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第4章:『魔法の代償と、隠しきれない輝き』

 サロンリサイタルの成功は、多岐川さんの言葉通り「蔦原伊織」の名を瞬く間に業界へ呼び戻した。次に見据えるのは、都内でも有数の響きを持つ中規模ホールでの単独公演。それは事実上の、完全なる復活宣言を意味していた。


「今の君なら、最高の演奏で客席を飲み込むだろう。あの夜、僕は確信したんだ」


 打ち合わせの席で、多岐川さんはかつてないほど確信に満ちた目でそう言った。その瞳には、私が薬の力で手に入れた「あの音」が、私の真の実力として焼き付いている。  私は、返された銀色の薬の欠片をバッグの奥底へ押し込み、ただ微笑み返すしかなかった。


 それからの日々は、自分との果てしない戦いだった。  私は薬の副作用が精神を蝕むのを本能的に恐れ、可能な限り「魔法」をセーブすることを決めていた。本番以外は飲まない。その代わり、八年の空白を埋めるために、寝る間も惜しんでピアノに向かった。


 けれど、現実は無慈悲だった。一日の大半を介護に費やす私の指は、ピアニストのそれとは程遠い。お母さんの体を支えるときにこわばる筋肉、水仕事でふやけ、割れた指先。練習を重ねるほどに、あかぎれからは血が滲み、鍵盤を赤く汚した。


「……っ」


 ある日の午後、ショパンのパッセージを弾き終えた瞬間、右手の薬指に鋭い痛みが走った。見れば、ぱっくりと割れた傷口から鮮血が溢れている。私はそれを洗面所で洗い流し、痛みで震える手で防水の絆創膏をきつく巻いた。その上からさらにテーピングを施す。指先の感覚はさらに遠のき、奏でられる音は、あの夜の「完璧」にはほど遠い、鈍く、澱んだものに成り下がっていた。


 追い打ちをかけるように、薬の離脱症状が私を襲う。  練習の手を止め、ふと天井を見上げた時だった。  雨漏りのシミが、歪んだ楽譜のように蠢いて見えた。耳の奥では、調律の狂ったピアノが、絶え間なく不協和音を奏でている。


「伊織? ピアノ、止まったわね。次は、何を弾いてくれるの?」


 寝室から、お母さんの明るい声が届く。私は、血の滲んだ手をお母さんに見られないよう、急いでエプロンのポケットに隠した。


「今、ちょっと休憩中。すぐ、次の曲を練習するから」


 私は寝室へ向かい、お母さんの体を起こして水分を摂らせた。  思い通りに動かない自分の体と、それ以上に重く、自由の利かないお母さんの肉体。お母さんの背中を支える私の指先には、練習で酷使した筋肉が悲鳴を上げ、鋭い激痛が走る。  一瞬、乱暴に手を離してしまいたい衝動が頭をよぎり、私はあまりの自己嫌悪に吐き気を覚えた。


 私は、お母さんのために弾いているはずだった。  それなのに、お母さんの世話をすることが、私の指から「音楽」を奪っていくような気がしてならない。


 夜、リビングのパソコンで、私はまたあの海外サイトを開いていた。発送通知はまだ「処理中」のままだ。残り三錠。

 ピルケースの中の銀色の四角い影を、私は狂おしいほどの焦燥感で見つめる。

 練習でどんなに血を流しても、あの高みには届かない。薬がなくなれば、私は再び、ただの「壊れたピアニスト」に戻ってしまう。

 窓の外は、深いミッドナイトブルー。お母さんが新調したと信じているあのドレスと同じ色の夜が、私を音もなく飲み込もうとしていた。


 本格的なホール公演を前に、多岐川さんはいくつかの小規模なサロンリサイタルをスケジュールに組み込んだ。


「伊織さん、ここは気負わなくていい。君を知らない新しい層に、顔を見せる程度で大丈夫だ。三十分の二回公演。あの高ぶりを少しずつ薄めて、リラックスして弾いておいで」


 それは、介護と猛練習で疲弊した私に対する、彼なりの細やかな配慮だった。


 実際、それらの会場では「復活した天才」という重圧は影を潜めていた。私は薬を服用せず、あかぎれの指をテーピングで保護したまま、比較的難易度の低いノクターンや前奏曲を並べた。

 かつての熱気はない。指先が鍵盤と一体化するような、あの鋭利な全能感もない。けれど、ただ「蔦原伊織」という名前が冠されているだけで、客席は満足そうに拍手を送ってくれた。格段に疲労感は少なかった。終わった後に、お母さんの世話をする余力も残っていた。


「ああ、今日は楽しかったわ。伊織のピアノ、家で聴くよりずっと素敵だった気がする」


 家政婦さんの手伝いを得て、時折会場の端で私の演奏を聴くお母さんは、まるで夢の続きを見ているように微笑んでいた。  日常の介護をこなしながら、こうして穏やかに音楽を続けていく。それこそが、本来の私たちが目指すべき「幸せ」の形なのかもしれなかった。


