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第1章:影

 窓を閉め切ったリビングには、古くなった楽譜の紙の匂いと、母の飲んでいる薬の苦い匂いが、逃げ場を失ってこびりついている。その湿った匂いが、グランドピアノの上に降り積もる埃を、重たい焦げ茶色に変色させていた。


 介護に明け暮れ、自分の指がピアニストであったことを忘れていたある日の夕暮れ。ふとした瞬間に、部屋の隅にある「黒い塊」が、まるで意志を持った生き物のように視界に飛び込んできた。


 母の排泄物を処理し、重たい腰を上げた瞬間だった。西日の残滓が、黒い大鎌のようなピアノの脚を不意に照らし出す。辞めてから一度も直視してこなかったその楽器と、数年ぶりに目が合った。それは楽器というより、自分の一部を食い殺して肥大化した、艶やかな怪物に見えた。


 かつての拍手が、耳鳴りのように一瞬だけ鳴り、指先が、八年前の「蔦原 伊織凱旋リサイタル」と銘打ったステージのライトの熱を思い出す。


「ふぅ」


 と、細い息を吐きキッチンを抜けてゴミ箱にゴミを片付ける。

 ゴミ箱の蓋が、カタンと乾いた音を立てて閉まる。 手に残った生ゴミの感触と、鼻を抜ける腐敗の匂い。それが、今の私の全人格だ。逃げるようにキッチンへ戻ってきたのは、あの「怪物」の視線から逃れるためだけではない。あのピアノと目を合わせることは、八年前の凱旋リサイタルの楽屋で、鏡の中の自分を直視できなかったあの日の何かが壊れ始めた予感を思い出すことと同義だったからだ。


 あの日の母は、すでに少しずつ変わり始めていた。リサイタルの幕が上がる直前、舞台袖で私のドレスの裾を直しながら、ふと、見たことのない幼い子供を見るような顔で笑ったのだ。


「伊織、今日の『花の歌』は、上手に弾けるかしら」


 私は、背筋に氷を流し込まれたような寒気を感じた。今日のプログラムに、そんな子供の練習曲など入っていない。私が今から弾くのは、指の骨が折れるような超絶技巧の現代曲だ。


「お母さん、何言ってるの。集中させて」


 突き放すように言った私を、母はひどく悲しそうな、それでいて他人を見るような目で見つめた。 あの瞬間、母の中の「指導者」という歯車が外れ、代わりに、私が一番欲しくて、一番憎んでいた「母親」という生き物が、霧の向こうから顔を出したのだ。


 台所の蛇口をひねり、冷水で手を洗う。 指先の感覚を麻痺させたい。でも、洗えば洗うほど、皮膚の奥に潜んだ「二十三歳の伊織」が疼きだす。

 その時だった。 背後のリビングから、ありえないが響いた。

 ――ギィィ。


と、重たい木の軋む音。

 心臓が跳ねた。あのピアノの蓋は、積もった埃の重みで、もう二度と開かないはずだった。 私は濡れた手のまま、リビングへと引き返した。


 西日に焼かれた焦げ茶色の空気の中で、母が佇んでいた。 徘徊する時の心許ない足取りではない。まるで吸い寄せられるように、母はピアノの前に吸い付いていた。 その白く、透き通るほど細い指が、鍵盤の上に置かれる。 「お母さん、やめて。埃が舞うから」  止める声は、喉の奥で震えて消えた。母は私の言葉など聞こえていない。ただ、愛おしい我が子に触れるような手つきで、鍵盤を愛撫している。


 そして、――ポロン。


 それは、調律の狂った、ひどく頼りない音だった。 けれど、その響きの中に、私は確かにあの「放課後の夕光」を見た。 母が、一音、また一音と、たどたどしく音を紡いでいく。


 ランゲ、『花の歌』。


 厳格な師として私を縛り上げた母が、たった一度だけ、私の「音」そのものを抱きしめてくれた、あの呪いのような愛の曲。

 母の指が、最初のフレーズの終わりで止まった。

 記憶の糸が切れたのか、それとも、現実の指が過去の速度に追いつかないのか。 母は、困ったように自分の指を見つめ、それからゆっくりと私の方を振り返った。


「……伊織、今のパッセージの終わり際、あの余韻の作り方は見事だったわ。音が消える瞬間に、あんなに豊かな沈黙を残せるなんて。さすが、私の娘ね。あなたならできると思っていわ」


