた書類を、私は一枚ずつ丁寧にめくっていった。 お母さんの病状報告、退院後のケアプラン、そして高額な費用の明細。多岐川さんがすべてを管理してくれていたから、私はこれまで、この生々しい数字や事実から目を逸らして生きてこられた。


 だが、ある一枚のリーフレットに目が止まり、私の指は動かなくなった。


 それは、昨日私がピアノを弾いたあの施設の案内だった。    カラー写真で紹介された明るい食堂、中庭の緑。そして、昨日私が触れたあのアップライトピアノが置かれたホールの写真。  パンフレットの隅には、多岐川さんの筆跡で、お母さんを入居させる際のオプションや、面会時間のルールが細かく書き込まれている。


(ここに、お母さんを……?)


 私は、昨日聴いた100人の拍手と、多岐川さんと奏でた『花の歌』を思い出す。あそこは、私にとっての「再生の場所」になった。けれど、お母さんにとっては? かつて完璧な音しか許さなかったあの人が、調律の狂ったアップライトピアノが響く場所で、見知らぬ人たちに囲まれて余生を過ごす。それは彼女への救いなのか、それとも、私が自由になるための「追放」なのか。多岐川さんの書き込みをなぞる。彼の計画は完璧だ。ここにお母さんを預ければ、私は「蔦原伊織」としての活動に専念できる。お父さんの遺してくれたこの「城」で、彼と二人、音楽の頂点を目指す日々に戻れる。私は案内を読みふけった。  施設の理念、スタッフの配置、看取りの体制。文字を追うほどに、昨日のあの「西日の差し込むホールの静寂」が、別の意味を持って迫ってくる。お母さんは、あそこで何を思うだろう。

 あの時、お母さんが私を唯一褒めてくれた『花の歌』を、あそこで二人で弾く日は来るのだろうか。書類を握りしめる手に、じわりと汗が滲んだ。 正午を過ぎた静かな家の中で、私は初めて、多岐川さんが描いた「完璧なシナリオ」の是非を、自分自身の物差しで測り始めていた。


 傾き始めた夕日がリビングをオレンジ色に染める頃、玄関のチャイムが静かな家の中に響き渡った。 ソファーでのまどろみから引き戻された私は、少し重い身体を起こしてインターホンのモニターを覗き込む。 そこに映っていたのは、いつもの端正なスーツ姿ではなく、少しカジュアルな装いで、両手に重そうな買い物袋を提げた多岐川さんの姿だった。


「――伊織さん、起きているかい? 夕食の買い出しをしてきたよ」


 スピーカー越しに届く彼の声は、昨日のステージでの緊張感を感じさせないほど穏やかだった。 私は一瞬、テーブルの上に広げたままの施設の資料に目をやった。 多岐川さんの書き込みが躍る、あのパンフレット。それを片付けるべきか、それともあえて見せるべきか。迷う暇もなく、私は玄関の解錠ボタンを押した。

 まもなく、聞き慣れた足音と共に彼がリビングに入ってくる。 「よく眠れたかな。顔色が昨日よりずっといい。やはり、音楽は君にとって何よりの良薬だったようだね」


 多岐川さんはキッチンへ向かい、買ってきた食材を手際よく並べ始めた。昨日のあの、魂を削り合うような連弾が嘘のように、彼は「有能な世話役」の顔をしてそこに立っている。


 だが、彼が食材を冷蔵庫に収めるために振り返ったとき、その視線が、テーブルの上に広げられたままの施設の案内に止まった。


「……ああ。それを見ていたのか」

 多岐川さんの動きが一瞬、止まる。


 冷蔵庫の扉を開けようとした彼の指先が、空中で微かに凍りついたように見えた。  キッチンに流れていた「日常」の音が消え、換気扇の回る低い音だけが、私たちの間の沈黙を強調する。

 彼はゆっくりと身体をこちらへ向けた。夕闇に沈みかけたリビングで、彼の眼鏡の奥の瞳が、テーブルの上のパンフレットを冷徹に射抜いている。


「――どうだい、伊織さん。昨日、実際にあの場所の空気に触れてみて、確信したんじゃないかな」


 多岐川さんは、まるでチェスの駒を進めるような、迷いのない足取りでテーブルへと近づいてきた。彼はパンフレットの端を細い指でなぞる。そこは、昨日私たちが共に『花の歌』を奏で、100人の喝采を浴びたあのホールが写っている箇所だった。