――けれど。無難に弾き終えた夜、リビングで一人、自分の指を見つめる私の胸には、得体の知れない空虚さが広がっていた。拍手はもらえる。お母さんも喜んでいる。でも、あの「魔法」を使った時にだけ到達できる、あの天上界の音を知ってしまった私の魂は、今の「まあまあ上手い演奏」では満足できなくなっていた。


 薬を飲まずに弾くピアノは、どこか色が褪せて見える。自分の指が、鈍く、重い。お母さんが「素敵だった」と笑えば笑うほど、私は自分の「本当の実力」が、彼女の期待に追いついていないことを突きつけられるようで苦しかった。


「……次のは、こんな風にはいかない」    




 カレンダーに記された、数ヶ月後の大ホール公演。多岐川さんは期待し、お母さんは客席で見ることを夢見ている。そこで「普通」の演奏をすれば、皆を失望させることになる。それだけは、耐えられなかった。

 私は、海外サイトの発送完了メールを暗い画面で確認し、安堵にも似た暗い悦びに浸る。平穏なリハビリ期間が、皮肉にも、私の中の「薬への絶対的な信頼」を、より強固なものへと変えていってしまった。


 サロンリサイタルの成功は、私に一筋の光を見せてくれたはずだった。けれど、家の中の空気は、それとは裏腹によどみ始めていた。お母さんの時間は、私の期待を嘲笑うかのように、確実に逆行を始めていたのだ。

 ある朝、トーストを焼く香りに混じって、お母さんの怯えたような声がリビングに響いた。


「……伊織、ピアノを止めて。あの方が、うるさくて眠れないって仰ってるわ」


 お母さんは、誰もいない薄暗い廊下を指差し、肩を震わせている。


「お母さん、あそこには誰もいないわよ。ピアノも、今は弾いていないでしょ?」


 私がどれほど優しく言い聞かせても、お母さんの瞳に宿る恐怖は消えなかった。かつて私の音を誰よりも愛し、「もっと聴かせて」と言ってくれたその耳が、今は存在しない幽霊の声に怯えている。


 ようやく落ち着いたかと思えば、今度は玄関に座り込み、外を見つめて動かなくなる。


「伊織、お父さんはまだかしら。もうすぐ夕食の時間でしょう?」

 十五年も前に見送ったはずの父の帰りを待つお母さんの背中は、驚くほど小さく、脆い。その背中に触れるたび、私の指先にはピアニストとしての誇りではなく、ただ「介護者」としての疲労だけが蓄積されていった。

 練習のために鍵盤の蓋を開けることすら、今の私には贅沢な罪悪感のように思えた。


「すぐ終わるから。少しだけ待っていてね」


 そう言ってピアノに向かっても、十分と経たないうちに、お母さんの徘徊する足音や、何かに躓く音が聞こえてくる。

 一日三時間あった練習時間は、一時間になり、やがては三十分を確保することすら難しくなっていった。焦燥感が、喉の奥にへばりつく苦い澱のように溜まっていく。


(このままじゃ、私はただの『蔦原伊織の残骸』になってしまう……)

 暗いリビングで、私は自分の指を見つめた。  練習できないストレスを、お母さんにぶつけてしまいそうになる自分を、殺したいほど憎みながら。  部屋の隅に置かれたままのあの小包が、闇の中で静かに私を呼んでいるような気がして、私は慌てて目を逸らした。


 その夜、私はリビングのソファで、開いたままの楽譜を胸に乗せて微睡まどろんでいた。  お母さんを寝かしつけた後、ようやく訪れた束の間の休息。耳の奥では、今日弾けなかったパッセージが、呪いのようにループしていた。


――ガタンッ、と。

 深夜の静寂を、何かが硬い床に叩きつけられるような、鈍く重い音が切り裂いた。


「お母さん……?」


 弾かれたように飛び起き、寝室へ駆け込む。ベッドは空だった。  廊下の先、トイレの入り口で、お母さんが丸まった糸屑のように倒れていた。


「お母さん! 大丈夫!?」


 肩を抱き寄せようとして、私は息を呑んだ。お母さんの顔は苦痛に歪み、脂汗が浮いている。震える手で彼女の体に触れると、左の腰のあたりが、あるはずのない角度で不自然に沈み込んでいた。


「……いたい、伊織、いたいわ……」


 その呻き声を聞いた瞬間、私の頭の中の楽譜が、バラバラに飛び散った。救急車を呼ぶ震える指が、自分の携帯の画面をうまく操作できない。深夜の病院。無機質な白いタイルの上を、ストレッチャーが音を立てて運ばれていく。

