表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

平安もののけ奇譚〜嵯峨殿、知恵を貸してくれ〜

悲恋の横笛~平安もののけ奇譚~

作者: 緑山ひびき
掲載日:2026/02/04

 近衛少将は、方違(かたたが)えで讃岐守(さぬきのかみ)の屋敷を訪ねることにした。


 讃岐守は以前から「物忌(ものいみ)の際はぜひ我が家を」と言っていた。

 だが少将は、その裏にある思惑も知っていた。娘の婿に、という狙いだ。


 だから今まで避けていた。


 けれど今は、状況が変わっている。

 夏の初めに、讃岐守の娘が病で亡くなった。少将はそれを聞いて知っている。


(ならば、というのも不謹慎な言いざまだが……今なら、行ってもよいかもしれぬ)


 方角も良い。讃岐守からの招きを、いつまでも放っておく形にしているわけにもいかなかった。


 形だけでも良い。一度は訪れておこう。


 仰々しくはしない。少将は供を少しだけ連れて、讃岐守の屋敷へ向かった。


 ⸻


 讃岐守の屋敷は、都の中でも静かなあたりにあった。

 門は高くないが、手入れが行き届いている。


 名を告げると、讃岐守はすぐに出迎えた。丁重な態度だ。


「少将様。よくぞおいでくださいました」


 讃岐守は深く頭を下げた。

 だがその目は、ありありと語っていた。


(今頃。来るのが遅い)


 わざと伝わるように、そういう顔をしたのかもしれない。

 当然、少将はそこには触れない。


 座に通される。灯が入り、香が焚かれる。

 もてなしは整っている。整いすぎていて、息が詰まる。


 讃岐守は座に着き、少将を見た。


「実は……夏の初めに娘が亡くなりまして」


 声に湿り気がある。湿り気を作っている。


「ようやく喪があけたところでございました」


 ――自ら言い出したか。

 少将はゆっくりと頷いた。


「それはなんとも、お気の毒なことです」


 悼む言葉の形だけを整え、早く次の話題へ移りたい。


 讃岐守は扇を開いた。扇の骨の影が、灯に揺れる。


「ほかにも嫁いでいない娘がおれば……」


 言葉が途切れる。途切れたところに、言いたいことがある。

 少将は、話題をそらす隙を探した。


 そのとき、どこからか笛の音が聞こえた。


 澄んだ音だ。夜の静けさを乱さない。

 少将は耳を澄ませる。


「なかなかよい笛の音が聞こえる」


 讃岐守は扇を閉じた。


「ああ、それが……。ここ、ひと巡りほど、夜に笛の音が聞こえるのです」


「誰が吹いているのか」


「心当たりがございませぬ」


 讃岐守は扇を弄びながら言った。


「娘を失った無聊が慰められる気がして、そのままにしておりました」


 少将は頷きながら、讃岐守の顔を見た。

 悲しみというより、話を膨らませている顔だった。


(私が興味を示したから、そう言い募る)


 少将は何も言わなかった。

 廊の向こうに竹丸が控えている。竹丸の顔が、少し渋い。


 話しているうちに、笛の音はいつしか止んだ。


 ⸻


 夜半。


 少将は客の寝所で横になっていたが、目が冴えていた。

 座での会話が、頭の端に残っている。


 そのとき、また笛の音が聞こえてきた。


 さっきと同じ音だ。澄んでいる。

 少将は起き上がった。


 好奇心がないわけではない。

 だが、それだけではない。


(怪異が絡むなら、確かめねばならぬ)


 少将はひとりで廊へ出た。


 笛の音を辿る。音は屋敷の奥から聞こえてくる。

 少将は足音を抑えて進んだ。


 やがて、奥——おそらくは、娘の部屋があったあたりの庭先へ出る。

 讃岐守は、娘が生きているうちに、こうして訪ってもらいたかっただろう。


 近衛少将を娘のもとに。

 そう考える親は都中にたくさんいる。

 

 月が出ていて、庭は薄く明るい。

 少将は歩を進める。


 そこに、男がいた。


 男は横笛を吹いている。立ったまま、どこかを見つめている。

 その前に、何かが薄く揺れている。


 (おぼろ)なものだ。人の形かどうか、はっきりしない。

 それでも「そこにある」と分かる。


 少将は息を整え、黙って見ていた。


 やがて男は笛を止めた。

 ゆっくりと少将を見る。


「無粋な人だ」


 非難の響きがあった。

 

