悲恋の横笛~平安もののけ奇譚~
近衛少将は、方違えで讃岐守の屋敷を訪ねることにした。
讃岐守は以前から「物忌の際はぜひ我が家を」と言っていた。
だが少将は、その裏にある思惑も知っていた。娘の婿に、という狙いだ。
だから今まで避けていた。
けれど今は、状況が変わっている。
夏の初めに、讃岐守の娘が病で亡くなった。少将はそれを聞いて知っている。
(ならば、というのも不謹慎な言いざまだが……今なら、行ってもよいかもしれぬ)
方角も良い。讃岐守からの招きを、いつまでも放っておく形にしているわけにもいかなかった。
形だけでも良い。一度は訪れておこう。
仰々しくはしない。少将は供を少しだけ連れて、讃岐守の屋敷へ向かった。
⸻
讃岐守の屋敷は、都の中でも静かなあたりにあった。
門は高くないが、手入れが行き届いている。
名を告げると、讃岐守はすぐに出迎えた。丁重な態度だ。
「少将様。よくぞおいでくださいました」
讃岐守は深く頭を下げた。
だがその目は、ありありと語っていた。
(今頃。来るのが遅い)
わざと伝わるように、そういう顔をしたのかもしれない。
当然、少将はそこには触れない。
座に通される。灯が入り、香が焚かれる。
もてなしは整っている。整いすぎていて、息が詰まる。
讃岐守は座に着き、少将を見た。
「実は……夏の初めに娘が亡くなりまして」
声に湿り気がある。湿り気を作っている。
「ようやく喪があけたところでございました」
――自ら言い出したか。
少将はゆっくりと頷いた。
「それはなんとも、お気の毒なことです」
悼む言葉の形だけを整え、早く次の話題へ移りたい。
讃岐守は扇を開いた。扇の骨の影が、灯に揺れる。
「ほかにも嫁いでいない娘がおれば……」
言葉が途切れる。途切れたところに、言いたいことがある。
少将は、話題をそらす隙を探した。
そのとき、どこからか笛の音が聞こえた。
澄んだ音だ。夜の静けさを乱さない。
少将は耳を澄ませる。
「なかなかよい笛の音が聞こえる」
讃岐守は扇を閉じた。
「ああ、それが……。ここ、ひと巡りほど、夜に笛の音が聞こえるのです」
「誰が吹いているのか」
「心当たりがございませぬ」
讃岐守は扇を弄びながら言った。
「娘を失った無聊が慰められる気がして、そのままにしておりました」
少将は頷きながら、讃岐守の顔を見た。
悲しみというより、話を膨らませている顔だった。
(私が興味を示したから、そう言い募る)
少将は何も言わなかった。
廊の向こうに竹丸が控えている。竹丸の顔が、少し渋い。
話しているうちに、笛の音はいつしか止んだ。
⸻
夜半。
少将は客の寝所で横になっていたが、目が冴えていた。
座での会話が、頭の端に残っている。
そのとき、また笛の音が聞こえてきた。
さっきと同じ音だ。澄んでいる。
少将は起き上がった。
好奇心がないわけではない。
だが、それだけではない。
(怪異が絡むなら、確かめねばならぬ)
少将はひとりで廊へ出た。
笛の音を辿る。音は屋敷の奥から聞こえてくる。
少将は足音を抑えて進んだ。
やがて、奥——おそらくは、娘の部屋があったあたりの庭先へ出る。
讃岐守は、娘が生きているうちに、こうして訪ってもらいたかっただろう。
近衛少将を娘のもとに。
そう考える親は都中にたくさんいる。
月が出ていて、庭は薄く明るい。
少将は歩を進める。
そこに、男がいた。
男は横笛を吹いている。立ったまま、どこかを見つめている。
その前に、何かが薄く揺れている。
朧なものだ。人の形かどうか、はっきりしない。
それでも「そこにある」と分かる。
少将は息を整え、黙って見ていた。
やがて男は笛を止めた。
ゆっくりと少将を見る。
「無粋な人だ」
非難の響きがあった。
背筋がすっと冷える気がした。
――自分の一言で、夜の均衡を壊したのだろうか。
「琴の音が聞こえているだろうに」
少将は耳を澄ませた。
琴の音は聞こえなかった。
月の夜に琴と横笛が合わさっていれば、そばに行って邪魔をするような真似はしない。
「琴の音……?」
男は笛を取ったまま、少将を見た。
「……途切れた」
男がそう呟いたとき、朧なものが小刻みに揺れた。
揺れて、薄くなり、消えた。
背筋が冷えた。
少将が声をかけたせいで、その場が崩れたように感じた。
「あなたのせいだ」
男は低い声で詰る。
