第2章:指先の亡霊
嵐が過ぎ去った後のような静寂の中で、私は洗面所の棚から、使い古された「ヒルドイド」のチューブを絞り出した。おしゃれな香りのするハンドクリームなんて、今の私の手には贅沢すぎるし、何より効きが悪い。節くれ立った指の関節、洗剤で白く粉を吹いた手の甲に、べっとりと軟膏を塗り込む。
今年で三十一歳。同年代のピアニストたちが世界を股にかけ、もっとも華やかな舞台に立っているであろう時期に、私は脂の膜で自分の手をコーティングして、今日一日の「介護者」としての汚れを誤魔化している。これだけが、私を私として繋ぎ止めてくれる唯一の、ささやかな回復の時間だった。
スマートフォンの画面を点ける。
最初は、ただ手荒れを治すための、もっと強力な薬を探していただけだった。
『ピアニスト 指 再生』
『手荒れ 即効性 ステロイド』
けれど、検索の渦は次第に、今の現実から逃避するように深い場所へと潜っていく。気づけば私は、もう二度と戻れないはずの「あっち側」を、無意識にクリックし続けていた。 八年前。二十三歳のあの凱旋リサイタル。あの日を境に、私の時計は止まったままなのだ。
広告のバナー、SNSの噂話、怪しげな健康食品のサイト。 いくつものページを読み流していくうちに、一つのサイトが目に留まった。 デザインは簡素で、どこか古臭い。けれど、そこにあるキャッチコピーが、私の指先を止めた。
『――失われた十年間、取り戻したくはありませんか?』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 ページをスクロールすると、そこには濁った青色の錠剤の写真。
『十分間のフローラル――脳の回路を一時的に全盛期へと巻き戻す、音楽家のためのサプリメント』
「......馬鹿馬鹿しい」
私は吐き捨てるように呟いた。
こんなの、ただの詐欺だ。弱った心の隙間につけ込む、質の悪い冗談。服用してからたった十分間だけ、全盛期の演奏技術を再現できるなんて。もしそんなものがあるなら、私は今、こんな場所で生ゴミの匂いに怯えてはいない。
私は逃げるようにブラウザを閉じた。
スマートフォンの画面が消え、暗転し軟膏でくぐもったガラスの中に、軟膏でテカテカ光る指と、疲れ切った三十一歳の女の顔が映る。
けれど、一度網膜に焼き付いた「十分間」という言葉は、消したはずの光のように、瞼の裏でいつまでも明滅し続けていた。
ーーブーブーブー。
軟膏で脂じんだスマホが、静寂を切り裂くように震えた。
画面に表示されたのは、もう何年も履歴になかった名前。 『多岐川 詠一』 かつて、私の「後援会」の事務局長を務めていた男だ。
私は一瞬、息を止める。
後援会......。
今の私からは、一番遠い場所にある言葉。
二十三歳で引退同然の状態になってから、多岐川さんとは不義理を重ねてきた。活動を休止し、母の介護に専念すると告げた時、彼は「もったいない」とだけ言い、それきり連絡は途絶えていたはずだった。
迷った末に、私はベタついた指で慎重にスライドした。
「......もしもし、多岐川さん?」
『やあ、伊織さん。こんな時間に、失礼かな』
耳に届く声は、八年前と変わらず、滑らかで温かみがある。けれど、その奥に潜む冷徹な計算高さも、私は忘れていなかった。
『お母様の具合はどうだい。大変な時期に連絡してしまって、申し訳ないと思っているんだが……』
「ええ、まあ、落ち着いています。夜は寝ていますから」
『それはよかった。実はね、君の熱烈なファンだった方々が、今でも君のカムバックを待ち望んでいてね。特に、地元の有力者たちが「蔦原伊織の音をもう一度聴きたい」と言い出しているんだ。どうかな、そろそろ復帰のリサイタルを考えてみないか?』
復帰のリサイタル
その言葉が、さっきのサイトの「失われた十年間」というコピーと、私の脳内で重なり合う。
「多岐川さん、私はもう八年も……」
『わかっているよ。もちろん、いきなり全盛期の演奏をしろとは言わない。お母様の介護をしながらでも準備できるような、小規模なサロンコンサートからでいいんだ。場所もこちらで調整する。どうだい?』
優しい提案。けれど、それは私にとって、自分の指が動かないことを突きつけられる残酷な宣告でもあった。
「……少し、考えさせてください」
『ああ、返事は急がない。でもね、伊織さん。世界は君を忘れていない。それだけは覚えておいてほしい』
通話が切れた後の静寂は、さっきよりもずっと重苦しかった。 私は、脂でベタつく手を見つめる。
復帰?
