第3章:「劇薬の蜜月」
最初は、指を温めるだけのつもりだった。軽いハノンやスケールを流し、指先の感覚を確かめていく。一ヶ月間、音の出ない鍵盤でなぞり続けてきた動きを、ようやく実音として空間に放っていく。
音が整ったピアノは、私の指の未熟さを容赦なく暴き立てた。次第に熱を帯び、曲を重ねていく。ショパンのエチュードから、いよいよ先刻まで録音で聴いていた『スカルボ』へと指を滑らせた、その時だった。
――指が、動かない。
頭の中に鳴り響く完璧な旋律に、肉体が追いつかない。右手の薬指と左手の親指。パックリと割れたあかぎれが、鍵盤を叩くたびに火を押し付けられたような激痛を放つ。絆創膏をきつく巻き直してみるが、今度はその厚みが鍵盤との対話を遮断し、打鍵のコントロールを奪っていく。もつれる連打、崩れる音階。それはかつての私の演奏とは似ても似つかない、ただの「老いた音」の残骸だった。
「……っ」
私は吐き気すら感じながら、洗面所へ駆け込んだ。
鏡の中には、指を真っ赤に腫らし、脂と絆創膏にまみれた哀れな女が立っている。私は迷わなかった。
楽譜立ての裏から取り出した、あの「青い一錠」を口に放り込む。ザラリとした苦味が喉を焼くが、それを縋るように飲み下した。
数分後。
指先に微かな熱を感じたかと思うと、それは瞬く間に脈動となり、全身の血液が沸き立つような錯覚に変わった。
あかぎれの鋭い痛みが、霧が晴れるように消えていく。それどころか、指先の皮膚が鍵盤と一体化するような、極めて繊細で鋭敏な感覚が戻ってきた。
私は、再びピアノの前に座った。
今度は、絆創膏などいらない。
――……!
指が、私の意思を追い越して跳ねた。
重力から解放されたかのように軽く、それでいて鋼のような芯を持った音。銀の粒を撒き散らすような輝き。複雑な跳躍も、磁石に吸い寄せられるように正確に決まる。
心地よい。自分の出している音律に、自分自身が惚れ惚れとする。ふと視線を感じて横を見ると、ソファに母が座っていた。母は何も言わず、ただ黙って目を閉じ、深く身を沈めて私の演奏の余韻を味わっている。
その、かつて「師」として厳格に私を評していた時と同じ、一点の曇りもない母の静かな姿。それを見た瞬間、私の心に一滴の水が落ち、波紋が静かに広がっていくのを感じた。
この沈黙。
この視線。
これを取り戻すためなら、私はどんな悪魔に魂を売っても構わない。
十分間の魔法が解ける前に、私はもう一度、鍵盤に深く指を沈めた。
魔法は、唐突に終わりを告げた。最後の音が空気に溶け、静寂が戻ってきたリビング。母はまだ目を閉じたまま、夢の続きを反芻している。
だが、私の体には異変が起きていた。
さっきまでの全能感が潮が引くように消え去り、代わりに全身を襲ったのは、鉛を流し込まれたような重苦しい疲労感だった。
「……っ、あ……」 指先に、あの痛みが戻ってくる。
薬で無理やり神経を麻痺させ、死に物狂いで動かした代償が、あかぎれの傷口に鋭い疼きとなって突き刺さる。鍵盤から手を離すと、指が細かく、不自然に震えていた。
自室に逃げ込み、ベッドに倒れ込む。
お母さんはまた、数分後には私を「家政婦の桜井さん」に戻してしまうだろう。けれど、あの沈黙の余韻だけは、確かに私の胸に刻まれた。
私は、脂じんだスマホを手に取った。
『――練習を再開しました。どこまで当時の感覚を取り戻せるかは分かりませんが、前向きに検討させてください』
多岐川さんへの、慎重に言葉を選んだメッセージ。
送信ボタンを押した後、私は楽譜立ての裏に隠した茶色の小箱を見つめた。
一錠、五万円。
サイトに踊っていた金額を思い出す。普通に考えれば狂気の沙汰だ。けれど、今の演奏で得られたあの「一滴の波紋」に比べれば、安いものだと思ってしまう自分がいた。