「あそこは、君にとっても、そして母上にとっても、最高の『着地点』だ。あそこなら、君はいつでもピアノが弾けるし、母上は君の奏でる音を、最も近い場所で聴き続けることができる。……これ以上の解決策があるだろうか」


 彼の言葉は、どこまでも論理的で、どこまでも私のことを想っているように聞こえる。だが、その声の低層には、私を再び「蔦原伊織」という完璧な箱庭に閉じ込めようとする、強い磁場が潜んでいた。


 私は、彼の手元を見つめた。昨日の連弾で、私の絶望を掬い上げてくれたあの温かい指。でも、その同じ指が、今はお母さんを「施設」という枠組みに押し込め、私の生活から切り離そうとしている。


「多岐川さん、私は……」


 喉まで出かかった言葉を、私は一度飲み込んだ。今、ここで頷けば、私は再び彼の庇護のもと、汚れのない音楽の世界だけを見て生きていけるだろう。お母さんの叫びも、澱んだ空気も、すべて彼が肩代わりしてくれる。


 けれど、今朝、自分の手で開けた二階の窓から入ってきた、あの冷たくて自由な風の感触が、私の背中を微かに押し返していた。


「……あそこのピアノ、調律が狂っていました」


 私が放った一言に、多岐川さんの眉が、今日二度目の微かな動きを見せた。


「そうだね。だが、伊織さんの旋律は完璧だった」


 多岐川さんは、まるで子供の我儘わがままをなだめるような、底の知れない微笑みを浮かべた。彼にとって、楽器の不完全さなど些細な問題なのだ。むしろ、その狂った音をねじ伏せて「完璧」に仕立て上げた自分たちの連弾こそが、彼にとっての真実なのだろう。

 彼はゆっくりと歩みを進め、私の目の前で足を止めた。キッチンからの換気扇の音が、いつの間にか止まっている。夕闇の静寂が、私たちの間に濃密に溜まっていく。


「そういえば、あの時。……なぜ、手が止まってしまったんだい?」


 多岐川さんの低い声が、リビングの空気を震わせた。問いかけというよりは、暴こうとする意志。あの瞬間の、目の前が真っ白になった感覚。楽譜が吹雪に呑まれて消え、指が氷に触れたように凍りついた、あの十秒間。私は、彼を見上げることさえできなかった。多岐川さんは、私が薬を飲んでいないことを知っている。だからこそ、今の「停止」が薬の影響ではない、もっと根深い……私の魂そのものの「壊れ」ではないかと疑っているのだ。もし、ここで「壊れている」と認めれば、私は一生、多岐川さんという調律師なしでは音を出せない「不完全な楽器」として生きることになる。私は、冷たくなった自分の指を、膝の上で強く握りしめた。


「……多岐川さん。あれは」


 お母さんが唯一褒めてくれた『花の歌』を奏でる前、バッハの沈黙の後に訪れた、あの空白。 「あれは……私が、自分の『声』を聴こうとしたからかもしれません」

 私の口から出たのは、自分でも予期していなかった答えだった。


「そういえば、多岐川さんの演奏。あれは趣味やなんかのレベルではなかったです」


 私が投げかけたその言葉は、静かなリビングに放たれた一筋の光のようだった。多岐川さんの動きが、今度こそ完全に止まった。窓の外では、夕闇が完全に世界を支配し、深いとばりがこの堅牢な家を包み込んでいる。外の世界の音は一切遮断され、ただ、隣に立つ男の、衣擦れの音さえ聞こえないほどの静止だけがあった。

 やがて、彼は重い足取りで、私の横にゆっくりと腰を下ろした。至近距離で見る彼の横顔には、これまでの冷徹なプロデューサーの影はどこにもなかった。そこにあったのは、懐かしさと、拭いきれない悔恨と、そして何とも言えない渇望が混ざり合った、一人の「音楽家」の表情だった。


「……見抜かれてしまったね」


 多岐川さんは、自嘲気味に低く笑った。そして、自分の細く長い両手を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「実は僕は……ピアノでウィーンに留学していたんだ。君と同じように、世界の一番高い場所へ手を伸ばそうとしていた」