 下された診断は、大腿骨頸部骨折。高齢者の、そして認知症を抱える者にとっては、あまりに過酷な宣告だった。


「手術が必要です。ですが、環境が変わることで、その……周辺症状が強く出る可能性もあります」


 医師の淡々とした説明が、他人事のように頭のなかを通り過ぎていく。入院の手続きを終え、ようやく家に戻ったのは、夜が白み始めた頃だった。

 玄関を開けると、そこにはお母さんの脱ぎ捨てられたサンダルが片方だけ転がっていた。家の中は、恐ろしいほどに静まり返っている。


お母さんがいなくなった。


 私の時間を奪い、私のピアノを遮っていた、あの「愛すべき重荷」が、物理的にこの空間から消えてしまったのだ。


 私は、震える足でピアノの椅子に座った。泣かなければいけないのに。お母さんの身を案じなければいけないのに。私の指は、無意識のうちに鍵盤を愛撫するように触れていた。

 この家には今、私とピアノしかいない。お母さんの怪我という悲劇が、私に「最高の練習環境」を買い与えたのだ。そのあまりに冷酷で、あまりに皮肉な自由の感触に、私は声を殺して、嗚咽とも笑いともつかない声を漏らした。


 お母さんが入院してからというもの、私の生活は「静寂すぎる家」と「無機質な病院」の間を往復する二重生活へと変わった。

 毎日、午前中は憑かれたようにピアノに向かった。

 誰にも遮られない時間。お母さんの徘徊を気にする必要も、呼び声に指を止める必要もない。私はあかぎれの指にテーピングを施し、かつての感覚を、剥がれ落ちた壁を塗り直すように一つずつ取り戻していった。


(……動く。前よりも、指が鍵盤を捉えている)


 驚いたことに、薬を使わなくても、私の指は以前よりマシな動きを見せ始めていた。サロンリサイタルでの「あの感覚」を脳が覚えているのか、あるいは皮肉にも介護の過酷な労働が、私の精神を極限まで研ぎ澄ませたのか。


 もちろん、あの青い錠剤を飲んだ時の「神がかった全能感」には程遠い。けれど、地道な努力が形になり始めている手応えに、私の心には微かな希望が灯り始めていた。


(このまま、このまま練習を重ねれば、次は薬に頼らなくても――)


 そんな淡い期待を抱いたまま、午後は病院へと急ぐ。

 だが、病室の重い扉を開けるたびに、午前中の高揚感は冷や水を浴びせられたように凍りついた。


「お母さん、来たわよ。伊織よ」


 ベッドの上の、小さくなったお母さんに声をかける。

 手術は成功した。けれど、慣れない環境と入院生活による刺激の欠如が、お母さんの瞳から急速に光を奪っていた。お母さんは私を見ても、すぐには反応しない。虚空を見つめ、何かに怯えるように布団の端をいじっている。


「……あ、なた……どなた? 看護師さん?」


 その一言が、私の胸を鋭く突き刺す。


 一番に私の音を聴いてほしかった人が、私の顔すら忘れていく。私が家でピアノを弾くために手に入れた「自由」な時間は、そのままお母さんの「正気」が削り取られていく時間でもあった。


 お母さんの手を握ると、かつて私を抱きしめてくれたその手は、驚くほど冷たく、乾いていた。病室に流れる、停滞した空気。午前中の「指が動くようになった」という喜びが、どれほど自分勝手で醜いものに思えたことか。


「……ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい……」

私は病室で、何度もそう呟いた。


 けれど、病院の帰り道、私はまた自分の指を動かし、今日の練習の続きを考えてしまう。

 お母さんを失う恐怖と、ピアノを取り戻す悦び。  その二つが、互いの尻尾を飲み込む蛇のように、私の中でぐるぐると回り続ける。


 部屋の隅に置かれた、あの届いたままの小包。その存在を、私はもう、無視できなくなり始めていた。


 指が鍵盤を打つのではない。指先からほとばしる意志が、ピアノという巨大な獣を従え、ラフマニノフの重厚な和音をクリスタルのような輝きへと変えていく。

 私は、自分自身の演奏に陶酔していた。あかぎれの痛みなど、とうに意識の彼方だ。脳内を駆け巡る「青い魔法」は、複雑な打鍵の迷路をすべて黄金の道へと書き換え、私はただ、その光の上を疾走するだけでよかった。

 最後の一音がホールの……いや、この練習室の壁を震わせ、静寂の中に消えていく。


「……素晴らしい! 伊織さん、信じられないよ!」


 背後から響いたのは、多岐川さんの、これまでに聞いたこともないような興奮した声だった。


「伝え忘れたことがあって戻ったんだが、まさか、これほどの……。今のラフマニノフは、かつての君すら超えていた。いや、現役の誰を連れてきても、今の君には勝てないだろう。これだ、この音だよ! これこそが客席を、世界を飲み込む蔦原伊織の音なんだ!」


 多岐川さんは、まるで自分が弾いたかのように顔を紅潮させ、感極まった様子で私に歩み寄ってくる。私は、彼の称賛を全身で浴びながら、勝利の美酒に酔いしれるような心地で彼を振り返った。

