第5章:十分間の限界、蝕まれる日常
多岐川さんの「聴かせたいもの」という言葉に、私は身構えた。彼が差し出したのは、無機質なタブレット端末だった。画面には、見覚えのあるクラシック界の巨匠たちの名前が並んでいる。
「……彼らもまた、かつては天才と呼ばれた音楽家たちだ。そして、君と同じように、あの青い薬に手を出した者たちでもある」
多岐川さんの説明と共に、動画が再生された。画面に映し出されたのは、数年前に引退した伝説的なピアニストだった。 若き日の彼は、力強くも繊細な演奏で聴衆を魅了していたはずだ。しかし、再生された最近のライブ映像は、まるで別人のようだった。
指は鍵盤の上で忙しなく、しかし感情の伴わないまま滑る。 音は速く、正確。けれど、そこにあるのは、耳障りなまでの虚無。聴衆の顔には、困惑と、やがて来るであろう結末を知るような諦めが浮かんでいる。
次の動画では、別のヴァイオリニストが映し出された。その顔は、薬物によって蝕まれ、不自然に膨張している。演奏は、もはや音楽と呼べるものではなく、ただひたすらに、己の肉体を鼓舞するための悲鳴に近かった。
画面の中の彼らは、かつての栄光を追い求め、薬によって肉体を酷使し、精神を崩壊させていた。彼らの眼差しには、私自身の未来が映し出されているようだった。吐き気が込み上げてきた。
胃の奥からせり上がる不快感に耐えきれず、私は弾かれたように席を立ち、トイレへと駆け込んだ。胃の奥をひっくり返すような苦しみが、私の喉を焼いた。
しばらくして、震える体でリビングに戻ると、多岐川さんはすでにタブレット端末を閉じ、静かにコーヒーを一口飲んでいた。
「……見た通りだ」
多岐川さんの声は、先ほどまでの穏やかさを完全に失っていた。
「あの薬は、確かに一時的に君の限界を引き上げる。だが、それは君自身の『生命』を削って得られる偽りの力だ。彼らの末路は、例外なく悲惨だ。肉体は壊死し、精神は廃人となる。そして、何よりも……二度と、本物の音を奏でることはできない」
まだ心がそこには触れられない、剥き出しのこのタイミングで突きつけられた現実は、私の心を抉るのには十分すぎるほどだった。画面の中で虚空を掴むように指を動かす、かつての天才たち。その空虚な瞳、歪んだ音色、そして何より、音楽に対する冒涜とも言えるその末路。
(……これは、私が求めていた姿じゃない)
胃を空っぽにして、震える手で壁を伝いながらリビングに戻った私は、自分自身の奥底で、何かが硬質な音を立てて固まるのを感じた。恐怖、嫌悪、そして、かつての自分への憐憫。 それらが混ざり合い、一つの強固な誓いへと変わる。
――この薬を使うことは、もう、二度とない。
言葉にする気力さえなかったけれど、それは私の魂に深く刻まれた。だが、決意と引き換えに、残されていたわずかな精神の灯火がふっと消えた。極限まで削られた体力は、そこが限界だった。
「伊織さん……?」
多岐川さんの呼ぶ声が、遠くの方で聞こえた気がした。 私は、テーブルに突っ伏すようにして、そのまま深い意識の闇へと落ちていった。
多岐川は、椅子から崩れ落ちそうになった彼女の細い肩を咄嗟に支えた。一月ほど前にも、同じように彼女を抱え上げたことがあった。あの時よりもさらに薄くなった体躯を、彼は痛ましそうに見つめた。
彼は再び、彼女を寝室へと運ぶ。古くて堅牢なこの家には、多岐川の足音と、伊織の微かな呼吸音だけが響いていた。
ベッドに彼女を横たえ、毛布を掛け直す。多岐川は、眠りの中でも何かに耐えるように眉を寄せている伊織の顔を、月明かりの下でじっと見つめていた。残酷な真実を突きつけた。彼女を追い詰めた。けれど、その絶望の底からでなければ、本物の光は掴めないことを彼は知っていた。
伊織をあの「城」へ送り届け、ようやく一人になった車中。 ハンドルを握る多岐川の脳裏に、不意にある興行主の声が蘇った。それは、まだ伊織の依存に気づく前、何気ない会食の席で聞き流した言葉だった。
『……うちで支援を続けている音楽家が、このところ様子が変わってしまってね』