手元には、まだ数錠の在庫がある。 まだ一錠使っただけだ。不安になる必要なんてない。そう自分に言い聞かせながら、私はズキズキと痛む指を、再びヒルドイドの脂で塗り固めた。
薬がもたらす極彩色の時間と、軟膏が守る灰色の日々。
その境界線が、少しずつ、けれど確実に溶け始めていた。
一音、低く深い音が響く。
母の視線が、私の「指」へと吸い寄せられる。その瞳から霧が晴れ、かつて数多の才能を裁いてきた指導者の鋭い光が宿る。
「……伊織。今のフレーズ、音が濁っているわ。もう一度」
さっきまで私を「桜井さん」として扱っていた母が、迷いなく私の名前を呼ぶ。
私は、あかぎれが疼く指で、必死に母の「指導」に応える。
ピアノが鳴っている間だけ、私たちは「壊れた老いた女と疲れ切った娘」ではなく、共通の芸術を追う「師と弟子」として、同じ地平に立つことができた。
けれど、音が止み、私が鍵盤から手を離すと、母の瞳に再び薄い膜が張る。母は私の顔をじっと見つめ、それから不安そうにリビングの隅々まで視線を走らせた。
「……伊織、リサイタルの準備は順調なのね。それは安心したわ。……でも、桜井さんは? 桜井さんはどこへ行ったの。あの人にお茶を頼んでいたのに、ちっとも来ないじゃないの」
さっきまで私を見ていたはずの母が、私を通り越して、実在しない「桜井さん」の影を追い始める。
「お母さん、桜井さんは今日はお休みよ。私がお茶を入れてくるわね」
「……そう? 困ったわね。あの人、最近さぼってばかりじゃない」
母の脳内では、娘としての私と、家政婦としての私が、重なり合いながら別々に存在している。私がどれほど魂を削って『スカルボ』を弾いても、母は次の瞬間には、私の横にいるはずの「透明な他人」を呼び戻そうとするのだ。
今の私を「伊織」として完全に繋ぎ止めておくことはできない。そのもどかしさが、私を「ピアノを止められない」という強迫観念に駆り立てていく。音が止まれば、私はまた、母の視界の中で「桜井さんの不在」を埋めるだけの代役に戻ってしまう。 母の認識の隙間に、私を「私」として一秒でも長く刻み込むために。
私は夜、母が眠りについた後、震える手で再びあの青い一錠へと手を伸ばす。
多岐川さんが再び我が家を訪れたのは、私が「二錠目」を服用した翌日のことだった。リビングに響くのは、録音ではない。
完璧に調律され、私の指によって命を吹き込まれたピアノの生音だ。
多岐川さんは玄関先で立ち尽くしていた。
私が弾いていたのは、かつて彼が「今の君には無理だ」と諦めかけた、リストの『超絶技巧練習曲』。
薬の効果がわずかに残っているのか、あるいは一度開いた「感覚」の扉が道を覚えたのか。あかぎれの痛みすら、今は遠い世界の出来事のように感じられる。
「……信じられない」
多岐川さんの呟きは、感嘆というよりは、戦慄に近いものだった。彼はリビングに入ると、ソファに座る母に軽く会釈をし、それから私の手元を、獲物を狙う鷹のような目で見つめた。
「伊織さん。今の演奏……一体、この短期間に何があったんだ?」
「……必死に、練習しただけです。お母さんのために」
私は鍵盤から手を離し、不自然に震えようとする指を膝の上で強く握りしめた。
多岐川さんは感銘を受けたように頷き、落ち着いた声でこう言った。
「素晴らしい。だが、焦る必要はない。まずは半年、いや一年かけて、じっくりと体と感覚を戻していきましょう。秋頃に、まずは知人だけを招いた小さなサロンから始めませんか」
多岐川さんの提案は、驚くほど誠実で、私を労わるものだった。
けれど、その「優しさ」が、私の胸をチリリと焼いた。一年……そんなに長い間、私のこの「借り物の指」が持ってくれるだろうか。