 初めて聞く、彼の過去。なぜ彼がこれほどまでにピアノに、そして「蔦原伊織」という才能に執着していたのか。その霧の向こう側にあった正体が、今、明かされようとしていた。


「けれど、挫折した。ある理由で、僕のピアニストとしての命はあそこで終わったんだ。……あの日、ウィーンの街角で、君というまぶしすぎる太陽に出会うまではね」


 彼は私を真っ直ぐに見つめた。その瞳の中には、かつて自分が失ったものを、私の中に投影し、代理で叶えようとしてきた狂おしいほどの情熱が渦巻いていた。


「……まあ、だが今は、ひとまずお腹を満たそう。きっと君は食事をとっていないだろう」


 多岐川さんは、憑き物が落ちたような、けれどどこか寂しげな微笑みを浮かべて立ち上がった。先ほどまでの告白の熱を、自分自身で無理やり冷却するように。


「それに今日は、君のお母様の今後の生活を決めるっていう、大切な決断をしなければならないからね」


 その言葉が、リビングの空気を現実に引き戻す。彼は再びキッチンへ戻り、買ってきたばかりの食材を手際よく扱い始めた。まな板を叩く規則正しい音が、まるでカウントダウンのメトロノームのように響く。

 お腹を満たす。血の巡りを良くする。そうして、最も「合理的」な判断を、多岐川さんの筋書き通りに下させるために。

 私は、彼が用意してくれるであろう食事の匂いを感じながら、再びテーブルの上の施設の案内に目を落とした。ウィーンで、少女だった私に圧倒されたという彼。ピアニストとしての命を失い、私をその「代わり」に据えた彼。彼が作る料理を食べることは、彼の用意した「お母さんのいない未来」を飲み込むことと同じではないのか。キッチンで背中を向けている多岐川さんは、もう単なるマネージャーではない。私の人生の欠落を埋め、同時に支配し、私という音楽を完成させようとする、執念の「調律師」だ。


「……多岐川さん。お母さんは、あそこの『調律の狂ったピアノ』を、喜ぶでしょうか」


 夕食の準備が進む音に紛らせて、私は独り言のように呟いた。多岐川さんの包丁の手が、一瞬だけ、また止まった。


「さぁ、どうかな。気になるなら、調律師を手配しておこうか」


 多岐川さんは振り返りもせず、さらりと言ってのけた。その声には、私の迷いを真摯に受け止める響きなど微塵もなかった。調律師。彼にとっては、音の狂いも、生活の歪みも、すべて外側から「整えれば済む」ことなのだ。お母さんの心が、その不完全な場所でどう枯れていくのか、あるいはどう救われるのかという肝心な問いには、彼は決して踏み込もうとしない。


 いつもの、巧妙なはぐらかし。キッチンから聞こえる野菜を炒める軽快な音が、今の私には酷く無機質なものに聞こえた。  昨日の連弾で感じたあの魂の共鳴が、急速に冷めていくのを感じる。彼は私の「才能」は愛していても、私の「痛み」の本当の形を直視するつもりはないのかもしれない。私は、テーブルに置かれた施設のパンフレットを指先でなぞった。多岐川さんの綺麗な文字で書かれた入居の条件。ここに入れば、お母さんの人生は「管理」され、私の人生からは「排除」される。そして、狂ったピアノは「調律師」によって完璧に直される。すべてが整い、不純物のない音楽だけが残る世界。

 それはかつて私が望んだ場所のはずだった。なのに、どうしてこんなに胸の奥がざわつくのだろう。


「……多岐川さん。お母さんにとって、ピアノは『直せばいいもの』ではなかったんです」


 私の小さな反論は、ジュウという激しい調理の音に掻き消された。多岐川さんは、まるで何も聞こえなかったかのように、手際よく皿に料理を盛り付けていく。


「さあ、できたよ。冷めないうちに食べよう。話は、それからだ」


 並べられたのは、完璧な彩りのディナー。  だが、私の心に落ちた影は、その鮮やかな食卓の上で、拭い去れない染みのように広がっていた。


 目の前に並べられた色鮮やかな料理を前にして、私の思考は、ここではない別の場所を彷徨っていた。お母さんを、家に連れて帰ること。それは、多岐川さんが危惧するように、私のピアニストとしての再起を完全に断つことを意味する。かつてのように、排泄の世話に追われ、深夜の徘徊に怯え、音楽とは無縁の、ただただ摩耗していく日々に戻る。


(私がそうすれば……お母さんは、幸せなの?)