あの時は「へぇ」と生返事で応じただけだった。伊織という太陽に目を焼かれていた自分にとって、他人の話など、ただの背景音に過ぎなかった。
(……だが、あの言葉の響きは)
自宅に戻った多岐川は、コートも脱がず書斎のデスクに向かった。深夜、青白いモニターの光が彼の鋭い貌を照らし出す。彼は、あの興行主が支援していた音楽家たちを、過去に遡って片っ端から調べ上げ始めた。
かつての演奏動画、コンクールの記録、インタビュー。世間の評価はどれも高かった。「超絶技巧」「神懸かり的な集中力」「復活を遂げた天才」。
しかし、多岐川の目は、熱狂する聴衆が見逃した「真実」を執拗に追い求めた。
「……ここだ」
あるピアニストの動画を一時停止させる。 鍵盤の上で悪魔的な速さを誇る指。一見、完璧な演奏。だが、画面を拡大した多岐川の瞳が、僅かに細まった。
光を失い、焦点の合わない目。演奏の合間、椅子を掴む指先が、隠しようもなく小刻みに震えている。それは、技巧への没頭が生む震えではない。肉体が悲鳴を上げ、崩壊を食い止めようとする拒絶反応――伊織があの家で見せていた、あの「震え」と同じものだった。
「……あいつも、こいつもか」
次々と見つかる、かつての天才たちの「変貌」。彼らが手にした「偽りの春」の代償に、何を差し出していたのか。多岐川は、自分が思っている以上に、この音楽界の深部まで「青い毒」が回っていることを確信した。
深夜の書斎に、マウスのクリック音だけが冷たく響く。 多岐川の背筋を、今まで感じたことのないほど冷徹な怒りと、そして戦慄が駆け抜けていった。
彼女をベッドに横たえ、毛布を掛け直したその時だった。 月明かりに照らされた伊織の寝顔は、今にも壊れてしまいそうなほど、薄氷を踏むような危うさに満ちていた。
多岐川は、その横顔をじっと見つめながら、昨日の自分を思い出して頭を抱えた。
(……私は、何を考えていたんだ)
昨日の深夜、書斎で芋蔓式に「薬の犠牲者」を見つけ出した時、彼は確かに高揚していた。この現実を見せつけることこそが、彼女を救う最短ルートであり、目を覚まさせるための劇薬になると信じて疑わなかった。
だが、その「劇薬」は、今の彼女の細い精神を焼き切ってしまうほどに強すぎたのではないか。
動画を見つけてすぐに見せることが、彼女の回復に繋がると考えた自分の浅はかさ。有能なプロデューサーとして振る舞いながら、その実、一人の傷ついた女性の心に土足で踏み込んだのではないかという後悔が、波のように押し寄せてくる。
彼は、寝室のドアを静かに閉めた。そのまま帰ることもできたはずなのに、今の彼女を一人にしておくことは、もはや彼には不可能だった。
多岐川は再びリビングへ戻り、ソファーに身を横たえた。 闇の中で、自分の吐き出した言葉や、あの残酷な映像の残像がぐるぐると渦巻く。もし、彼女がこのまま心を閉ざしてしまったら――。
そんな不安を抱えたまま、彼は彼女の「城」の静寂を見守り続けた。幸いにも、その夜は何事もなく、ただ静かに更けていった。伊織の家で何度目かの朝を迎え、多岐川は静かにキッチンに立った。
昨日、ここへ向かう前に購入しておいた食材の中から、手早く朝食の準備を進めていく。退院してすぐには、彼女が自ら買い物に出られるはずもないと考えての、彼なりの備えだった。
トースターから漂う、香ばしいパンの焼ける匂い。ハンドドリップで丁寧に淹れた、コーヒーの深い香りが、重厚な家の空気をゆっくりと書き換えていく。
その香りは、階段を伝って二階の寝室まで微かに届き、深い眠りの中にいた伊織の意識を優しく揺り起こした。
伊織は、重い体を引きずるようにして階段を降りた。リビングを通り抜け、キッチンの手前にあるダイニングに差し掛かったところで、エプロンもせずに手際よく動く背中を見つけ、声をかけた。
「……多岐川さん?」
多岐川は振り返りもせず、トーストの焼き加減を確認しながら、ごく自然な声で応じた。
「ああ。ちょうど準備している所だから。先にシャワーでも浴びて来たらいい。……冷えた体には、その方がいいだろう」