 その瞳に、一瞬だけ。私の知る「母」が宿った。私の胸を、言葉にならない熱い塊が突き上げる。


「お母さん。ありがとう、伊織頑張ってよかった」


 引きった笑顔でそう答えた瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなった。母の瞳に宿った一瞬の光は、まるで雲間から差し込んだ細い陽光のように、私の足元に広がる深い闇をあぶり出す。

 微笑んで見せた、すぐ後。私の視界には急激な「かげり」が突き刺さった。

 伊織は見つめる。自分の洗い立ての、ひどく冷えた指先を。 そこにあるのは、世界を魅了したピアニスト「蔦原伊織」の指ではない。 食事を作り、母の汚れ物を洗い、強い洗剤で皮が剥け、爪の形すら変わってしまった「名もなき介護者」の、節くれ立った手だ。


(お母さん、違う。今の私は、あなたが誇った娘じゃない。

 あなたが「できる」と信じてくれたその続きを、今の私は、一音たりとも鳴らすことができない)


 母は満足そうに目を細め、またピアノの鍵盤へと視線を戻した。続きを弾こうとしているのではない。ただ、自分が作り上げた「最高傑作」である娘が、そこにいることを確認しただけなのだ。ピアノの上に積もった焦げ茶色の埃が、私の吐息でわずかに震える。母が褒めてくれた「余韻」の続きは、本来なら、花の蕾がほころぶような、瑞々しくも力強い旋律へと繋がるはずだった。けれど、今のこの部屋に流れているのは、窓を開け忘れた部屋の、死んだような沈黙だけだ。


 「……ねえ、伊織。弾いてみて。あそこの、あなたの得意なところ」


 無邪気な、残酷な催促。


 冷え切った指先を隠すように、エプロンのポケットを強く握りしめ、私は逃げるように、また台所へと戻った。背後で、母がまた「ポロン」と、正解のない音を鳴らす。その一音が、胸の奥に刺さったままの「蔦原伊織凱旋リサイタル」の破片を、さらに深く、深く押し込めていった。


 キッチンのステンレスの冷たさが、手のひらを通して心臓まで伝わってくる。私は蛇口をきつく締め、滴る水の音を無理やり遮断した。


それでも、リビングから漏れ聞こえてくる「ポロン」という、あの迷子のような音だけは消し去ることができない。


(お母さん あんなに厳しかったあなたが、なぜ今さら、一番優しかった頃の記憶だけを取り出して私にぶつけるの)


 目を閉じると、焦げ茶色のリビングの匂いが、いつの間にか「あの頃の防音室」の匂いにすり替わる。窓のない、空気の循環が悪い、あの密室。夏の午後ピアノの練習のために一歩も外に出してもらえなかった私の隣で、母はいつも氷のように冷たい視線を私の指先に突き立てていた。


「伊織、今のエー(ミ)の音、指が寝ていたわよ」

「そんな濁った音で、誰が感動すると思っているの!」


 褒められたことなんて、あの日の一度きりだった。


 それなのに、今の母が覚えているのは、何万回と繰り返した罵倒ではなく、あの『花の歌』を弾いた後の、嘘みたいな、奇跡のような「余韻」の記憶。皮肉なものだ。母は私の輝かしいキャリアを忘れた。私が世界中のコンクールで勝ち取ったトロフィーも、凱旋リサイタルのスタンディングオベーションも。


 今の母が欲しているのは、私が「世界」に羽ばたく前の、ただの「あなたの娘」だった頃の音なのだ。


 私は、震える手を自分のエプロンで何度も拭った。 洗剤で荒れ、節の太くなったこの手。 もし今、私がピアノの前に座ってあの続きを弾いたなら、母はきっと悲鳴をあげるだろう。


「こんなのは私の娘じゃない」と。


 背後のリビングから、また一音。さっきよりも弱々しく、かすれた音が響く。それは、母の命の灯火が少しずつ、でも確実に、この埃っぽい空気の中に溶けて消えていこうとしている合図のように聞こえた。