 背筋がすっと冷える気がした。

 ――自分の一言で、夜の均衡を壊したのだろうか。


「琴の音が聞こえているだろうに」


 少将は耳を澄ませた。

 琴の音は聞こえなかった。

 月の夜に琴と横笛が合わさっていれば、そばに行って邪魔をするような真似はしない。


「琴の音……?」


 男は笛を取ったまま、少将を見た。

 

「……途切れた」


 男がそう呟いたとき、朧なものが小刻みに揺れた。

 揺れて、薄くなり、消えた。

 

 背筋が冷えた。


 少将が声をかけたせいで、その場が崩れたように感じた。


「あなたのせいだ」


 男は低い声で詰る。


 男には琴の音が聞こえていたらしい。

 それに合わせて笛を吹いていたということか。

 

 何かに、取りつかれているのか。


 少将は、言葉を選んで話した。


「すまない……私には笛の音しか聞こえなかったのだ。邪魔立てするつもりはなかった」


 男は笛をおろし、少将を見つめた。


「琴の音が、聞こえなかったのか」


「そうだ。笛の音だけ」

 

 男は、朧が消えた場所をじっと見つめた。

 沈黙が続く。

 

 やがて深くため息をついてから、少将に向かって言った。


「話を、聞いてもらえるだろうか」


 少将は頷いた。


「聞かせてくれ」


 男は近くに置かれた庭石に腰掛け、笛を膝に置いた。

 そして語り始めた。



 男は、この屋敷の娘に恋い焦がれていた。


 熱心に文を送った。和歌も送った。

 だが色良い返事は来なかった。


「なぜだと思う」


 男が言った。答えを待たない言い方だった。


「父君が、許さなかった」


 讃岐守は、娘を成り上がりの道具として見ていた。

 恋など許すはずがない。


 見張りをつけた。

 文を取り上げた。

 娘は返事を書けなくなった。


 男はそこで、一度息を置いた。

 喉の奥で言葉がつかえる。


「……病で、亡くなった」


 あっけなく、そう言った。

 短い言い方に、痛みが残る。


 男は続ける。


 悲嘆に暮れた。食べ物は喉を通らず、ほかに何もできなかった。

 諦めきれず、夜ごと屋敷へ忍び込んだ。庭や廊で、ただ過ごした。そうすることだけしか、やれることがなかった。


「……会えたのだな」


 少将が問うと、男は頷いた。


「姿は見えない。だが、ここにいる。……そう思える夜があった」


 やがて朧のような形をとるようになり、ある日、琴の音が聞こえてきた。

 男は歓喜に打ち震えた。

 毎夜、ここで娘の琴の音を聞く。

 心に染み入る幸せだった。


 ふと思い出す。娘が生前にくれた、数少ない文があった。

 その中に、こんな歌があった。


 うきふしに 袖を濡らしつ いつしかの 横笛の音こそ 聞かまほしけれ


「横笛を聞きたい、と」

 

 ある夜、吹き始めた。

 吹けば、こちらへ寄る気配がある。

 琴を合わせてくれる。


 琴の音と横笛の音が合えば、たしかにお互いを感じ合える。ひたすらに、吹き続けた。


 男は少将を見た。


「邪魔をしないでほしい」


 少将はすぐに答えられなかった。

 同情がある。だが、それだけではない。


(このまま通い続ければ、危うい)


 あの父親が、何もしないとは思えない。

 都で一番危ういのは、もののけだけではない。


 少将は言った。


「……今夜は帰れ。続きは、また聞く」


 男は少将を見たまま、頷いたかどうか分からない。

 笛を取る。吹こうとして、やめた。


「また明日」


 男は朧を探すようにそう言って、闇の中へ消えた。


 少将はその場に残された。

 下弦の片割れ月だけが、静かに照らしている。


 ⸻


 少将は寝所へ戻ったが、眠れなかった。

 男の話が頭から離れない。


 そして不安があった。


(このまま男が通い続けたら、どうなる)


 讃岐守が何かするかもしれない。

 それだけではない。


(……持っていかれる)