「リサイタル……いいわね。伊織、ドレスはどうするの? 先生に、新しいのを仕立ててもらわなくちゃ」
不意に、母が真っ直ぐな目で私を見た。そこに「桜井さん」の影はない。母の中の何かが「リサイタル」という言葉に反応し、一時的に娘の未来を認識したのだ。その輝きを失いたくない一心で、私は「やりましょう、多岐川さん」と静かに応じた。
それからの日々は、静かに、けれど確実に「色」を変えていった。
春。
私は毎日、母と手を繋いで近所の公園を散歩した。
「あ、桜。綺麗ねえ」 少女のように微笑む母の手は温かく、その歩みに合わせている間だけは、私は薬のことも、ピアノの重圧も忘れることができた。外の空気をお腹いっぱいに吸い込む母の横顔を見て、不穏が少しでも遠のくことを祈った。
けれど、家に帰れば現実が待っている。散歩の疲れで母が眠りについた後、私は一人ピアノに向かう。自力の練習では、全盛期の音には遠く及ばない。多岐川さんが期待し、母が目を細めた「あの音」を再現するには、やはり「青い一錠」が必要だった。
最初は、週に一度。
それが、自分を「伊織」と認識させるための魔法として、少しずつ頻度が増していく。
夏が来る頃には、私の体には小さな異変が兆し始めていた。 散歩の最中、不意に視界が歪んだり、真夏だというのに指先だけが氷のように冷たくなる。何より恐ろしいのは、薬を飲んでいない時の自分の演奏が、以前よりもずっと「死んで」聞こえることだった。
薬を飲む。指が動く。母が笑う。
薬が切れる。指が震える。母が私を「桜井さん」と呼ぶ。
その残酷なループを、多岐川さんはまだ知らない。
彼は秋のサロンに向けた準備を、着実に、そして誠実に進めていた。季節の移ろいと共に、私の貯金残高と健康な精神が、少しずつ削り取られていく。
お母さんの手を繋ぐ力が、以前より少しだけ弱くなったことに気づいたのは、蝉時雨が激しく降り注ぐ、ある午後のことだった。
夏が過ぎ、風の中に湿り気が混じるようになっても、お母さんと手を繋いで歩く時間は続いていた。 繋いだ手の、その指先の感覚だけは、かつて私にピアノを叩き込んだ厳しい「師」のままだった。驚くほど強く、時に私の節を締め上げるような確かな力。けれど、その力強さに反して、お母さんの足取りは日を追うごとに泥に沈んでいくようだった。
「……少し、休みましょうか」
わずか十メートル先の公園のベンチが、今の私たちには途方もなく遠い。お母さんの膝は、自分の体重を支えきれずに小刻みに震えている。アスファルトの上を這うように進むその足音は、かつての軽やかなリズムを失い、引きずるような、不規則な三拍子を刻んでいた。握る手はこんなに強いのに、地面を蹴る力から失われていく。その残酷なアンバランスさは、今の私そのものだった。
一錠五万円の薬で、指先だけを万能の黄金で塗り固め、その土台となる心と体は、とうの昔にボロボロに崩れ去っている。
私たちは二人して、見えない砂の城の上で、必死に「かつての姿」を演じているだけなのだ。
そんな中、多岐川さんから「秋のサロン」の正式な日程が記されたメールが届いた。
それを機に、私の練習は「修練」から、ある種の凄惨な「儀式」へと変質していった。 薬を服用する頻度は、三日に一度、二日に一度と、呼吸をするように増えていく。通帳の残高が、一文字ずつ消えていくことへの恐怖は、もはや麻痺していた。
それよりも、薬を飲んでいない時の自分の指――ヒルドイドの脂でベタつき、あかぎれが赤く口を開けた「他人の死体」のような指――が、鍵盤の上でぴくりとも動かなくなる瞬間の方が、何万倍も恐ろしかった。
副作用は、静かに、けれど確実に私の神経を蝕み始めていた。