けれど、


「本当に、君は……素晴らしい……努力を……」


 多岐川さんの言葉が、不自然に途切れた。


私に向けられていた熱狂的な眼差しが、ふと、ピアノの譜面台の横に吸い寄せられる。

 そこには、隠しようもなく放置された「残骸」があった。  ハサミで無残に切り刻まれ、不自然に光る銀色のPTPシート。  そして、まだ飲み込んでいないもう一錠の青い錠剤が、真っ白な鍵盤の上に、まるで毒のしずくのように一粒だけ転がっていた。


「……伊織さん、これは……?」


 多岐川さんの声から、一瞬にして熱が引いていく。彼は言葉を失い、私の手元と、その異質な青い粒を凝視した。

 私が「高価な御守り」だと言い張り、彼が「プラセボ」だと信じ込もうとしていた、あの銀色の欠片。その中身が、練習中にまで、これほどまでに無残に、そして大量に消費されている現実。


「これは、……?」


 多岐川さんの問いに、私は答えることができなかった。

 薬の作用で瞳孔が異様に開き、ギラついた熱を帯びた私の目と、多岐川さんの絶望に満ちた目が、真っ向からぶつかった。    さっきまで部屋を満たしていた神々しい残響は、今や、吐き気を催すような薬物の匂いに塗り替えられていた。


 多岐川さんの問いかけに答えようとした瞬間、私の世界は唐突に崩壊した。

 視界が激しく明滅し、指先から熱が引いていく。代わりに襲ってきたのは、自分の意志とは無関係に跳ね上がるような、激しい筋肉の痙攣だった。


「……っ、あ、あ……」


 声にならない喘ぎが漏れ、私は鍵盤に突っ伏した。低音域の鍵盤が不協和音を鳴らす。さっきまでの全能感はどこへ行ったのか。全身の骨を抜かれたような凄まじい脱力感が押し寄せ、私は椅子から崩れ落ちた。


「伊織さん! しっかりしろ!」


 多岐川さんの焦燥に満ちた声が遠くで聞こえる。彼は倒れ込んだ私の体を必死に支え、抱きかかえるようにして隣の寝室へと運び込んだ。


 ベッドに横たわった私の体は、まだ小刻みに震え続けていた。多岐川さんは、その様子を息を呑んで見つめていた。伊織を寝かせた後、彼は一人、リビングに戻り、先ほどの光景を反芻する。


(……あの復帰リサイタルの時も、そうだったのか)


 脳裏に浮かぶのは、喝采の中、舞台袖で見た彼女の異様な汗と、どこか焦点の定まらない瞳。


 あの時、自分はそれを「八年ぶりの緊張」だと、都合よく解釈してしまった。彼女が差し出した銀色の欠片を「御守り」だと言った時、なぜもっと踏み込まなかったのか。


 彼女の「復活」という奇跡に酔いしれ、その裏側にあるはずの「代償」から、自分も目を逸らしていたのではないか。


 多岐川さんは、キッチンに立って、慣れない手つきでコンロに火をつけた。以前、彼女が倒れた時に作ったのと同じ、粥の準備を始める。


トントン、とまな板を叩く音が、静まり返った家の中に空虚に響く。

 彼は予定されていた午後の打ち合わせをすべてキャンセルし、スマートフォンの電源を切った。今は、この壊れかけたピアニストを一人にするわけにはいかない。鍋から立ち上る湯気を見つめながら、多岐川さんは重い溜息をついた。


あの神がかったラフマニノフ。


あれが薬物による幻覚だったとしても、聴いてしまった耳は、あの音を否定できない。プロデューサーとしての冷徹な野心と、一人の人間としての倫理観が、彼の中で激しくせめぎ合っていた。


 やがて、寝室から微かな衣擦れの音が聞こえてきた。

 多岐川さんはお盆に粥を乗せ、覚悟を決めたような足取りで、再び彼女の待つ部屋へと向かった。


 寝室のドアを軽く二回、ノックする。

返事はなかった。

 けれど、扉の向こうに漂う重苦しい気配が、彼女の覚醒を告げていた。多岐川は意を決して、ゆっくりとドアを開けた。


 カーテンの隙間から差し込む薄い光の中に、伊織はいた。  ベッドボードに背を預け、力なく座っている。つい一時間前、鍵盤の上で猛威を振るっていたあの指先は、今は幽霊のように青白く、シーツの上で小刻みに震えている。部屋を支配するのは、耳が痛くなるほどの沈黙だった。


「……少しは落ち着いたか」


 多岐川の声は、自分でも驚くほど低く、慎重だった。


 伊織は答えない。ただ、自分の膝のあたりを虚ろな目で見つめ、固く口を閉ざしている。


「粥を作った。一口でもいい、食べておいた方がいい。……体が持たないぞ」


 多岐川は盆をサイドテーブルに置き、粥の入った器を彼女に促した。だが、伊織は微動だにしない。俯いたまま、垂れ下がった髪が彼女の表情を隠している。差し出された善意さえ、今の彼女にとっては自分を裁く刃のように感じられているのかもしれない。