その淀みのない、まるでもう何年もここで朝を迎えてきたかのような言い草。昨夜のあの、地獄を覗き込むような緊迫感とのあまりの落差に、伊織は思わず小さく吹き出してしまった。
「……ふふ。そうですね。じゃあ、そうします」
自分の笑い声が、ひどく久しぶりなものに感じられた。 伊織は、昨日までの澱をすべて洗い流すかのように、浴室の方へと消えて行った。
残された多岐川は、彼女の笑い声の残響を耳にして、ようやく止めていた息を吐き出した。 彼の手は、コーヒーをカップに注ぐ際、ほんの少しだけ震えていた。
穏やかな朝食を終えた後、多岐川さんがコーヒーのカップを置きながら、静かに切り出した。
「伊織さん。……準備ができたら、お母様のところへ行こうか」
その言葉に、私は深く頷いた。今の私なら、あの病室のドアを、偽りのない心で開けられる気がした。
病院へ向かう途中、私たちはいつもの花屋に立ち寄った。 多岐川さんが「今日は私が選んでもいいかな」と言って、迷わず手に取ったのは、白いデルフィニウムだった。
「花言葉は『清明』、そして『あなたに幸せを振りまく』。……今の君たちが、静かな光の中で再会するのに、ふさわしい色だと思ったんだ」
透き通るような淡い青と白が混ざり合う花束を抱えて、私たちは病室へと向かった。
病室のドアの前で、看護師さんが私と多岐川さんを交互に見て微笑んだ。
「そうそう、多岐川さんから頂いたあのCD……お母様、毎日聴いていらっしゃるんですよ。不思議ですね。他の音楽をかけてもあまり反応されないのに、あの曲が流れると、こわばっていたお顔がすうっと和らいで、穏やかな笑顔を見せてくださるんです」
私は、隣に立つ多岐川さんを仰ぎ見た。
彼が看護師さんに託していたのは、私がプロとしてデビューして間もない頃に録音した、最初のフルアルバムだった。
まだ「魔法の薬」の存在すら知らず、ただ一音一音に己の魂を削り、プロとしての矜持と、病床の母への祈りを込めて奏でていたあの頃の音。批評家たちに「若き天才の、剥き出しの情熱」と評された、私にとっての原点とも言える一枚だった。
「……あれが、一番いい。お母様にとっても、そして、私にとってもね」
多岐川さんは短くそう言うと、私の背中を優しく促した。 病室のドアを開けると、微かな音量で、私の奏でるショパンが流れていた。今の私よりもずっと迷いがなく、それでいて、お母さんの愛を求めて震えているような、若々しくも気高い音色。
ベッドに横たわるお母さんは、窓の外を見つめていた。その瞳には、かつて私を追い詰めた鋭い光はなく、ただ穏やかな湖面のような静けさだけが湛えられている。
私がデルフィニウムの花束をサイドテーブルの瓶に挿すと、お母さんはゆっくりとこちらを向いた。
スピーカーから流れる、私の……「プロとしての蔦原伊織」の音を聴きながら、お母さんは微かに唇を動かした。
「……いい、音ね。さすが、伊織ね」
その言葉は、私の胸を鋭く刺した。お母さんは、目の前にいる「今の私」ではなく、スピーカーから流れる「あの頃の私」を、確かに自分の娘として認識していた。
その言葉は、私に向けられた賞賛ですらなかった。お母さんは、ベッドの横に立つ私の顔を見ているようで、その実は、何も見ていない。 ただ、部屋に満ちる音の粒子の中に、自分がかつて愛し、執着し、人生のすべてを賭けて育て上げた「娘の残像」を見出しているだけなのだ。
失っていく記憶、摩耗していく感情。日々の出来事も、今日の朝食の味も、目の前にいる女が誰であるかさえも、お母さんの脳からは等しく消え去ろうとしている。けれど、その荒野のような意識の中で、この旋律だけが、消えない火のように赤々と燃え続けている。
(……お母さんの中に残っている私は、この音だけなんだ)
私は、震える手でサイドテーブルに置かれた花瓶の位置を直した。デルフィニウムの青い花びらが、午後の光に透けている。
お母さんにとっての「伊織」は、もうこのCDの中にしか存在しないのかもしれない。今の、指が震え、自信を失い、薬の毒に焼かれた私は、お母さんの記憶の網目からも零れ落ちてしまった「名もなき他人」に過ぎない。