ある朝、お母さんの腰を抱きかかえ、トイレへ誘導しようとした時のことだ。不意に視界の端から色が抜け、真っ白な閃光が走った。強烈な立ちくらみと共に、耳の奥で、調律が狂い、弦が一本ずつ弾け飛ぶような、激しく乱れた音律が渦を巻いた。
「……っ、あ……」 冷や汗が噴き出し、膝の力が抜ける。
そのままタイル張りの床に崩れそうになった私を支えたのは、皮肉にも、お母さんのあの「強い握力」だった。
「……桜井さん? 大丈夫なの、あなた。顔色が、紙みたいに真っ白よ」
お母さんの瞳が、心配そうに私の顔を覗き込む。
娘としての私を忘れていても、目の前の「介護者」が壊れかけていることを、彼女の生存本能が察知している。その慈愛に満ちた目が、今の私にはどんな刃物よりも鋭く突き刺さった。
私は、お母さんの細い腕にしがみつきながら、荒い呼吸を整えた。本当は分かっている。散歩の距離を縮め、ピアノの蓋を閉じ、ただの「娘」としてお母さんの隣で静かに老いていくべきなのだ。
けれど、耳の奥では、多岐川さんの期待に満ちた低音と、まだ見ぬ観客たちが放つ熱狂の残響が、呪文のように鳴り止まない。何より、お母さんの足腰が完全に立たなくなる前に。
彼女の脳裏から「ピアニストの蔦原伊織」という誇りが、一滴残らず消え去ってしまう前に。
その夜も、お母さんを寝かしつけた後、私は吸い寄せられるように自室のデスクへ向かった。暗闇の中で、青い錠剤を指先で転がす。
それは冷たく、けれど命の火を灯す唯一の種火に見えた。 水も飲まずに、奥歯で一気に噛み砕く。
脳を直接焼くような、えぐみを伴う苦味が広がった。
数分後。
視界を覆っていた靄が晴れ、指先が脈動を始める。 立ちくらみも、乱れた音律も、すべてが彼方へと消し去られた。
私はピアノの前に座り、お母さんがかつて涙を流して喜んだ曲の冒頭に、指を沈めた。 狂ったような速度。完璧な粒立ち。 暗いリビングに、薬理作用が捏造した「絶頂の音楽」が、毒々しいほどの美しさで溢れ出した。
最初のサロンリサイタルは、かつて私を可愛がってくれた後援会長の私邸で行われることになった。お母さんのことは、いつもの家政婦さんに時間を延長して見てもらうことにした。ピアノさえ弾けるようになれば、すべては元の場所に戻るのだと、根拠のない希望に縋っていたのかもしれない。
最初のサロンリサイタルを控えたある日、我が家に一人の客が訪れた。母がかつて最も信頼を寄せ、私のステージ衣装のすべてを任せていたデザイナーの「先生」だ。
「お母様から、何度も途切れ途切れにお電話をいただいていてね。……気になっていたのよ」
リビングに入った先生は、ソファに座る母の姿を見て、一瞬だけ痛ましそうに目を細めた。 母は先生の顔を見ても、それが誰だか思い出せないようだった。ただ、先生が持ってきた生地のサンプルに、かつての感覚が反応するのか、不思議そうに指先を動かしている。
私は当初、新しいドレスを新調するつもりだった。けれど、リビングに漂う静かな生活の匂いと、介護のために短く切り揃えられた私の爪を見た先生は、首を横に振った。
「伊織さん。今は新しいドレスを作る時じゃないわ。昔のあなたと、今のあなたを繋ぎ合わせるものが必要なの」
先生の提案は、八年前の勝負ドレス――あの鮮やかな空色のシルクを、今の私に合わせて「仕立て直す」ことだった。今の私の肌には、かつての輝きは強すぎる。でも、その思い出の生地の上に、今の私が歩んできた「夜」を重ねればいい。
そして今日、先生は完成したドレスを抱えて、再び我が家を訪ねてくれた。
「……さあ、着てみて」
袖を通すと、驚くほどしっくりと体が馴染んだ。空色の上に、深いミッドナイトブルーのチュールが幾重にも重なっている。歩くたびに、内側の鮮やかな青が、夜の帳の隙間から漏れる光のように微かに覗く。