この手で?
多岐川さんの甘い声が、さっき閉じたはずの「十分間のフローラル」の不気味な青い錠剤と、一つの線で繋がったような気がした。
多岐川さんの「世界は君を忘れていない」 という言葉が、耳の奥で残響のように震えている。
世界、リサイタル、カムバック……。
それらの輝かしい単語は、今の私の部屋の空気にはあまりに不釣り合いで、まるで浮遊する塵のように頼りなかった。
「……リサイタル、なんて」
自嘲気味に呟き、脂のついた指でスマホをテーブルに置こうとした、その時だった。
――ガタッ。
廊下の先、母の寝室から、何かが倒れるような鈍い音が響いた。
心臓がドクリと跳ねる。
多岐川さんの声も、青い錠剤の残像も、一瞬で思考の彼方へ吹き飛んだ。
私はヒルドイドのチューブを握りしめたまま、音のする方へと駆け出した。
「お母さん? 起きてるの?」
暗い廊下を進み、半開きになった母の部屋のドアを押し開ける。
そこには、カーテンの隙間から差し込む街灯のわずかな光の中で、四つん這いになって床をまさぐっている母の背中があった。
「お母さん、何してるの! 転んだの?」
「……ないの。ないのよ、伊織。どこへやったの」
母の声は、昼間のパニックとは違い、ひどく静かで、執拗だった。
近づいてみると、母は箪笥の一番下の引き出しをすべて引き出し、中に入っていた古い楽譜や書類を床にぶちまけていた。
「何を、何を探してるの」
「譜めくりよ。あの子が……伊織が、明日コンクールで弾く曲の、大事なページが足りないの。私が持ってなきゃいけないのに。どこへ隠したの!」
母の指先は、埃にまみれた紙束をめちゃくちゃにかき乱している。その光景を見て、私は息が詰まった。
多岐川さんが言った「世界」には、もう母の席はない。母が今も必死に守ろうとしているのは、八年前、いや、もっと前の、私がまだ「母の操り人形」として完璧だった頃の残像なのだ。
「お母さん、もういいから。楽譜ならここにあるよ。ほら、立ち上がって」
私は母の脇に手を入れて支えようとした。
けれど、母は「触らないで!」と、私の手を激しく振り払った。 その拍子に、私の手に塗りたくったばかりのヒルドイドの脂が、母のパジャマの袖にべっとりと付着した。
白く光る軟膏の跡。
それを見つめた瞬間、私は言いようのない吐き気に襲われた。
私は、母を救おうとしているのか。それとも、この脂ぎった手で、母の思い出さえも汚し続けているのか。
床に散らばった楽譜の文字が、暗闇の中で嘲笑っているように見えた。
床に散らばった古い楽譜を、私は一枚ずつ拾い集める。
幸い、我が家には「今すぐ働きに出なければならない」という切迫した貧しさはなかった。父が遺した蓄えと、かつての私の演奏が細々と生み出す著作権印税。それらが、この古びた、けれど堅牢な家と、私たちの最低限の生活を守っている。
けれど、その「余裕」こそが私を追い詰めていた。
外に出て誰かと言葉を交わす必要もない。
ただ、この静かな監獄で、壊れていく母のパーツを一つずつ拾い集め、元の場所に戻すだけの毎日。
「……お母さん、もういいから。楽譜は全部、私が預かっておくわ」
母は床に座り込んだまま、呆然と私の手元を見つめている。
「伊織、明日、間に合うの? 先生に怒られない?」
「大丈夫。全部、完璧に弾けるから。だから、もう寝よう」
嘘をつくことには、もう慣れてしまった。
母を寝室へ促し、ようやくリビングに戻った時、私は多岐川さんとの電話で乱れた心を鎮めるように、ソファに深く沈み込んだ。
ふと、テーブルの上のスマートフォンが目に入る。
あの「怪しい薬」を買う必要なんてない。
けれど。
私の指先は、また無意識にスマホを手に取っていた。
多岐川さんの言った「世界」。
かつてのファンが待っているという、嘘か真かわからない言葉。
私は、自分が何を求めているのかを自覚して、背筋が寒くなった。私が欲しいのは、生活費でも、豪華な食事でもない。
あの500円玉と引き換えに捨て去った、私が私であった時間の「続き」だ。
私は、さっき閉じたはずのブラウザをもう一度開いた。
履歴の最上部にある、あの濁った青色の錠剤が写ったページを、吸い寄せられるようにタップする。
――『十分間のフローラル』。
価格は、驚くほど高額だった。
けれど、「死んだ貯蓄」を使えば、痛くも痒くもない金額だ。
「……馬鹿げてる」
指が震える。
詐欺に決まっている。