「伊織さん、食べなさい」


 再度、諭すように声をかける。それでも彼女が手を伸ばそうとしないのを見て、多岐川は溜息を飲み込み、盆に乗せていたコップを手に取った。中には、氷の浮いた冷たい水が入っている。


「……せめて、これだけでも」


 多岐川は、拒絶を恐れるように、けれど拒ませない強さを持って、彼女の震える手にコップを預けた。指先が触れ合う。氷のように冷たい彼女の肌に、多岐川は一瞬、心臓を掴まれたような衝撃を受けた。


数秒の迷いの後。

 伊織はようやく、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつての輝きはなく、ただ深い絶望と、隠しきれない怯えが張り付いている。彼女は幽霊のような手つきでコップを口元に運び、一口、冷たい水を流し込んだ。

 ゴクリ、という小さな音が、静寂の中で残酷なほど鮮明に響く。その一口が、凍りついていた二人の時間を、わずかに、けれど決定的に動かし始めた。伊織が水を一口含んでも、言葉が溢れ出すことはなかった。

 多岐川もまた、追求する言葉を喉の奥へ押し戻した。今この瞬間に「なぜ」を問うたところで、返ってくるのは壊れた言い訳か、さらなる沈黙だけであることを彼は悟っていた。


 彼はただ、黙って伊織の傍らに座り、時が過ぎるのを待った。  部屋の空気は停滞し、サイドテーブルの粥からは、かつて立ち上っていた湯気が消え失せている。伊織はスプーンを手に取ることさえなかったが、多岐川が目を離した隙に、その表面は心許なくかき混ぜられた形跡があった。食べるためではなく、ただ、目の前の現実をやり過ごすための無意味な抵抗のように。


「……今日は、ここに泊まる」


 多岐川は静かに立ち上がり、そう告げた。伊織の肩がわずかに揺れたが、彼女は依然として顔を上げない。多岐川はそれ以上の返答を待たず、寝室を後にした。


 リビングに戻った彼は、誰に断ることもなく風呂場の給湯ボタンを押した。無機質な機械音が響き、湯が張られる音が聞こえてくる。彼はその間、キッチンの片隅で、冷めきって表面に膜の張った粥を見つめていた。伊織の孤独と、自分のエゴ。それらがこの粥のように混ざり合い、救いようのない色を呈している。やがて湯が沸くと、彼は再び寝室の扉を叩き、中へ声をかけた。


「風呂を沸かした。……入ってくるといい。少しは、頭も冷えるだろう」


 それは、介抱という名の監視であり、慈悲という名の強要でもあった。

 伊織は幽霊のような足取りでベッドを抜け出し、多岐川の横を通り抜けて脱衣所へと向かった。すれ違う瞬間、彼女からは微かに、あの青い薬の成分が汗と共に溶け出したような、甘く不気味な匂いがした。


 扉が閉まり、水の音が響き始める。多岐川はリビングのソファに深く腰掛け、両手で顔を覆った。


 今夜、この家から逃げ出すことは、もう誰にもできない。


 翌朝、多岐川は手早く朝食を整え、伊織が口にするのを待たずに家を出た。向かったのは、伊織の母が収容されている病院だ。病室の白い扉を開けた先で彼が目にしたのは、かつての「天才の母」の面影を失い、窓の外の虚無を見つめる一人の老いた女性だった。

 看護師から聞かされた「環境の変化による急激な認知症状の進行」という言葉。多岐川は、伊織から聞いていた以上の深刻さに息を呑んだ。

 確かに、リサイタルの成功時に彼女の異変には気づいていた。だが、今のこの「光を失った瞳」は、伊織という一人のピアニストが背負わされている、あまりに重すぎる現実の象徴だった。


 多岐川は、看護師に後を頼むと、再び伊織の家へと向かった。  住宅街の奥に、周囲を拒絶するように建つ古くて堅牢な佇まいの家。時代に取り残されたようなその外観は、かつての栄光をそのまま凍結させたかのような、重苦しい威厳を放っている。


 分厚い木製のドアのチャイムを鳴らす。昨日、あの地獄のような光景を目にした場所。しばらくして、重いかんぬきが外れる音がし、ドアがゆっくりと開いた。

 そこに立っていた伊織は、昨日より随分と顔色が良くなっていた。風呂を浴びて、少しは眠れたのだろう。だが、多岐川と目が合うと、彼女は気まずそうに視線を落とし、ドアの取っ手を握る指を白くさせた。


「……お入りください」


 招き入れられた家の中は、外観に違わず堅牢な造りで、足音さえ吸い込むような静寂に満ちていた。高い天井、磨き抜かれた廊下。お母さんと二人、この城の中で外界から身を守りながら、ひたすらピアノと向き合ってきた歳月が壁の隅々にまで染み付いている。