男には琴の音が聞こえていたらしい。
それに合わせて笛を吹いていたということか。
何かに、取りつかれているのか。
少将は、言葉を選んで話した。
「すまない……私には笛の音しか聞こえなかったのだ。邪魔立てするつもりはなかった」
男は笛をおろし、少将を見つめた。
「琴の音が、聞こえなかったのか」
「そうだ。笛の音だけ」
男は、朧が消えた場所をじっと見つめた。
沈黙が続く。
やがて深くため息をついてから、少将に向かって言った。
「話を、聞いてもらえるだろうか」
少将は頷いた。
「聞かせてくれ」
男は近くに置かれた庭石に腰掛け、笛を膝に置いた。
そして語り始めた。
⸻
男は、この屋敷の娘に恋い焦がれていた。
熱心に文を送った。和歌も送った。
だが色良い返事は来なかった。
「なぜだと思う」
男が言った。答えを待たない言い方だった。
「父君が、許さなかった」
讃岐守は、娘を成り上がりの道具として見ていた。
恋など許すはずがない。
見張りをつけた。
文を取り上げた。
娘は返事を書けなくなった。
男はそこで、一度息を置いた。
喉の奥で言葉がつかえる。
「……病で、亡くなった」
あっけなく、そう言った。
短い言い方に、痛みが残る。
男は続ける。
悲嘆に暮れた。食べ物は喉を通らず、ほかに何もできなかった。
諦めきれず、夜ごと屋敷へ忍び込んだ。庭や廊で、ただ過ごした。そうすることだけしか、やれることがなかった。
「……会えたのだな」
少将が問うと、男は頷いた。
「姿は見えない。だが、ここにいる。……そう思える夜があった」
やがて朧のような形をとるようになり、ある日、琴の音が聞こえてきた。
男は歓喜に打ち震えた。
毎夜、ここで娘の琴の音を聞く。
心に染み入る幸せだった。
ふと思い出す。娘が生前にくれた、数少ない文があった。
その中に、こんな歌があった。
うきふしに 袖を濡らしつ いつしかの 横笛の音こそ 聞かまほしけれ
「横笛を聞きたい、と」
ある夜、吹き始めた。
吹けば、こちらへ寄る気配がある。
琴を合わせてくれる。
琴の音と横笛の音が合えば、たしかにお互いを感じ合える。ひたすらに、吹き続けた。
男は少将を見た。
「邪魔をしないでほしい」
少将はすぐに答えられなかった。
同情がある。だが、それだけではない。
(このまま通い続ければ、危うい)
あの父親が、何もしないとは思えない。
都で一番危ういのは、もののけだけではない。
少将は言った。
「……今夜は帰れ。続きは、また聞く」
男は少将を見たまま、頷いたかどうか分からない。
笛を取る。吹こうとして、やめた。
「また明日」
男は朧を探すようにそう言って、闇の中へ消えた。
少将はその場に残された。
下弦の片割れ月だけが、静かに照らしている。
⸻
少将は寝所へ戻ったが、眠れなかった。
男の話が頭から離れない。
そして不安があった。
(このまま男が通い続けたら、どうなる)
讃岐守が何かするかもしれない。
それだけではない。
(……持っていかれる)
死んだ娘に、男が引かれていく。
そういう終わり方を、少将は何度も見聞きしている。
少将は決めた。
嵯峨殿に相談する。
⸻
翌日。
少将は近衛府での勤めを終えると、そのまま嵯峨野へ向かった。
山荘の門は閉じていた。
名を告げる前に、内側で戸が擦れた。家人が無言で開け、脇へ退く。
座に通される。沈香の匂いと墨の匂い。
嵯峨殿は座にいた。長い黒髪を後ろで束ねただけの痩身。切れ長の目。
「よく来た」
それだけ言う。
少将は座に着き、息を整えてから言った。
「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」
「話せ」
嵯峨殿は短く言う。
少将は説明した。
讃岐守の屋敷に泊まったこと。笛の音が聞こえたこと。屋敷の奥で横笛を吹く男と、朧なものを見たこと。
男が語ったこと。娘への恋。父の反対。娘の死。夜ごと通っていること。琴の音。
そして最後に、少将は言った。
「このままでは、男が危うい」
嵯峨殿は眉ひとつ動かさない。
話が終わると、少将を見た。
「おまえはまた、拾ったのか」
少将は怪訝な顔で尋ねる。
「……拾った、と言うのか」
「拾った」
嵯峨殿は淡い声で言い切る。
少将は続けた。
「私は、助けたい。あの男が……娘に連れて行かれる」
嵯峨殿は頷かない。
「娘の琴の音は、私には聞こえなかった」