けれど、もし。もしも本当に、この十年間を「十分間」だけでも取り戻せるのだとしたら。そんなことを思いながら眠りについた。
結局、あの夜の冷え込みが最後の一押しになった。
母の排泄物の処理、床に這いつくばっての楽譜拾い、そして多岐川さんからの電話……。張り詰めていた糸が、プツンと切れたのだ。
私はスマートフォンの購入画面、あの『十分間のフローラル』の注文ボタンに指をかけたまま、意識を失うように深い眠りへと落ちてしまった。
翌朝、私はひどい悪寒と関節の痛みで起き上がることができなかった。
このままでは共倒れになる。私は震える手でケアマネジャーに連絡し、母を二泊三日のショートステイに送り出すことにした。
「伊織、譜めくりは持ったわよ。先生に怒られないように、しっかり準備しておくから」
母は、大切そうにあの「古ぼけた楽譜」を抱え、迎えの車に乗り込んでいった。
母を見送った後、私はそのまま玄関に崩れ落ち、這うようにして寝室のベッドへ潜り込んだ。
ーーピンポーン。ピンポーン。
どれくらい眠っていたのだろう。
玄関のチャイムが遠くで鳴り、何度目かでようやく、それが現実の音だと気づいた。重たい体を引きずってドアを開けると、そこには驚いた顔の多岐川さんが立っていた。
「……伊織さん。電話に出ないから、様子を見に来たんだが」
「あ、すみません……。少し、風邪を引いたみたいで」
彼は伊織の青白い顔と、荒れた室内を一目見るなり、リサイタルの話なんて微塵も出せずにいた。
「いいから、寝ていなさい。何か入り用なものを買ってくる」
断る気力もなかった。
再び意識が混濁する中、台所から小さく野菜を刻む音が聞こえてくる。多岐川さんはポカリスエットやゼリー、プリンを冷蔵庫に詰め、手際よく粥を炊いてくれた。
私が次に目を覚ました時、枕元には一枚のメモが残されていた。
『粥は鍋に入っています。温めて食べてください。何かあればすぐ連絡を。多岐川』
多岐川さんは、私が完全に目を覚ます前に家を出ていた。 帰り道、彼は車のハンドルを握りながら、玄関先で見た伊織の指を思い出していた。
かつて鍵盤の上で魔法を紡ぎ、未来を約束されていたあの十本の指。
それが今はカサカサに荒れ、節張り、生活の垢にまみれている。
「……私は、なんて残酷なことを」
あのボロボロの手をした彼女に、また舞台に立てと言った自分の身勝手さが、多岐川の胸を深く突き刺した。母のために自分を削り続けている彼女を、さらに「ピアニスト」という重荷で追い詰めようとしたことを、彼は激しく後悔していた。
一方、静まり返った寝室で、伊織は多岐川が作ってくれた粥を一口、啜った。熱い粥が喉を通るたび、凍りついていた心が少しだけ解けていくような気がした。
枕元に置かれたままのスマートフォン。画面には、まだあの『十分間のフローラル』の注文確認画面が、暗闇の中で白く光っている。
翌日、熱は嘘のように引いていた。私は多岐川さんにお礼の電話を入れた。彼は昨日と変わらない穏やかな声で私の体調を労わり、リサイタルの話には一言も触れなかった。
「今度、お母様の様子を伺いに、改めて寄らせてもらうよ」
そう言って電話は切れた。
母がいない家は、驚くほど静かだった。 この「空白」を埋めるように、私は溜まっていた雑事を片付けることに決めた。 「地域徘徊SOSネットワークの登録」と「GPS端末の助成申請」最近徘徊の兆候が見られるための「見守りシール」の受け取り。あの焦げ茶色のリビングから抜け出し、私は最寄りの役所へと向かった。
番号札を持って、無機質な長椅子に座る。
周囲には、杖をついた老人や、疲れ切った顔で書類を書く同年代の男女。ここには、私がかつていた「スポットライトの下」とは真逆の、色を失った現実が沈殿している。
「――伊織さん。蔦原伊織さんじゃないの?」
不意に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
車椅子を押す若い女性と、そこに座る小柄な老婦人。
「……佐伯先生?」 声が震えた。
佐伯美智子。私が音大に入るまで、文字通り私の指を一から鍛え上げてくれた、最初の恩師だ。
かつては毅然とした、厳しい先生だった彼女も、今は車椅子に身を預け、穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような目をしていた。