 ダイニングテーブルに向かい合わせに座ると、多岐川は病院で見てきた、今の家とは対照的な「無機質な病室」の光景を思い出しながら、静かに切り出した。


「病院へ行ってきた。……お母さんは、少し眠っておられたよ」


 伊織の肩が、この堅牢な家の静寂に怯えるようにびくりと跳ねた。多岐川は、逃げ場のない告白を促すように、けれど決して突き放さない口調で続けた。


「伊織さん。……あの薬のこと、そして昨日のこと。何があったのか、すべて話してくれないか」


 伊織は、重厚なテーブルの上で組んだ自分の指をじっと見つめていた。


「……お母さんに、聴かせたかったんです」


 それは、この堅牢な城の壁に跳ね返ることさえできないほど、か細い声だった。


「リサイタルが成功して、お母さんがあんなに喜んでくれて……。でも、入院してからお母さんの時間はどんどん戻っていく。私のことも、ピアノのことも、全部忘れてしまう前に、もう一度だけ、私が一番輝いていた時の音を届けたかった。……最初は、本当にそれだけだったんです」


 この「堅牢な家」という密室の中で、誰にも相談できず、ただお母さんの崩壊を食い止めるために、彼女は毒を飲み込む道を選んでしまった。その孤独の深さが、多岐川の胸に重くのしかかった。


 多岐川はその告白を聞いてしばらくの沈黙の後、今後のリサイタルを中止にしすると告げる決断をする。

 それは、伊織を見捨てた決断ではなく、辛い日常を耐え抜いて来た伊織をピアニストとしての腕を見込んでの言葉だった。だが、伊織はさらに動揺し絶望を見せる。進み出したイベントを止めるために再度伊織の家を後にする。


 数日後、謝罪周りをすませ、リサイタルの無期限延期と再会の約束をしたその足でまずは、お母さんの入院した病院へと寄るそこで伊織に会うかもしれない。開かれた環境で伝えた方が冷静に受け止められるだろうことと、回復したのちにリサイタルの開催を約束した報告だからだ。

 けれど、この数日間、伊織が見舞いに来ていないことを看護師から聞いて、嫌な予感が過ぎる。ただ、報告のためにも確認のためにも伊織の自宅を訪れる。チャイムを鳴らすが出てこない。嫌な予感が当たったことを察して、門扉を乗り越える。


 正面玄関は、まるですべての拒絶を象徴するかのように、施錠され固く閉ざされていた。何度叩いても、重厚な木材は冷たい感触を返すばかりで、中からの応答はない。

 多岐川は焦燥に駆られ、手入れの途絶えた庭の茂みをかき分けながら、建物の側面……リビングに面した大きな掃き出し窓の方へと回り込んだ。


「伊織さん! 伊織さん、そこにいるのか!」


 呼びかけながら窓越しに中を覗き込んだ瞬間、多岐川の心臓が大きく跳ねた。  薄暗いリビングの床、ピアノの脚のすぐ側に、伊織が力なく倒れているのが見えた。


「――っ!」


 咄嗟にサッシに手をかけ、力任せに横に引く。幸いにも、そこは施錠されていなかった。滑るように開いた窓から、夜の冷気と共に多岐川は部屋へと飛び込んだ。


「伊織さん! しっかりしろ、伊織さん!」


 駆け寄り、彼女の肩を抱き起こす。伊織の体は驚くほど冷たく、けれど首筋からは微かな、しかし乱れた拍動が伝わってきた。

 ふと、多岐川の視線が、彼女の周囲に散らばる「物」に釘付けになった。

 月明かりに照らされたフローリングの上、いくつもの銀色のシートの残骸が、まるで剥がれ落ちた鱗のように不気味に光っている。一錠や二錠ではない。リサイタル中止という宣告を受け、唯一の希望を断たれた彼女は、この数日間、この静まり返った「城」の中で、過剰なまでの「青い毒」を煽り続けていたのだ。


 空になったシート、そして数粒の青い錠剤が、彼女の指先からこぼれ落ちたまま転がっている。


「……なんて、ことを……」多岐川の声が震えた。


 自分が彼女を休ませようと下した決断が、結果として彼女をこの薬の海へと突き落としてしまった。伊織は、多岐川の腕の中で小さく呻き声を上げたが、その瞳が開かれることはなかった。ただ、薬の作用による異様な汗が、彼女の額を濡らしていた。



 鼻を突く消毒液の匂いと、無機質な機械の規則正しい音で、私は目を覚ました。視界に入ってきたのは、あの堅牢な我が家の天井ではなく、高く、冷たい病院の白い天井だった。


「……気がつきましたか?」


 傍らにいた看護師から、静かに説明を受けた。あの日、多岐川さんが窓から侵入して私を見つけ、救急車を呼んだこと。急性薬物中毒の疑いで胃洗浄が行われ、一時は危ない状態だったこと。私は、運ばれてきた時の自分の惨状を想像し、言葉を失った。