そう思うと、悲しみよりも先に、妙な清々しさが胸をかすめた。お母さんの愛していたものは、最後までこれだった。そして、私が守り抜かなければならないものも、やはりここにあるのだと。
私は椅子に腰を下ろし、スピーカーから流れる「かつての私」の音を、お母さんと一緒に黙って聴き続けた。多岐川さんは、壁際に立ち、その光景を影のように見守っていた。
お母さんの穏やかな表情に、少しだけ胸を撫で下ろしていたその時だった。 病室に現れた主治医に促され、私と多岐川さんは廊下の隅へと移動した。
「蔦原さん。……お母様の今後のことですが」
主治医の口から告げられたのは、期待していた「回復」とは程遠い宣告だった。以前の転倒による大転子の骨折。それが、高齢であることと、長年の寝たきりに近い生活による筋力の衰えに阻まれ、完全な癒着と回復が見込めないという。
「……歩くことは、もう難しいと判断せざるを得ません」
あと数ヶ月、リハビリを兼ねた入院を続けた後は、車椅子での生活が確定する。それは、お母さんが二度と自分の足で私のコンサートに来ることも、あの懐かしい家の庭を歩くことも叶わないことを意味していた。
頭が真っ白になる私に代わって、多岐川さんが冷静に質問を重ねる。
「……今後の生活の質を維持するために、最善の車椅子や環境を整えます。本人の痛みはどうなのですか?」
「幸い、急性期の痛みは引いています。今は、精神的な安定が何よりの薬でしょう」
主治医が去った後、私は廊下の壁に背中を預けた。部屋からは、まだ私の奏でるショパンが聞こえてくる。
(お母さんの足、私が奪ったようなものだ……)
もし私がもっと早く薬を断ち、まともに向き合っていれば。もし、あの時私がもっと側にいれば。そんな「もしも」が、また私の喉元までせり上がってくる。
けれど、多岐川さんは私の肩を、痛いくらいに強く、一度だけ叩いた。
「……悔やむのは後だ。今は、彼女が車椅子で一番心地よく過ごせる場所を、僕らが作るしかないだろう」
多岐川さんのその言葉に、私は唇を噛み締めた。お母さんの自由を奪ったのが運命だというのなら、せめて、車椅子に乗った彼女の目に映る景色を、世界で一番美しい音色で満たしてあげたい。そう願うことが、今の私に許される唯一の贖罪のように思えた。それは残酷な宣告のはずなのに、母の穏やかな笑顔は私の心に、不思議と凪のような静けさが広がっていた。
自由を奪われたお母さんの足を、これからは私が担っていけばいい。彼女が歩けないのなら、その分、私の奏でる音が彼女をどこへでも連れて行く。その具体的な「役割」を与えられたことが、宙に浮いていた私の心に、重しを与えてくれたのだ。
病院を出る頃には、私の顔にも僅かながらの生気が戻っていた。けれど、まだ断薬の反動と心労を抱えた私の体は、鉛のように重い。
「顔色が悪いな。……今日はもう、休むんだ」
多岐川さんは、私の自宅まで車を走らせながら、短く言った。玄関先で私を降ろすと、彼は車から降りることなく、開いた窓越しに私をじっと見つめた。
「買い物は済ませてある。明日の朝まで、何もしなくていい。……いいね、伊織さん」
その「伊織さん」という呼び方の響きに、いつものプロデューサーとしての冷徹さはなかった。 私は小さく頷き、遠ざかっていく彼の車のテールランプを、夜の帳の中で見送った。
多岐川は、バックミラーに映る彼女の小さな影が消えるまで、速度を上げなかった。 ようやく一人になった車中。深夜の国道を走りながら、彼は自身の疲労を自覚するように、深く、長く息を吐き出した。
彼女が車椅子の話を聞いた瞬間に見せた、あの微かな安堵。 それを「歪んでいる」と断じることは彼にはできなかった。自分もまた、彼女を守るという大義名分の下で、同じような暗い情熱を抱えて走っている自覚があったからだ。
車窓を流れる街灯の光が、多岐川の険しい表情を断続的に照らし出す。 彼自身の帰路。そこには、明日からの戦略と、そしてまだ彼女には言えない「音楽界の闇」への対抗策が、重く積み上がっていた。
帰宅した多岐川は、冷えた空気のままの書斎で、数枚の資料をデスクに広げた。そこには、伊織の復帰に向けた非公式のロードマップが、緻密な筆致で書き込まれている。