「父親に、聞かれたくないのであろう」
「亡くなってもか」
嵯峨殿は頷いて立ち上がり、奥へ行って紙を取り、筆で何かを書きつけた。札にする。
戻って、札を少将の前へ置く。
「未練があるだけなら、これで足りるだろう」
少将は札を手に取った。
文字はある。だが少将には、意味が掴めない。
「この札を使うと、あの朧は現れなくなるのか」
嵯峨殿は少将を見た。
目がまっすぐだ。避けない。
「この札は、讃岐守殿に使ってもらうといい」
少将は息を呑んだ。
「讃岐守に?」
「ああ」
嵯峨殿は淡く言う。
少将は、その言い方で分かった。嵯峨殿は、何か事情を見通している。
嵯峨殿は少将の袖口へ手を伸ばし、乱れた結び目を一度だけ直した。
「今夜、行くのか」
少将は頷いた。
「行く」
嵯峨殿はそれ以上言わなかった。
⸻
夜。
少将は竹丸を連れ、讃岐守の屋敷へ戻った。
讃岐守は驚いた顔をしたが、すぐに取り繕う。
「少将様。今夜も?」
「昨夜のことだ。話がある」
座に通される。
讃岐守は少将の顔を見て、慎重な声を出す。
「……昨夜、何かございましたか」
少将は頷いた。
「笛の音のことだ」
讃岐守の目がわずかに動く。
少将は続けた。
「笛を吹いていたのは男だ。娘御を、慕っていた者らしい」
讃岐守の顔が硬くなる。
少将はそれを見て、言葉を切り替える。
「このままでは、男が危うい」
「危うい、と」
「その男、娘御に引かれてもっていかれる。——そういうことが起きる」
讃岐守は黙った。
黙り方が、恐れではない。
少将は懐から札を出し、讃岐守の前へ置く。
「嵯峨殿に用意してもらった。……今夜、笛が聞こえたら、娘御がそこにいるはずだ。そなたが使え」
讃岐守は札を見た。
「かの高名な嵯峨殿の……なんとも、なんとも」
目がぎらりと光る。
いそいそと札を取った。
「ぜひにも試し、つぶさにご報告申し上げねば」
声は低い。
何かが混じって濁っているように感じた。
⸻
夜更け。
また笛の音が聞こえてきた。
少将は目を覚まし、廊へ出た。
竹丸も起きて、少将の後を追う。
廊の先に、讃岐守がいた。
灯も持たない。足早に先へ行く。袖口が乱れている。
手に、札を握っている。
少将は小声で呼んだ。
「讃岐守殿」
讃岐守は振り向かない。
聞こえているのに、聞こえぬふりをする背だ。
笛の音のほうへ、迷いなく歩く。
(……恐れているのではない)
少将はそう思った。
恐れなら足が鈍る。声が揺れる。
讃岐守の歩みは、止まらない。
竹丸が、少将の袖をつかんだ。
「少将様……」
「声を出すな」
少将は短く言い、足を速めた。
屋敷の奥。
昨日男と話したあたりの庭先へ出る。
半分の月が出ている。
庭は薄く明るい。
そこに、やはり男がいた。
笛を吹いている。立ったまま、前を見ている。
男の前に、朧なものがある。
人の形かどうか分からない。
それでも「いる」と分かる。
讃岐守が、男を見た。
「ここで、何をしているのだ」
声が低い。
冷たく、震えがない。
男は笛を止めた。
讃岐守を見る。
讃岐守が続ける。
「わしの屋敷で。わしの庭で。何をしている」
男は答えない。
笛を持ったまま黙っている。
讃岐守は、朧なものへと視線を移した。
そこを見た瞬間、讃岐守の口がわずかに歪んだ。
歪んだのは怯えではない。
嫌悪でもない。
都の男が、言うべき言葉を決めた顔だった。
「……娘はもういない」
言い切る。
そして、札を取り出した。
少将は一歩踏み出しかけた。
その刹那、もう、讃岐守の指が動いている。
讃岐守は札を掲げる。
朧なものへ向ける。
ためらいがない。
娘に向ける手つきと同じなのだろう。
生きていた頃から、そうやって扱っていたと分かる。
少将の背が冷えた。
竹丸が息を呑む音がした。
讃岐守が、札を切るように突き出した。
札が働いた。
朧なものが揺れる。
揺れ方が遅い。抵抗しているのではない。
ただ、そこから剥がされていく。
音はない。
空気が変わる。
庭の明るさが、一段落ちる。
朧なものは薄くなり、消えた。
少将は喉の奥が詰まった。
己の娘の現れかもしれぬのに。
これで終わればよい。そう思った。
だが終わらない。
消えたのは、ひとつだけではなかった。
男が讃岐守のほうに向き直った。
立ったまま、笛を咥えて、また吹き始める。
次の瞬間、男の姿が崩れはじめた。