 それから数日、私はただ「安静」という名の空白の中にいた。栄養剤が点滴で流し込まれ、決められた食事を摂る。あの青い魔法が消えた後の体は、鉛のように重く、心は空っぽだった。


 そんなある日の午後、病室のドアが静かに開いた。


「……伊織さん」


 現れたのは、多岐川さんだった。この数日間、彼はリサイタルの中止に伴う謝罪や調整で、戦場のような日々を過ごしていたのだろう。上質なはずのスーツには隠しきれない皺が寄り、目の下には深い隈が刻まれている。

 私と目が合った瞬間、多岐川さんは言葉を発するよりも先に、大きく、深く、肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息をついた。

 その拍子に、彼の張っていた肩の力が目に見えて抜けていく。  怒られると思っていた。あるいは、失望して顔も見たくないと言われるのだと。けれど、崩れるように椅子に座った彼の姿からは、ただ「生きていてくれた」という一点への、祈りにも似た安堵だけが伝わってきた。


「……全く。君という人は、どこまで私の寿命を縮めれば気が済むんだ」


 絞り出した声は、少しだけ掠れていた。多岐川さんはそれ以上、私を責めることはしなかった。謝罪に回った日々の過酷さも、中止による損害の大きさも、今の彼にとっては、目の前の私が呼吸をしているという事実の前では、語るに足らぬことのように見えた。


 窓の外からは、お母さんの入院している病院の方から吹いてくるような、穏やかな風がカーテンを揺らしていた。私たちは、しばらくの間、何も言わずにその風の音だけを聞いていた。


 病室の沈黙を先に破ったのは、意外にも私の方だった。


「……多岐川さん。本当に、ご迷惑をおかけして、すみませんでした」


 私は、シーツの上に置いた自分の手を見つめながら呟いた。  点滴の痕が痛々しく残り、指先にはまだ、無理な練習と家事で刻まれたひび割れが、痛みの名残を留めている。薬の魔法が解けた今、この無骨で傷だらけの手こそが、私の惨めな現実そのものだった。


 多岐川さんは、私のその手を見て、一瞬だけ痛みに耐えるように目を細めた。かつて、世界を熱狂させたあの美しい指先が、これほどまでに傷ついていたことに。そして、その痛みに気づかず、あるいは気づかないふりをして、さらなる高みを求めてしまった自分自身に、彼は今、静かに心を痛めているようだった。


「……リサイタルのことだが、報告させてほしい」


 多岐川さんは、落ち着いたトーンで話し始めた。

「関係各所には、すべて説明してきた。お母様の介護が重なり、心労が限界に達していたこと。復帰を急がせすぎたのは、私の判断ミスであったこと。……正直に、今の状況を伝えたよ」


 私は、軽蔑の声が上がるのを覚悟して身を強張らせた。けれど、彼の口から出たのは、予想もしない言葉だった。


「驚くほど、みんな好意的だった。関係者も、そして君の演奏を待っていた人たちも……『蔦原伊織が壊れてしまうくらいなら、いくらでも待つ』と言ってくれた。あの小さなサロンリサイタルで君の音を聴いた人たちが、君の熱烈な支持者になって、周囲を説得してくれたんだ。君の音には、それだけの力があったんだよ、伊織さん」


 多岐川さんは一度言葉を切り、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「無期限の延期だ。けれど、誰も君との『再会』を諦めてはいない。急ぐ必要はない。お母様のことも含め、君が心からピアノを弾きたいと思える日が来るまで、私は何度でも、君のために場を用意する。……それが私の、君への謝罪であり、約束だ」


 多岐川さんの言葉が、カサカサに乾いていた私の心に、ゆっくりと染み込んでいく。薬で作った「偽りの神」ではなく、傷だらけの手で、泥を這うようにして生きてきた「今の私」を、待っていてくれる場所がある。私は、ひび割れた指を、ゆっくりと、けれど強く握りしめた。


 多岐川さんの言葉を聞きながら、私の視界は次第に滲んでいった。あんなに遠ざけたかったはずの現実。ひび割れて、血の滲んだ、美しくもない私の手。けれど今、多岐川さんはその手を、まるで宝物でも見るかのような、慈しみに満ちた目で見つめている。


「……私は、自分勝手でした」


 溢れ出した涙が、手の甲に落ちて、ひび割れた傷口に沁みる。


「お母さんのためだなんて言いながら、本当は自分が消えていくのが怖かった。薬がなければ何もできない自分を認めるのが、死ぬほど怖かったんです。……でも、そんな偽物の音を、皆さんは待っていてくれるんでしょうか」


 多岐川さんは、ゆっくりと首を振った。


「君の音は、薬だけで作られたものじゃない。あのサロンリサイタルで人々が涙したのは、君が抱えていた苦しみや、お母様への切実な愛が、音の端々に宿っていたからだ。……技術は取り戻せる。けれど、今の君が持っているその『深み』は、絶望の淵を歩いた人間にしか宿らないものなんだよ」