「まあ、やっぱり伊織さんね。娘が、あなたに似た人がいるって言ったのよ」
先生の娘さんが、会釈をする。
私たちは、役所の冷たい空気の中で、短く言葉を交わした。先生もまた、足腰を悪くしてから、最近は教え子を取ることもなく、静かに暮らしているという。
「あなたの演奏、ずっと気にかけていたのよ。でも、今は……」
先生の視線が、私の手に落ちた。ヒルドイドで保護されてはいるが、節の太くなった、かつての「ピアニスト」の面影を失った私の手。
「……はい。今は、母の介護をしています」
「そう。大変ね。でも、あなたの音は、私の耳に残っているわ」
その言葉が、熱を帯びて私の胸を突いた。私は、自分が情けなくて、それでいて無性に誰かと音楽の話をしたくなった。
「先生。また、日を改めて……一度、お宅に伺ってもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、素直な言葉が口を突いて出た。
先生は小さく頷き、優しい微笑みを浮かべた。
役所を出ると、冬の乾いた風が吹き抜けた。手元には、手続きの書類。けれど、ポケットの中のスマートフォンには、まだあの「注文画面」が残ったままだ。
多岐川さんの粥、恩師との再会。
それらが、伊織の中で静かに、けれど確実に何かの導火線に火をつけていた。
数日後、ショートステイから戻った母は、多岐川さんの訪問を受けることになった。
母は、多岐川さんの姿を見るなり、どこからか引っ張り出してきた小綺麗なカーディガンを羽織り、「あら、多岐川さん。今日はまたどういった御用向き」と、かつての「ピアニストの母」としての顔を取り繕った。
だが、その直後、母は私の顔を見て、平然と言い放ったのだ。
「桜井さん、お客様にお茶を。あと、あの子……伊織は今、練習で手が離せないから、後で呼んできてちょうだい」
心臓を冷たいナイフで撫でられたような感覚。
多岐川さんは絶句し、私と母の顔を交互に見た。私は黙って頭を下げ、キッチンへ向かった。
リビングからは、母の饒舌な声が聞こえてくる。
「あの子の才能は、私が一番よくわかっています。先生方にもいつも申し上げているんです。伊織の指は、神様からの預かりものだって。ねえ、そうでしょう?」
家政婦としてお茶を運ぶ私を、母は一度も「娘」として見ようとはしなかった。
多岐川さんは、いたたまれない表情で私を見つめ、意を決したように母に向かって切り出した。
「奥様。実は、伊織さんの復帰リサイタルのお話を……」
「リサイタル? まあ、素敵ね。桜井さん、聞いた? あの方に伝えてちょうだい。しっかり練習しないと、世界に笑われるわよって」
母の中で、話が歪んで混ざり合っていく。目の前にいる私を無視して、空想の中の「最高傑作」にリサイタルを命じているのだ。
多岐川さんは、帰り際に玄関で私の腕を掴んだ。
「……伊織さん。こんな状態だとは、思わなかった。すまない」
「いいんです。いつものことですから」
「リサイタルの話、もう一度……」
「……もう少しだけ、考えさせてください」
多岐川さんを送り出した後、私は以前から予約していた家政婦さんに二時間の留守を頼み、逃げるように家を出た。向かった先は、恩師・佐伯先生の自宅だった。かつて通い詰めた懐かしいレッスン室で、車椅子の先生は私を待っていた。
「伊織さん。あなたのお母様ね、あんなに厳しかったけれど、影ではいつもあなたのことを『自慢の娘』だって、それこそ手前味噌が過ぎるくらいにベタ褒めしていたのよ」
先生の言葉に、私は耳を疑った。
「母が、私を……?」
「ええ。『あの子の音には、私にはない光がある』って。私の前でだけは、そう言って目を細めていたわ」
家政婦だと思い込まれ、虐げられている今。それなのに、過去の母は、誰よりも私の才能を信じ、それを周囲に吹聴していたという。
愛と呪いが、同じ形をして私の目の前に積み上がっている。 先生の家を辞し、夕暮れの街を歩きながら、私は震える手でスマートフォンを取り出した。
注文画面は、まだ開いたままだ。
家政婦として蔑まれる「今」の私と、母が誇っていた「過去」の私。その間にある深い溝を埋めるには、もう、自分の力だけでは足りない。
私は、脂で曇った画面の、あの青い錠剤を、ついにタップした。
注文ボタンを押した数日後、それは何の変哲もない茶色の小箱に入って届いた。品名欄には『サプリメント』とだけ記されている。