(……外部との接触は、今まで以上に厳しく制限する)
メディア、支援者、そしてあの興行主が口にしていた「変わり果てた音楽家たち」の影。それらすべてを、彼女の「城」の堀の外で食い止める。すでに世間には「過労による体調不良」と「母の介護」という名目が浸透している。多岐川はそれを、単なる言い訳から、誰も踏み込めない「崇高な物語」へと昇華させるつもりだった。
「悲劇のヒロインにするつもりはない。だが、彼女が再び鍵盤に向かうための『正当な理由』は、こちらで用意させてもらう……」
車椅子生活となる母のために、ただ一人、静かな広間でピアノを奏でる。その映像やエピソードを小出しにしながら、世間の好奇心を「敬意」へとすり替えていく。薬物疑惑という醜い噂が万が一漏れたとしても、「母の介護で心身ともに疲弊していた彼女を、さらに追い詰めるのか」という世論の防壁を今から築いておく。
それは、伊織の純粋な決意さえも利用した、多岐川なりの「愛」の形だった。
彼はペンを置き、窓の外の闇を見つめた。伊織が「自分の音」を取り戻したとき。その音が、彼が用意したこの「偽りの物語」さえも真実へと塗り替えてくれることを、彼は誰よりも強く信じていた。
退院後の伊織の「城」には、多岐川が頻繁に出入りするようになった。彼はマネージャーという枠を超え、ある時は厳格な調律師のように、またある時は静かな観測者のように、伊織の再生を傍らで支え続けた。
リハビリは、まず一音を鳴らすことから始まった。
窓から差し込む光が穏やかな日は、伊織の指も驚くほど滑らかに動いた。ハノンやチェルニーといった基礎的な練習曲が、かつての明晰さを取り戻したように響く。多岐川が用意した栄養価の高い食事を完食し、午後には車椅子の準備を整えるためにカタログを開く余裕さえあった。
「多岐川さん、今日は……弾ける気がします」
そう言って少しだけ誇らしげに鍵盤に向かう彼女の背中を、多岐川は静かな満足感とともに見守った。
だが、翌朝には一転して「嵐」が訪れる。ふとした瞬間に脳裏をよぎる、あの青いカプセルの残像。あるいは、昨日弾けたフレーズが指に馴染まないもどかしさ。それが引き金となり、伊織は激しい眩暈と共にソファーへ崩れ落ちる。
「……触れない。鍵盤が、冷たすぎて……」
指先が震え、昨日まで鳴っていた「自分の音」が、まるで他人のもののように遠のいていく。そうなれば、彼女は一日中寝室に閉じこもり、深い意識の闇に沈んでしまう。多岐川は無理に引きずり出すことはせず、ただドア越しに彼女の呼吸を感じながら、冷めたコーヒーを飲み干すのだった。
こうした「潮の満ち引き」のような日常が、一週間、二週間と積み重なっていく。
多岐川は、彼女が寝込んだ日でも決して諦めの色を見せなかった。彼女が眠っている間に、車椅子でのお母さんの迎え入れ準備を整え、業界各所への「献身的な娘」としてのストーリーを補強し、外敵を寄せ付けないための城壁を高く、厚く築き上げていった。
伊織が再び目覚めたとき、そこに必ず多岐川がいること。 それが、一進一退を繰り返す彼女にとって、唯一の「変わらない定点」となりつつあった。
一曲を、最後まで止まらずに奏でられる日が増えてきた。 痛々しく割れていた指先のアカギレも、丁寧な手入れと休息によって、ようやく柔らかな皮膚を取り戻しつつある。
身体的な回復と共に、伊織には新しい習慣が生まれていた。 多岐川が仕事で外出し、この堅牢な家に静寂だけが満ちる時間。彼女はピアノの椅子から立ち上がり、大きな窓の方を向いて、ただぼうっと立ち竦んでいるのだ。
視線の先には、手入れの行き届いた庭の木々と、その向こう側に広がる冷たい冬の空がある。 かつて、この家は彼女にとって「薬を隠し、自分を閉じ込める城」だった。けれど今は、多岐川の手によって磨き上げられ、守られた「聖域」になっている。
「…………」
伊織は、深く、長い溜息をついた。
薬を断ち、母への贖罪を誓い、一歩ずつ進んでいるはずなのに。静寂が深まれば深まるほど、自分の内側にぽっかりと空いた空洞が、ヒリヒリとした痛みを伴って主張し始める。