 多岐川さんはそう言うと、おもむろに窓を開けた。  雨上がりの、湿った、けれど清々しい土の匂いが病室に流れ込んでくる。

「落ち着いたら、またあの家に戻ろう。今度は一人じゃない。お母様のケアも、リハビリの計画も、一緒に考えよう。……君は、ただピアノと、自分自身を取り戻すことだけを考えればいい」


 窓の外、遠くの空に、薄い虹が掛かっていた。それは、折れ曲がって、自分の尻尾を噛み続けていた「ウロボロスの蛇」が、ようやくその口を離して、真っ直ぐな一本の道へと解き放たれたような、そんな光景に見えた。


 私の指は、まだ動かない。けれど、耳の奥では、あの「青い魔法」の轟音ではない、もっと静かで、穏やかな、雨上がりの午後に相応しいプレリュードが、微かに鳴り始めていた。


 多岐川さんは、玄関先で鍵を渡しながら短く言った。彼は家の中までは入ろうとしなかった。


「……何かあれば、連絡を」


 その言葉だけを残して、彼は背を向けた。夕闇が迫る住宅街の道を、迷いのない足取りで去っていく。


 重厚なドアを閉め、かんぬきを落とす。カチャン、という硬質な音が、静かな玄関ホールに響き渡った。


 私は、独りになった。


 磨き抜かれた廊下を通り、リビングへと足を踏み入れる。  空気は入れ替えられ、澱んでいた薬の匂いはもうどこにもない。  私は、自分の指先をじっと見つめた。震えは、まだ止まっていない。


 ピアノの前に座る勇気はなかった。私はただ、暗くなっていく部屋の中で、お母さんのいないソファの空白を眺めていた。


 一人で静かに過ごす久しぶりの自宅は、冷え冷えとして思考を巡らせてしまう。お母さんのいない部屋、整えられすぎた空間。放っておけば、また暗い深淵に引き摺り込まれそうなその冷気から逃れるように、私はピアノの前に座った。


 何かを表現しようと思ったわけではない。ただ、指が覚えているままに、浮かんでは消える旋律を形にしていく。


 恐怖から安心のために、自由な気持ちでピアノを奏でる。

 そこには、かつて私を支配していた「完璧でなければならない」という強迫観念も、お母さんに見せつけなければという焦燥もなかった。ピアノについて何かを思うことはなかったけれど、心の中にあった葛藤さえ掻き消すことができた。


 ただ、音が空気に溶けていく。その心地よさに身を任せているうちに、一時間ほどの時が過ぎていた。


 蓋を閉めると、部屋の冷気は不思議と気にならなくなっていた。私は、久しぶりに訪れた穏やかな眠りの中へと、吸い込まれるように落ちていった。


 目覚めた私が感じたのは、見慣れた天井と、いつもと同じ部屋の匂いだった。けれど、何かが決定的に違っていた。

 いつも感じているのは、薬の残滓が頭を締め付けるような不快な軽さではない。もっとどっしりとした、逃げ場のない重苦しさ。それでいて、水底から水面を見上げた時のような、濁りなく透明で澄んだ感覚だった。


 心とは裏腹に、身体には幾分かの軽さがあった。毒が抜け、細胞がようやく本来の呼吸を始めたのかもしれない。けれど、だからといってすぐに起き上がって、何かをしようという気力までは湧いてこなかった。空腹は感じているはずなのに、食べ物を探したり、窓を開けて空気を入れ替えたりする動作さえ、ひどく遠い世界の出来事のように思える。


 その停滞を切り裂いたのは、鋭いチャイムの音だった。


 ……誰だろう。多岐川さんは「明後日」と言っていたはずだ。  私は重い腰を上げ、ゆっくりとモニターを確認しに行った。映っていたのは、大きな段ボールを抱えた宅配業者の姿だった。

 居留守を使う気にもなれず、上着を羽織って玄関へと向かう。ドアを開け、サインを済ませると、足元には三つ、四つと大きな荷物が積み上げられた。


「あの……これ、何ですか? 心当たりがないんですけど」


 問いを投げると、業者は手元の端末の送り先を見せてくれた。そこには、以前から私の演奏を熱心に支えてくれていた支援者の名前が並んでいた。慌てて家の中に運び込み、その一つを開けてみる。中には、体に良さそうな高級なスープの詰め合わせや、産地直送の果物、そして短い手紙が添えられていた。


『ゆっくり休んでください。あなたの音を、いつまでも待っています』


 それは、多岐川さんが言っていた「好意的な反応」の、実体を持った証だった。堅牢な城の中に閉じこもり、独りで戦っていると思っていた私の知らないところで、私の不在を慈しむ時間が流れていた。


 荷物から漂う、どこか他人の生活の匂い。私は、積み上がった段ボールの前に座り込み、しばらく動けなかった。透明で澄んだはずの私の世界に、少しずつ、けれど確実に、他人の体温が混じり始めていた。


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