リビングに現れた私を見て、母が小さく、深く息を漏らした。
「……綺麗ねえ、伊織。やっぱり、新しいドレスは違うわね」
母の瞳は、一点の曇りもなく輝いていた。彼女の中では、これが過去のドレスの再構築だという認識は消え去っている。ただ純粋に、復活する娘のために新調された「世界に一着だけの贈り物」として、その目に映っているのだ。
お母さんは震える手で、私の腰回りに施された、星屑のような繊細な刺繍に触れた。
「先生、素晴らしいわ。伊織の門出に、こんなに素敵な新しいドレスを仕立ててくださって……」
先生は一瞬私を見て、それから慈愛に満ちた微笑みをお母さんに向けた。
「ええ、お母様。伊織さんにぴったりの、今の彼女だけのドレスですよ」
「ありがとう、お母さん。先生に相談してくれて。私、これを持って精一杯弾いてくるわね」
私はお母さんの手に自分の手を重ね、心からの感謝を伝えた。お母さんは「自分の功績」で娘が美しくなったことを誇るように、満足げに頷いている。
先生の心遣いも、お母さんの無垢な喜びも。すべてが、私がピアノに戻ることを祝福している。
鏡の中に立つ凛としたピアニストの姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも危うかった。私はそっと視線を逸らし、ドレッサーの上に置かれた小さなピルケースを見つめた。
このドレスにふさわしい「完璧」を演じるために。
お母さんが信じている「輝かしい娘」であり続けるために。
私は静かに、荒れた指先でその青い魔法をバッグの奥底へ忍ばせた。
当日。
私は、お母さんの「頑張ってね」という、かつて何度も聞いたはずの、けれど今はどこか頼りない声に見送られて家を出た。
家政婦さんは「お任せください」と慣れた手つきでお母さんの隣に座った。その光景に安堵しながらも、私はどこか、自分だけが華やかな嘘の世界へ逃げ出すような、微かな後ろめたさを振り切るように車のドアを閉めた。
会場となる後援会長の私邸には、すでに二十人ほどの観客が集まっていた。かつての私を知る耳の肥えた客、そして、多岐川さんが「再起の証人」として招いた批評家たち。彼らの視線は温かいようでいて、その実、死んだはずの天才がどれほどの抜け殻になっているかを見定めようとする冷徹さを秘めていた。
「……準備はいいですか」
控え室に現れた多岐川さんは、私のドレスを一目見て、短く息を呑んだ。
「そのドレス……。蔦原さん、今の君は、かつての君よりもずっと深く、美しい」
多岐川さんの言葉は、私を勇気づけるためだけのものではなかった。彼はビジネスマンであると同時に、音の奴隷だ。私の姿に「商品としての価値」が戻ったことを、直感的に悟ったのだろう。私は多岐川さんに背を向け、バッグの底からピルケースを取り出した。
鏡の中の自分は、ミッドナイトブルーの夜を纏い、気高く立っている。けれど、そのチュールの下では、膝が震え、荒れた指先が鍵盤を叩くことを拒んでいた。今さら、自力の練習不足を悔やんでも遅い。
指先の感覚を黄金に変え、お母さんの夢を現実にするためには、この一錠を飲み込む以外の道はなかった。 私は一口の冷めた水で、青い錠剤を流し込んだ。胃の底が熱くなり、数分後には、視界を覆っていた不安の霧が、音を立てて晴れていく。
「……行きましょう」
私は多岐川さんを促し、舞台袖へと向かった。拍手の中、私はサロンの中央に鎮座するスタインウェイへと歩み寄る。
お母さんが新調したと信じているこのドレスが、会場のシャンデリアを反射して、毒々しいほど鮮やかに揺れた。椅子に座り、鍵盤に指を置く。
薬理作用が、私の神経を無理やり増幅させていく。