かつての私は、この空白を「音」か「薬」で埋めていた。今の私は、そのどちらも持っていない。 一曲弾けるようになった。けれど、それはまだ「正しい音」を並べているに過ぎないのではないか。お母さんが「さすが、伊織ね」と認めた、あの魂を揺さぶるような音は、もう二度と私の中から生まれてこないのではないか。
多岐川の前では見せない、剥き出しの不安。伊織は、自分の肩を抱くようにして、窓の外の景色を見つめ続ける。
その背中は、再生の途上にあるというより、まだどこか「帰る場所」を探して迷っている子供のようにも見えた。
夕刻、冬の低い太陽が街をオレンジ色に染める頃、多岐川がいつものように食材の袋を下げてやってきた。彼はリビングに入るなり、私の顔色をさっと窺い、それからピアノの方へ視線をやった。
「今日の様子はどうだった。……リハビリの方は?」
レッスン、と彼は呼ぶ。私がかつての感覚を取り戻すための孤独な闘いを、彼はそう呼んで尊重してくれていた。
「ええ。一曲、最後までスムーズに弾ける日が増えてきました」 「そうか、上出来だ。……だが、無理は禁物だよ。君の回復は、焦らずとも私がコントロールする」
多岐川はそう言って、キッチンへと向かった。
「今日はお鍋だ。温かいものをたくさん食べて、ゆっくりして早めに休むといい」
彼が手際よく用意してくれた夕食を、二人で囲む。湯気の向こう側で、多岐川は業界の他愛ない話や、お母さんの転院先の候補について淡々と話し、順調に進んでいる「スケジュール」に満足げな様子だった。
私が窓辺で立ち竦み、何を失って呆然としていたのか――そんな私の内側にある空洞には、彼は気づいている様子もなかった。彼にとっての私は、今、順調に「再生のプロセス」を歩んでいる一人のピアニストなのだ。
食事を終え、促されるままに私がお風呂に向かう。 浴室の湿った熱気の中で、私はようやく、誰にも見せられない重い溜息を吐き出すことができた。
一時間ほどして、髪を乾かし、浴室から上がってきたとき。 リビングにはもう、多岐川の姿はなかった。そこにあるのは、いつもの堅牢な静寂。けれど、ダイニングテーブルの上には、彼が残した一枚のメモが置かれていた。
『冷蔵庫に、君の好きなカットパインが入っている。ビタミンを摂って、よく眠るように。 多岐川』
私は冷蔵庫を開けた。冷気の中に、透明な容器に入った鮮やかな黄色の果実を見つけたとき、私の鼻の奥が不意にツンとした。彼は私の絶望には気づいていない。けれど、私の「好き」なものは、ちゃんと覚えていてくれる。その、深いところで繋がっているようでいて、どこか決定的にすれ違っているような不器用な優しさが、今の私にはたまらなく痛くて、愛おしかった。
私は独り、キッチンでその一切れを口に運んだ。冷たくて、鋭い甘酸っぱさが、死んでいた私の味覚を、静かに、けれど力強く目覚めさせていった。週に数回、私は定期的に母の見舞いに訪れていた。病室のドアを開けるたび、そこにはいつも多岐川さんが預けたあのCDが流れている。かつての私が、プロとしての矜持と、母への愛をすべて注ぎ込んで奏でた、一点の曇りもない完璧な旋律。
お母さんは、その音に包まれながら、いつもうっとりと目を細めていた。私が持っていったデルフィニウムを花瓶に挿し直しても、その細い手を握っても、お母さんの意識の半分は、常にスピーカーから流れる「あの頃の私」の元にあるようだった。
「……いい、音ね。さすが、伊織ね」
その言葉を聞くたびに、私は自分の心に、何重もの頑丈な蓋をしていった。
(お母さんが愛しているのは、この音なんだ。ここにいる、指の震えが止まらない、空っぽな私じゃない……)
お母さんの穏やかな笑顔は、私にとっての救いであると同時に、鋭い刃でもあった。この笑顔を守るためには、私は「今の自分」を殺してでも、あのCDのような音を取り戻さなければならない。そう自分を追い込むことで、私はかろうじて、目の前で崩れゆくお母さんの現実から目を逸らしていた。
多岐川さんのいない静寂の家で、窓の外を眺めながら立ち竦む時間。そこで感じる空虚の正体は、きっと、この「蓋」の下で悲鳴を上げている、剥き出しの自分自身だった。