ゆっくり、ゆっくりと、崩れていく。
月の光の中で、肌の色が抜ける。
袖が薄くなる。指の形が変わる。
笛の音が夜に響いて流れていく。
竹丸が声を上げかけた。
少将は咄嗟に竹丸の前へ手を伸ばした。
目を塞ぐ。強く塞ぐ。
「見るな」
低い声が出た。
命令だった。
竹丸の身体が小さく震える。
少将は手を離さない。前から目を逸らさない。
男の姿は、最後に笛だけを残すように消えた。
残ったのは、骸骨だった。
骸骨が、笛を咥えている。笛の音はまだ続いている。
「な、なんで。も、もう、死んで……」
讃岐守が驚愕の声をあげる。
骨が、笛を吹きながら、歩いてくる。
それが分かった瞬間、讃岐守が初めて動いた。
一歩、後ずさる。
「……っ」
声にならない。
二歩目で足がもつれ、膝が折れそうになる。
骨が動いた。
ゆっくりと一歩進む。
骨の足音は、軽い。
庭の静けさの中で、骨の音がよく響く。
讃岐守はさらに後ずさった。
扇を持っていた手が開く。扇が落ちる。
骨は止まらない。
讃岐守がかすれた声を出した。
「よるな……!」
言いながら、退く。
退くほど、骨は距離を詰める。
笛の音が、近い。距離が縮むほど、夜が濃くなる。
そして——
骨が、笛を吹くのをやめ、両の手をあげて、讃岐守に抱きついた。
抱きつき方が、乱暴ではない。
両腕が回る。離れない。
がらんどうの目と口が、讃岐守の肩の近くにある。
讃岐守の身体が固まった。
息を吸ったまま止まる。
次の瞬間、力が抜けた。
腰が抜ける。
膝が折れる。
座り込むように落ちる。
骨は離れない。
讃岐守に抱きついたままだ。
讃岐守の口が動く。
助けを呼ぶ形を作る。
音が出ない。
少将は、竹丸の目を塞いだまま動けなかった。
前へ出れば、竹丸の手が外れる。
外したくない。
讃岐守の肩が震えた。
震えは、恐怖だ。
今まで見せなかった種類の震えだ。
やがて、骨の動きが止まった。
抱きついたまま、固まる。
讃岐守の震えに合わせて、骨が鳴った。
少将は竹丸の目を塞いだ手を、ゆっくり緩めた。
それでも、すぐには離さない。
「……まだ、目をつむっていろ」
竹丸は小さく頷いた。
頷きながら、泣いていた。
骨が、片腕をあげ、少将を追い払うそぶりをした。
逡巡のうえ、少将は、竹丸を連れて屋敷へと戻った。
骨と讃岐守の抱擁をそのままに。
骨は、空が白むまで、讃岐守を抱きしめていたと言う。
⸻
数日後。
少将は嵯峨野の山荘を訪ねた。
座に通される。沈香の匂いと墨の匂い。
嵯峨殿は座にいた。
「よく来た」
少将は座に着くなり言った。
「……骨だった」
嵯峨殿の目が少し細くなる。
「骨」
「笛を吹いていた。讃岐の守に抱きついた」
少将は続ける。
「竹丸が見そうになった。目を塞いだ」
「おまえはずっと見ていたのか」
少将は首を横に振る。
「去れ、と骨が手を振った。従うしかなかった」
嵯峨殿は黙って頷く。
よくやった、とでも言うように。
少将は堪えきれず言った。
「最初から分かっていたのではないか」
嵯峨殿の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑いではない。
「お前が軽々と拾ってくるせいだ」
少将は眉を上げた。
「……讃岐守に札を使わせたのは」
嵯峨殿は、硯へ視線を落として言った。
「人を駒としか考えない男だ。己の娘も……お前のことも」
「私のこと……?」
嵯峨殿は息を吐いた。
「実弥、お前を軽々に手札にしようとしていた奴だ」
諱で呼ばれた少将は、少し遅れて気づく。
「私が……侮られたから……」
嵯峨殿は、視線を少将の顔へと戻して言う。
「易々と、汚されないことはわかっているが」
「汚される……?」
「……なんでも拾ってくるな」
命令の声が懇願に聞こえて、少将はただ、頷いた。
そしてなんでもない声を出すように心がけて、話を変える。
「讃岐守は、骨を丁重に葬ったそうだ」
竹丸が、屋敷の者から報告を受けていた。
夜明けが近くなって、骨は静かに崩れ落ちたのだそうだ。
讃岐守は、ばらばらに散った骨を、ひとつひとつ拾ったのだという。
讃岐守が改心したのか、恐れただけなのか。
それはどちらでもよい。どちらとも取れる。
ただ、弔いは続いた。
それだけが残った。
笛の音は、もう聞こえない。
男もいない。
名もなく消えた。