最初の一音を放った瞬間、私は、自分がお母さんの「娘」でも、介護に疲れ果てた「一人の女」でもなく、ただ音を紡ぐだけの「完璧な機械」になったことを自覚した。
客席の最前列には、多岐川さんの満足げな笑みがあった。 私はただ、暗いリビングで待つお母さんの笑顔だけを思い浮かべながら、悪魔に魂を売った指を踊らせ始めた。(前半の演奏。薬が効き始め、聴衆が「蔦原伊織が帰ってきた」とざわめき始める) プログラムの前半を終え、一度舞台裏に下がった私の背中には、嫌な汗が流れていた。指は動いている。でも、まだ足りない。後半はあのリストだ。観客の度肝を抜き、多岐川に「これならいける」と確信させるには、もっと、もっと「劇薬」が必要だ。
「伊織さん、素晴らしい。観客の目が変わったよ」
多岐川さんの興奮した声が、今の私には遠い雑音のように聞こえる。私は彼がドリンクを取りに行った隙に、震える手で二錠目を口に放り込んだ。水はもう要らなかった。自分の唾液と一緒に、その苦味を喉の奥へ押し込む。
二錠目が溶け出す。
脳の中の何かが「パチン」と弾ける音がした。
視界の彩度が異常に上がり、ホールの埃一つ一つが光の粒のように見える。
再びステージへ。
椅子に座った瞬間、私は自分の指が自分のものではないことを確信した。それは、鍵盤という獲物を引き裂くために進化した、冷徹で完璧な鋼のバネだった。
リストの『超絶技巧練習曲』。
荒れた指先が鍵盤に触れるたび、そこから火花が散るような錯覚に陥る。全盛期の自分ですら到達できなかった速度、打鍵の正確さ、そして、薬理作用が生み出した狂気じみた「熱」。
私は、自分が音楽を奏でているのではない。薬という燃料で、最高速度で回転し続ける「完璧な演奏機械」として、そこに存在していた。
鳴り止まない拍手と、背中に刺さるような熱狂の視線を振り切り、私は逃げるように舞台裏の控え室へと滑り込んだ。重厚な扉が閉まった瞬間、外界の喧騒は厚い絨毯に吸い込まれ、密やかな静寂が降りてくる。
私はドレッサーの椅子に、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
二錠の青い魔法がもたらした「全能感」が、潮が引くように脳から引いていく。代わりに押し寄せてきたのは、かつて経験したことのない、骨の芯まで軋むような重い疲労感だった。
指先が、熱い。
あかぎれの傷口に直接火を押し当てられたような激痛が、麻痺の解けた神経を逆なでする。
鏡の中の私は、ミッドナイトブルーのドレスを纏ったまま、死人のような顔で自分の手を見つめていた。
「……伊織さん!」
勢いよく扉が開き、多岐川さんが飛び込んできた。その顔は、私が今まで見たことがないほど高揚し、少年のように輝いている。
「凄かった。本当に……言葉にならない! 八年間のブランクどころか、君は一体どこまで進化していたんだ? 最後のリスト、あんな演奏は世界中探しても今の君にしかできない!」
多岐川さんは興奮を抑えきれない様子で、部屋の中を落ち着かなく歩き回った。 けれど、椅子に座り込んだまま動かない私の様子に、ふと足を止めた。
「……大丈夫か? 顔色がひどく悪い。やはり、あの難曲をあの精度で弾くのは、想像を絶するエネルギーを消耗するんだな」
多岐川さんの目は、純粋な驚きと心配に満ちていた。彼は今の私の衰弱を、天才が極限まで集中した後に訪れる「心地よい疲脱」だと信じて疑っていない。
「……すみません。少し、高ぶりが激しくて。指の先まで、まだ自分のものじゃないみたいなんです」
私は掠れた声で答え、震える手を隠すようにドレスの膝の上で握りしめた。嘘ではない。ただ、その「理由」が多岐川さんの想像とは正反対なだけだ。