お母さん、私は、あんなふうにはもう弾けないかもしれない。 そんな弱音は、喉の奥でパインの甘酸っぱさと一緒に飲み込んだ。私は今日も、お母さんの前で「順調に回復している娘」を演じ続け、夜になれば、冷たい静寂の中で独り、その歪んだ贖罪の重さに耐え続ける。
多岐川さんのいない、濃密な闇が支配する夜だった。私は、吸い寄せられるようにピアノの前に座った。蓋を開けたままの鍵盤が、月明かりを反射して冷たく光っている。
どれくらい、そうして動かずにいただろう。静寂の中で、自分の心臓の音だけが速くなっていく。私は、祈るように両手を鍵盤の上にかざした。
――弾きたい。
お母さんをうっとりさせる「過去の残響」でもなく、多岐川さんを安心させる「順調なリハビリ」でもない。今、この空っぽの身体を突き抜けていく、剥き出しの音を。
指が、意志を持って動いた。選んだのは、ラフマニノフ。 重く、深い低音が、堅牢な家の空気を一瞬で震わせた。 アカギレが治ったばかりの指先に、鍵盤の硬質な抵抗が容赦なく伝わる。かつての私なら、魔法の薬で麻痺させた感覚の中で、軽々と超えていた難所。けれど今の私は、一音一音の重みに、文字通り命を削るような思いで対峙していた。
狂おしいほどの情熱と、逃れられない宿命が交差する旋律。 それは、お母さんが聴いているあの「清らかなショパン」とは正反対の、泥臭く、激しく、そしてどこまでも孤独な音だった。
(……ああ、これだ)
蓋をしていた心が、激越の調べに揉まれて悲鳴を上げる。 指先は熱を持ち、視界がわずかに滲む。薬はない。偽りの全能感もない。そこにあるのは、震える身体で必死にピアノにしがみつく、一人の無力な女の姿だけだった。
けれど、その不格好で、完成度からは程遠いラフマニノフこそが、今の私の「本当の言葉」だった。私は、暗闇の中で狂ったように指を動かし続けた。窓の外の静寂を、切り裂くように。
数日が過ぎ、私はいつものように病院を訪れた。けれど、病棟の廊下に足を踏み入れた瞬間、私は金縛りにあったように動けなくなった。
「嫌ぁぁっ! やめて! 来ないで!」
お母さんの、裂けるような悲鳴。駆け寄ると、病室のドア越しに、看護師さんたちに押さえ込まれて必死に暴れるお母さんの姿が見えた。あんなに穏やかだった瞳は、今は何かに追い詰められた獣のように血走り、虚空を睨んでいる。
「蔦原さん、今は入らないでください!」
制止され、私は廊下の壁に激しく背中を打ちつけた。室内では、お母さんを落ち着かせるために、私がかつて録音したショパンが鳴り響いている。それなのに、お母さんはその音に包まれながら、耳を塞ぐようにしてのたうち回っているのだ。
「理由はわからないんです。急に、何かに怯えだして……」
看護師さんの困惑した声が、水の中にいるように遠くに聞こえる。フロアのスピーカーからは、病院側が流しているピアノの旋律が、細く、頼りなく、静かに流れ続けていた。
お母さんの叫び声がその旋律を切り裂く。なぜお母さんがこれほどまでに激昂しているのか。何が彼女の逆鱗に触れたのか。 今の私には、それを知る由もなかった。
ただ、自分の音が鳴り響く部屋で、自分とは似ても似つかない別の旋律が流れる廊下で、お母さんが壊れていく。その圧倒的な現実だけが、私の胸を容赦なく抉る。
(……私が、壊したんだ)
根拠のない自責の念が、どろりとした闇となって足元から這い上がってくる。やがて処置が終わったのか、叫び声は途絶え、病室には再び「完璧な私」のショパンだけが虚しく響き始めた。
私は病室の中に入ることさえできず、ただ震える手で壁を伝い、逃げるように病院を後にした。
夕闇が迫る街を、自分がどうやって歩いたのかも覚えていない。 気づけば私は、あの堅牢な「城」の玄関に立っていた。 多岐川さんはまだ来ていない。 家の中は、お母さんの悲鳴も、あの細い旋律もない、死んだような静寂に包まれている。 私はコートも脱がず、リビングの床にへたり込んだ。お母さんのあの形相。あの叫び。順調だと思っていた。