 死んだ娘に、男が引かれていく。

 そういう終わり方を、少将は何度も見聞きしている。


 少将は決めた。


 嵯峨殿に相談する。


 ⸻


 翌日。

 少将は近衛府での勤めを終えると、そのまま嵯峨野へ向かった。


 山荘の門は閉じていた。

 名を告げる前に、内側で戸が擦れた。家人が無言で開け、脇へ退く。


 座に通される。沈香の匂いと墨の匂い。

 嵯峨殿は座にいた。長い黒髪を後ろで束ねただけの痩身。切れ長の目。


「よく来た」


 それだけ言う。


 少将は座に着き、息を整えてから言った。


「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」


「話せ」


 嵯峨殿は短く言う。


 少将は説明した。

 讃岐守の屋敷に泊まったこと。笛の音が聞こえたこと。屋敷の奥で横笛を吹く男と、朧なものを見たこと。

 男が語ったこと。娘への恋。父の反対。娘の死。夜ごと通っていること。琴の音。


 そして最後に、少将は言った。


「このままでは、男が危うい」


 嵯峨殿は眉ひとつ動かさない。

 話が終わると、少将を見た。


「おまえはまた、拾ったのか」


 少将は怪訝な顔で尋ねる。


「……拾った、と言うのか」


「拾った」


 嵯峨殿は淡い声で言い切る。


 少将は続けた。


「私は、助けたい。あの男が……娘に連れて行かれる」


 嵯峨殿は頷かない。


「娘の琴の音は、私には聞こえなかった」


「父親に、聞かれたくないのであろう」


「亡くなってもか」

 

 嵯峨殿は頷いて立ち上がり、奥へ行って紙を取り、筆で何かを書きつけた。札にする。


 戻って、札を少将の前へ置く。


「未練があるだけなら、これで足りるだろう」


 少将は札を手に取った。

 文字はある。だが少将には、意味が掴めない。


「この札を使うと、あの朧は現れなくなるのか」


 嵯峨殿は少将を見た。

 目がまっすぐだ。避けない。


「この札は、讃岐守殿に使ってもらうといい」


 少将は息を呑んだ。


「讃岐守に?」


「ああ」


 嵯峨殿は淡く言う。

 少将は、その言い方で分かった。嵯峨殿は、何か事情を見通している。


 嵯峨殿は少将の袖口へ手を伸ばし、乱れた結び目を一度だけ直した。


「今夜、行くのか」


 少将は頷いた。


「行く」


 嵯峨殿はそれ以上言わなかった。



 夜。

 少将は竹丸を連れ、讃岐守の屋敷へ戻った。


 讃岐守は驚いた顔をしたが、すぐに取り繕う。


「少将様。今夜も?」


「昨夜のことだ。話がある」


 座に通される。

 讃岐守は少将の顔を見て、慎重な声を出す。


「……昨夜、何かございましたか」


 少将は頷いた。


「笛の音のことだ」


 讃岐守の目がわずかに動く。

 少将は続けた。


「笛を吹いていたのは男だ。娘御を、慕っていた者らしい」


 讃岐守の顔が硬くなる。

 少将はそれを見て、言葉を切り替える。


「このままでは、男が危うい」


「危うい、と」


「その男、娘御に引かれてもっていかれる。——そういうことが起きる」


 讃岐守は黙った。

 黙り方が、恐れではない。


 少将は懐から札を出し、讃岐守の前へ置く。


「嵯峨殿に用意してもらった。……今夜、笛が聞こえたら、娘御がそこにいるはずだ。そなたが使え」


 讃岐守は札を見た。


「かの高名な嵯峨殿の……なんとも、なんとも」

 

 目がぎらりと光る。

 いそいそと札を取った。


「ぜひにも試し、つぶさにご報告申し上げねば」


 声は低い。

 何かが混じって濁っているように感じた。


 ⸻


 夜更け。

 また笛の音が聞こえてきた。


 少将は目を覚まし、廊へ出た。

 竹丸も起きて、少将の後を追う。


 廊の先に、讃岐守がいた。

 灯も持たない。足早に先へ行く。袖口が乱れている。

 手に、札を握っている。


 少将は小声で呼んだ。


「讃岐守殿」


 讃岐守は振り向かない。

 聞こえているのに、聞こえぬふりをする背だ。

 笛の音のほうへ、迷いなく歩く。


(……恐れているのではない)