「無理もない。君の今日の演奏には、聴く者を圧倒する凄みがあった。……わかった。会長たちには、君が全霊を込めた演奏の後に少し休んでいると伝えてくる。一時間、いや、落ち着くまでここで横になっていろ。皆、君の登場を首を長くして待っているが、今日の主役にはそれくらいの特権がある」
多岐川さんは「本当に素晴らしかったよ」ともう一度噛み締めるように言うと、満足げな足取りで部屋を出ていった。
カチリ、と扉が閉まる。
一人残された控え室で、私は暗い鏡を見つめた。
一時間。
この時間が過ぎれば、私は再び「奇跡の復活を遂げた天才」として、笑顔でシャンパングラスを持たなければならない。
薬の効果が消えていくにつれ、重力が増していくような倦怠感が全身を支配する。遠くで聞こえる食器の触れ合う音や、お母さんを任せてきた家への不安。それらすべてを飲み込んで、私はただ、一分一秒と刻まれる時計の音を、深い絶望とともに聞き続けていた。
一人残された控え室。
私はドレッサーの鏡に向き合い、深く、長く呼吸を繰り返した。指先の痛みは消えない。鉛のような倦怠感も、胃の奥にこびりつくような薬の苦味もそのままだ。けれど、耳の奥にはまだ、あの鳴り止まない拍手の残響が渦巻いている。
――凄かった。本当に……言葉にならない。
多岐川さんのあの顔。観客たちの、信じられないものを見たという畏怖の眼差し。それは、お母さんを支える「娘」としての私には、逆立ちしても手に入らないものだった。
恐怖はあった。けれど、それ以上に、震えるような快感が私の胸を支配していた。あの一瞬、私は間違いなく、世界を自分の指先一つで支配していたのだ。薬理作用が捏造した「完璧」だとしても、あの空間で放たれた音は、紛れもなく私自身のものとして喝采を浴びた。
「……戻らなきゃ」
私は震える手でパフを握り、青白く浮いた肌に丁寧にファンデーションを叩き込んだ。鏡の中の女が、少しずつ、血色の良い「希望に満ちたピアニスト」へと塗り替えられていく。
お母さんの期待に応えるため?それだけじゃない。私は、もう一度あの熱狂の中に身を浸したい。このミッドナイトブルーのドレスにふさわしい、最高に美しい嘘を演じ続けたいのだ。
荒れた指先に、再びヒルドイドを薄く塗り、その上からパウダーをはたいて誤魔化す。
痛みは、私が「生きて舞台に立った」という唯一の証拠に思えた。
一時間が経過した。
私は最後にもう一度、鏡の中の自分を冷徹に検分した。目は輝いている。表情に翳りはない。バッグの底に眠るピルケースを、お守りのように指先で一瞬だけなぞってから、私は立ち上がった。
まだ足元が少し浮いているような感覚を覚えながら、私は多岐川さんを促し、先に部屋を出た。重い扉を開け、光あふれるビュッフェ会場へと吸い込まれていく私の背中を、多岐川さんは少し驚いたように見送っていた。
その時。多岐川さんの足元に、銀色に光る小さな欠片が落ちた。それは、ハサミで正方形に切り取られたPTP包装の端切れだった。伊織が演奏前に、あるいはこの一時間の間に飲み下した「魔法」の残骸。多岐川さんはそれを何気なく拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。 「後で返せばいい。何かのサプリメントか、痛み止めだろう」
重厚な扉を開けると、先ほどよりもさらに華やかさを増した、シャンパングラスの触れ合う音が私を歓迎した。
「お待たせしました」
私は、自分でも驚くほど滑らかな声でそう言い、光に満ちたビュッフェ会場へと足を踏み出した。背筋を伸ばし、顎を引く。 今の私は、介護に疲れ果てた蔦原伊織ではない。人々の称賛という麻薬を喰らいにいく、一人のピアニストだった。