私は、お母さんを家政婦だと思い込んでいる母の目を盗み、それを自分の部屋の、一番奥にある楽譜立ての裏に隠した。 使うかどうかはわからない。あんな胡散臭い青いタブレット一つで、指が戻るなんて信じているわけでもない。
けれど、クローゼットの暗がりに「それ」があるという事実だけで、不思議と私の心は軽くなった。母にどれほど冷たくあしらわれても、「私にはまだ、奥の手がある」という歪んだ余裕が生まれたのだ。
私は、あの「怪物」――グランドピアノの蓋を開ける決心をした。まずは、八年の眠りについた音を呼び覚まさなければならない。馴染みの老調律師に電話を入れたが、返ってきたのは心許ない返事だった。
「伊織さん、申し訳ない。今、コンクールシーズンで手が離せなくてね。急ぎなら、腕のいい若手を寄越すが……」
「いいえ。……待ちます。先生じゃなきゃ、嫌なんです」
予約は一ヶ月先。その一ヶ月間、私はこれまで通りの日々を過ごした。
母の食事を作り、身体を拭き、時折訪れる「徘徊」や「家政婦扱い」を、淡々と受け流す。
「家政婦さん、掃除が甘いわよ。あの子が埃で咳き込んだらどうするの」
「はい、奥様。すぐにやり直します」
母の言葉を否定せず、演じるように日々をこなす。 その合間に、私はこっそりとピアノの前に座り、音の出ない鍵盤で指の形だけをなぞった。
指先はまだカサカサで、節が張り、思うようには動かない。 けれど、夜、一人きりになった時にあの楽譜立ての裏を確認すれば、あの青い光が暗闇の中で自分を呼んでいるような錯覚に陥る。それは希望というにはあまりに濁った、毒のような安らぎだった。
調律の日が近づくにつれ、私は自分でも気づかないうちに、その「毒」に精神を侵食され始めていた。
一ヶ月という猶予は、私に「準備」をさせるための時間ではなく、その薬への抵抗感を少しずつ削り取っていくための時間だったのかもしれない。
約束の一ヶ月が過ぎ、老調律師の手によって、あの「怪物」は再び息を吹き返した。
狂っていた音程は正され、埃を被っていた弦は、西日を浴びて鋭い銀色の光を放っている。
調律師を送り出した後のリビングで、私はスマートフォンのスピーカーから、自分の曲を流した。八年前、まだ指に魔法が宿っていた頃の録音。
ラヴェルの『夜のガスパール』より、「スカルボ」。
闇の中で嘲笑い、変幻自在に跳ね回る悪魔の音。
剃刀のような鋭さで刻まれる同音連打と、鍵盤の端から端までを瞬時に駆け抜けるアルペジオ。完璧に整えられたばかりのピアノの弦が、その超絶的な技巧の残像に共鳴し、部屋の空気をピリピリと震わせる。
「……あら」
寝室にいたはずの母が、導かれるようにリビングに現れた。 その瞳は、いつになく輝いている。母はピアノの傍らに立ち、うっとりと目を細めてスピーカーから流れる「私」の音を聴いていた。
「桜井さん。聴きなさい、あの子の演奏を。今日も最高ね、そう思わない?」
母は、目の前のスマートフォンから音が出ていることすら気づいていない。まるで、どこか目に見えない場所で、今まさに「本物の伊織」が弾いているのだと思い込んでいるようだった。 私は、スマホを握る指先に、知らず知らずのうちに力がこもる。その指先は、今も軟膏の脂でわずかに滑り、節が張ったままだ。
「……はい。そうですね」
私は、感情を殺した家政婦の声を出す。
「私は音楽のことなんて、あまり詳しくありませんけれど。でも、……とても素敵な音色ですね。お母様が自慢なさるのも分かります」
「ふふ、そうでしょう。あの子は私の誇りなのよ」
母は満足げにピアノの蓋を撫でた。
録音の中の「私」は、かつての母が望んだ通り、完璧な余韻を残して曲を終える。静寂が戻った部屋で、母は鼻歌を歌いながらキッチンへ消えていった。
残された私は、完璧に調律されたピアノの前に座った。 試しに一音、鍵盤を叩いてみる。
――ポーン。
機械のように正確で、冷たい音。
今の私の指では、このピアノが持つ本来の輝きを、一分の一も引き出すことができない。スピーカーから流れていたあの「私」と、鍵盤に触れている「私」の絶望的な距離。私は無意識に、楽譜立ての裏へと手を伸ばしていた。
指先が、あの茶色の小箱の角に触れる。
「……お母さん」
家政婦としてではなく、娘としての声で、私は小さく呟いた。 お母さんが誇っている「あの子」を、もう一度だけ、ここに呼んであげようか。
たとえそれが、十分間だけの、毒で作られた幻だとしても。