アカギレが治り、一曲弾けるようになり、多岐川さんが用意してくれる美談のレールの上を、贖罪という名の仮面を被って歩いていけると思っていた。けれど、現実はそんなに甘くない。お母さんの壊れた心は、私の知らない場所で、私の知らない「何か」に怯え、今も奈落の底へと落ち続けている。
私は膝を抱え、暗い部屋の中で独り、お母さんの悲鳴の理由を考えていた。
答えの出ない問いが、暗闇の中で何度も何度も頭の中を巡る。 このまま独りでいたら、またあの「青いカプセル」の誘惑に負けてしまいそうなほどの、耐え難い恐怖と孤独。 私は、自分の爪が手の甲に食い込むほど強く、自分自身を抱きしめていた。
どれくらいそうしていたか、玄関の鍵が開く音がして、多岐川さんが入ってきた。暗闇の中に座り込む私を見ても、彼は何も言わなかった。「どうしたんだ」とも、「大丈夫か」とも聞かない。ただ、静かに明かりを灯すと、私の側に膝をつき、冷え切った私の手を自分の大きな手で包み込んだ。
彼の手のひらから伝わってくる体温が、かえって私の輪郭をはっきりと浮き彫りにする。今日、病院で見た地獄。お母さんの悲鳴。理由のわからない拒絶。多岐川さんはそれをおそらく知らない。けれど、目の前でボロボロになっている私を、理由を問わずにそのまま受け入れている。
彼はキッチンに立つと、小さく鍋が触れ合う音を立てて、ホットミルクを用意した。差し出されたマグカップから立ち昇る白い湯気が、視界を柔らかくぼかす。
「……飲めるかい」
短く、抑えた声。私は頷き、震える手でそれを口に運んだ。喉を通り、胃に落ちていく熱だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
「今日は、もう休もう。……おやすみ、伊織さん」
飲み終えるのを待って、彼は私を寝室へと促した。彼が私の「本当の地獄」を知らないまま、いつものように穏やかで献身的なケアをしてくれること。その何も知らない優しさが、今の私には一番の救いで……そして、一番の毒だった。
本当のことを言えば、彼はきっと一緒に苦しんでくれるだろう。けれど、それを口にした瞬間に、彼が積み上げてきた「再生」という名の城が崩れてしまうような気がして、私はただ、シーツに顔を埋めて目を閉じた。
翌朝から、私は再び動けなくなった。かつてのような薬の離脱症状ではない。もっと静かで、深い、魂のスランプだった。
ピアノの前に座っても、鍵盤が「自分を断罪する冷たい歯」のように見えてしまう。指を伸ばそうとすると、あの日病院で聞いたお母さんの悲鳴が耳の奥でリフレインし、脊髄が凍りつく。一曲弾けるようになったはずの指は、今や鍵盤に触れることさえ拒んでいた。
私は、また寝込むようになった。カーテンを閉め切った部屋で、時間の感覚を失いながら横たわる。多岐川さんは毎日やってきて、栄養のある食事を運び、私の側で静かに過ごしたが、私はそれを受け取ることさえ難しくなっていた。
「……少しでもいい、口に運べるかな」
多岐川さんの心配そうな声。彼は、何がきっかけで私がここまで堕ちたのかを知らない。ただ、順調だったはずの再生が、不意に、何の予兆もなく断ち切られたことに困惑しているようだった。
けれど、そんな地獄のような日々も、何の変化もない単調な時間の積み重ねによって、少しずつ風化していった。多岐川さんが根気強く運び続けたスープ。何も言わずにただ側にいてくれる、彼という存在。そして、病院へ行くのを一度止め、お母さんの悲鳴から物理的に距離を置いたこと。
数週間が過ぎた頃、私の気分の変調は、まるで最初から何もなかったかのように、日常の波の中に溶けて消えていった。 食欲が戻り、少しずつ起き上がれるようになる。多岐川さんは、その回復を「峠を越した」と判断したようだった。彼が安堵の表情を見せるたびに、私は自分の胸の奥にある「理由」に、さらに厚い、誰にも開けられない蓋をしていった。
私はまた、ピアノの前に座り始める。何も解決していない。お母さんの悲鳴の理由も、私の空虚も。ただ、日常という名の麻酔が、私の痛みを一時的に麻痺させただけだった。