その後のレセプションは、まさに夢のような時間だった。後援会長の称賛、批評家たちの期待を込めた握手。多岐川さんは大成功の余韻に酔いしれ、伊織を自宅まで送り届ける車内でも、今後の輝かしいスケジュールの話に終始した。
拾った薬のことなど、彼の頭からはすっかり抜け落ちていた。多岐川さんの車が走り去る音を聞きながら、私は這うようにして玄関の鍵を開けた。家の中は、レセプション会場のシャンパンの香りとは無縁の、湿った消毒液と微かな排泄物の匂いが混じった「日常」が停滞していた。
家政婦さんに礼を言い、送り出す。扉が閉まった瞬間、私は壁に背を預けてずるずると崩れ落ちそうになった。薬の切れ際の離脱症状は、容赦なく私の肉体を内側から削っていく。吐き気と、頭を直接金槌で叩かれているような鈍痛。 けれど、休むことは許されない。
「……伊織? おかえりなさい。ドレス、素敵ね」
寝室から、お母さんの微かな声がした。
私は震える足に力を込め、笑顔の仮面をもう一度だけ貼り付けた。重いミッドナイトブルーのドレスを脱ぎ捨てる余裕もなく、その上にエプロンを羽織って、私はお母さんの寝床へ向かう。
おむつの交換、寝返りの介助、それから乾いた喉を潤すための水。あかぎれの指先が、お母さんの肌に触れるたびに鋭く痛む。つい一時間前まで、この指で世界を圧倒するリストを奏でていたなんて、悪い冗談にしか思えなかった。
お母さんは私の指先の痛みに気づくこともなく、「リサイタルでは伊織がそのドレスを着て出てくるところを客席から見てるわね。」と、満足そうに微笑んで眠りについた。
ようやくすべての世話を終えた時、時計の針は深夜二時を回っていた。私はドレスを脱ぎ散らかしたまま、リビングのソファに倒れ込んだ。メイクを落とす気力も、指を洗う気力もない。
脳が痺れている。全身の細胞が、泥に変わっていくような感覚。
私は意識が遠のく中ただ、泥のような眠りに落ちる寸前、私の耳の奥には、拍手喝采ではなく、あの歪んだ音律が子守唄のように響いていた。
数日後。 多岐川は自分のジャケットを整理している時に、その銀色の欠片を再び見つけた。PTPの裏側には、見たこともない複雑な製品コードと、奇妙なロゴが印字されていた。 多岐川は軽い好奇心で、そのコードを検索エンジンに打ち込んだ。
「……出ないな。国内の薬品じゃないのか」
一時間、二時間。検索を重ねるうちに、彼はある海外の、パスワード保護された怪しげなフォーラムへと辿り着いた。
そこには、信じられないような記述が並んでいた。
『神経伝達を極限までブーストする。副作用の報告なし。一錠、約三百五十ドル。』
「一錠、五万円……? 副作用がない?」
多岐川は鼻で笑った。
そんな魔法のような薬があるはずがない。高価な海外製のプラセボ(気休め)か、あるいは富裕層向けの特殊なサプリメントの類だろう。
「まあ、彼女ほどの完璧主義者だ。高価な精神安定剤を御守りにしているとしても、不思議じゃない。あんな素晴らしい音が出るなら、プラセボとしての効果は十分すぎるくらいだ」
多岐川は、それを深く追及することを止めた。プロデューサーとして、彼女の「最高のパフォーマンス」が維持されるなら、多少の贅沢な御守りはむしろ歓迎すべきだとさえ思った。
数日後の打ち合わせの際、多岐川はそれを何気なく伊織に差し出した。
「これ、あの日の控え室に落ちていたよ。随分と高価な御守りを使っているんだね。……落とし物には気をつけて下さい」
返された銀色の欠片を、伊織は血の気が引くような顔で見つめた。けれど多岐川は、それ以上何も言わずに微笑んでいた。 彼が「それほど問題視していない」という事実。それが、伊織の罪悪感を麻痺させて行く。