 ふと、入院直前のお母さんの姿が蘇った。私が鍵盤に触れるたび、彼女は耳を塞ぎ、何かに怯えるように震えていた。私の音が、私の情熱が、壊れてしまった彼女の脳には、刃物のような暴力として響いていたのかもしれない。私が母を想って弾くほどに、母を傷つけていたという皮肉。「母を支える毎日」という美しい響きの裏側にあるのは、互いを壊し合う、音のない共依存の牢獄だった。 多岐川さんの言う通り、施設に預けることが、お互いにとっての唯一の「出口」なのかもしれない。あそこなら、母は私の「殺気」を孕んだ音楽から解放され、穏やかな余生を送れるはずだ。


 私はゆっくりとフォークを手に取り、一口だけ野菜を口に運んだ。味がしない。多岐川さんが心を込めて作ったはずの料理は、まるで砂を噛んでいるようだった。彼が私の過去(ウィーンの記憶)を抱きしめてくれていることも、挫折した彼が私に夢を託していることも分かっている。けれど、彼が提示する「完璧な正解」を選ぼうとするたび、喉の奥に何かがつかえて、飲み込むことができなかった。


「……伊織さん。無理に食べなくてもいいが、栄養は摂っておかないと」


 多岐川さんの静かな声が、私の思考を遮った。


「君が何を迷っているかは分かる。だが、思い出してほしい。昨日の連弾で、君の指が再び動いたのはなぜか。君を動かせるのは、もはや犠牲の精神ではない。……音楽だけなんだよ」


「……あそこのピアノで、もう一度。お母さんの隣で……」


 私が絞り出すように言ったその言葉は、多岐川さんの冷徹な一言によって、あっけなく霧散した。


「本気かい、伊織さん。それは、君のキャリアをドブに捨てるのと同じことだ」


 多岐川さんの声は、先ほどまでの告白の熱を微塵も感じさせないほど、硬く、冷たかった。彼はフォークを置き、組み上げた指の上に顎を乗せて、私を値踏みするように見つめる。


「君は忘れたのか? お母様がなぜ震えていたのかを。君が奏でる音が、どれほど鋭利な刃となって彼女を切り刻んでいたかを。……今の君が、あの調律の狂ったピアノで、お母様を癒せるとでも? それは傲慢だ、伊織さん。今の君にできるのは、完璧な環境で、完璧な音を出し、彼女に『娘の成功』という免罪符を与えることだけだ」


 多岐川さんの言葉が、逃げようのない正論として私を射抜く。  そうだ。私は知っているはずだ。ピアニストにとって、調律が狂っているということは、語るべき言葉を失うのと同じだ。そんな不確かな道具で、壊れかけた母の心を繋ぎ止められるはずがない。


 (……私は、何を夢見ていたんだろう)


 さっきまでの清々しい風が、急激に冷えていく。自分の不完全さを肯定してもらえるなんて、そんなのはただの甘えだ。プロとして生きてきた私が、そんな初歩的な「情」に流されてどうする。


 結局、私はあの「花の歌」を弾いた時と同じだ。多岐川さんが用意した沈黙と、多岐川さんが整えた伴奏がなければ、私は一音もまともに響かせることなどできない。


「……すみません。どうかしていました」


 私は力なく目を伏せ、冷めきった料理を凝視した。  私が気づきかけていた「何か」は、多岐川さんの冷たい合理性によって、再び心の奥底へと封印された。


「分かってくれればいい。食事の続きをしよう。明日の朝には、入居の書類を完成させよう。それが、君がお母様にできる、唯一の『親孝行』だよ」


 多岐川さんは満足そうに頷き、再び穏やかな「支配者」の顔に戻った。私は、味のしない肉片を口に運び、飲み込んだ。それは、自分自身の自由を、少しずつ削り取って飲み込んでいるような味がした。

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