「伊織ちゃん。伊織ちゃんも一緒に土曜日の昼からやってる。バザー行こうよ」


「千穂ちゃんと典ちゃんも一緒に行くんだ〜」


「うん」


「じゃあ、帰ったら集合ね」


 サキちゃんたちの弾むような声が、放課後の廊下に響く。私はポケットの中の五百円玉をそっと指先でなぞり、小さく頷いた。 けれど、家の玄関を開けた瞬間、その期待は焦げ茶色の沈黙に飲み込まれた。


「お母さん、今日。サキち……」


「伊織、レッスンよ」


 私の言葉が最後まで届くことはなかった。母は私の方を一度も見ず、楽譜を開いたまま、機械的にそう告げた。


「……は、ぃ」


 靴を脱ぐ音さえ、罪悪感のように響く。私は逃げ場を失ったまま、あの窓のない防音室へと吸い込まれていった。    一時間。 メトロノームの無機質な刻みが、外の世界との繋がりを一つずつ断ち切っていく。


 サキちゃんたちは今頃、校門をくぐっているだろうか。あの五百円玉は、今はピアノの端、譜面台の影で、冷たく、所在なげに転がっている。


「伊織、集中して。今のフレーズ、音が浮いているわよ」


 譜面台の向こうから、母の冷徹な声が降ってくる。


 私は、サキちゃんとの約束を思い出していた。一緒にバザーで可愛いキーホルダーを探そうって、一週間も前から約束していたのに。 今頃みんなは、校庭の隅でプラスチックのパックに入った熱々の焼きそばやかき氷を食べて、可愛いキーホルダーを見つけているんだろう。 汗をかいたコーラの瓶を、首筋に当てて笑っているんだろう。


 私の指は、ベートーヴェンの重たい和音を刻んでいる。 五百円で買える幸せよりも、何百万円もするグランドピアノの上で、たった一つの音の「正解」を求められる毎日。


「……お母さん、ちょっとだけ。三十分だけでいいから、学校に行っちゃダメかな」


 勇気を振り絞って出した声は、自分でも驚くほど震えていた。  母は、ゆっくりとメトロノームを止めた。カチ、カチ、という音が消え、代わりに外から子供たちの歓声が遠く響く。 母は怒鳴らなかった。ただ、私の指先を、壊れた楽器を見るような、ひどく冷淡な目で見つめてこう言ったのだ。


「そんなに焼きそばが食べたいなら、ピアニストなんてやめなさい。あっち側の人間として、一生、安い幸福を噛みしめて生きていけばいいわ」


 その瞬間、私の中で何かが、プツンと音を立てて千切れた。


 母にとって、校庭の賑わいは「安い幸福」でしかなく、そこにいる人々は「あっち側」の、価値のない存在だった。 結局、私はその日、五百円玉をピアノの脇に置いたまま、日が暮れるまで『花の歌』を弾き続けた。 指先は私の汗でじっとりと濡れ、ポツンと置かれた500円玉は心を置いてきぼりにキラキラと光っていた。


 突然、ガタガタガタンーー


 と、キッチンの伊織の耳に鳴り響く。母は玄関へ向かおうとして、力なくその場に崩れ落ちていた。膝をつき、焦げ茶色の絨毯の上で、まるで祈るように両手を合わせる。 その手にはいつの間にか握りしめていたテレビのリモコンがあった。それを耳に当てて、誰かと話をしている。


「……ごめんなさい、先生……今日は……今日だけは、あの子が焼きそばを食べたいなんて言うから……」


嗚咽おえつとも溜息ともつかない、湿った音が母の喉から漏れる。それは、母を縛り続けてきた「狂気」の、最後の燃えカスのようだった。

 私は、崩れ落ちた母の背中を、ただ静かに抱きしめた。母の体は、驚くほど軽くて、もろい。 かつて私を支配し、世界へと押し上げたあの強靭な意志は、もうどこにもない。

 背後で、開いたままのピアノが、西日を浴びて黒い牙を剥いている。母の命の灯火が、この一瞬の混乱の果てに、また少しずつ、確実に、この埃っぽい沈黙の中へと溶けて消えていこうとしている。


(お母さん。もう、どこにも行かなくていいんだよ。 あなたも、私も)


私は母の震える肩を抱きながら、暗闇が忍び寄るリビングの隅、あの500円玉が転がっていたはずの場所を、いつまでもじっと見つめていた。


 母を寝かしつけ、ようやくリビングに一人きりの時間が訪れる。

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