 少将はそう思った。

 恐れなら足が鈍る。声が揺れる。

 讃岐守の歩みは、止まらない。


 竹丸が、少将の袖をつかんだ。


「少将様……」


「声を出すな」


 少将は短く言い、足を速めた。


 屋敷の奥。

 昨日男と話したあたりの庭先へ出る。


 半分の月が出ている。

 庭は薄く明るい。


 そこに、やはり男がいた。

 笛を吹いている。立ったまま、前を見ている。


 男の前に、朧なものがある。

 人の形かどうか分からない。

 それでも「いる」と分かる。


 讃岐守が、男を見た。


「ここで、何をしているのだ」


 声が低い。

 冷たく、震えがない。


 男は笛を止めた。

 讃岐守を見る。


 讃岐守が続ける。


「わしの屋敷で。わしの庭で。何をしている」


 男は答えない。

 笛を持ったまま黙っている。


 讃岐守は、朧なものへと視線を移した。

 そこを見た瞬間、讃岐守の口がわずかに歪んだ。


 歪んだのは怯えではない。

 嫌悪でもない。

 都の男が、言うべき言葉を決めた顔だった。


「……娘はもういない」


 言い切る。

 そして、札を取り出した。


 少将は一歩踏み出しかけた。

 その刹那、もう、讃岐守の指が動いている。


 讃岐守は札を掲げる。

 朧なものへ向ける。


 ためらいがない。

 娘に向ける手つきと同じなのだろう。

 生きていた頃から、そうやって扱っていたと分かる。


 少将の背が冷えた。

 竹丸が息を呑む音がした。


 讃岐守が、札を切るように突き出した。


 札が働いた。


 朧なものが揺れる。

 揺れ方が遅い。抵抗しているのではない。

 ただ、そこから剥がされていく。


 音はない。

 空気が変わる。

 庭の明るさが、一段落ちる。


 朧なものは薄くなり、消えた。


 少将は喉の奥が詰まった。

 己の娘の現れかもしれぬのに。

 

 これで終わればよい。そう思った。


 だが終わらない。


 消えたのは、ひとつだけではなかった。


 男が讃岐守のほうに向き直った。


 立ったまま、笛を咥えて、また吹き始める。

 次の瞬間、男の姿が崩れはじめた。


 ゆっくり、ゆっくりと、崩れていく。

 

 月の光の中で、肌の色が抜ける。

 袖が薄くなる。指の形が変わる。

 笛の音が夜に響いて流れていく。


 竹丸が声を上げかけた。


 少将は咄嗟に竹丸の前へ手を伸ばした。

 目を塞ぐ。強く塞ぐ。


「見るな」


 低い声が出た。

 命令だった。


 竹丸の身体が小さく震える。

 少将は手を離さない。前から目を逸らさない。


 男の姿は、最後に笛だけを残すように消えた。

 残ったのは、骸骨だった。

 骸骨が、笛を咥えている。笛の音はまだ続いている。


「な、なんで。も、もう、死んで……」


 讃岐守が驚愕の声をあげる。


 骨が、笛を吹きながら、歩いてくる。


 それが分かった瞬間、讃岐守が初めて動いた。

 一歩、後ずさる。


「……っ」


 声にならない。

 二歩目で足がもつれ、膝が折れそうになる。


 骨が動いた。


 ゆっくりと一歩進む。

 骨の足音は、軽い。

 庭の静けさの中で、骨の音がよく響く。


 讃岐守はさらに後ずさった。

 扇を持っていた手が開く。扇が落ちる。


 骨は止まらない。


 讃岐守がかすれた声を出した。


「よるな……!」


 言いながら、退く。

 退くほど、骨は距離を詰める。

 笛の音が、近い。距離が縮むほど、夜が濃くなる。


 そして——


 骨が、笛を吹くのをやめ、両の手をあげて、讃岐守に抱きついた。


 抱きつき方が、乱暴ではない。

 両腕が回る。離れない。

 がらんどうの目と口が、讃岐守の肩の近くにある。


 讃岐守の身体が固まった。

 息を吸ったまま止まる。


 次の瞬間、力が抜けた。


 腰が抜ける。

 膝が折れる。

 座り込むように落ちる。


 骨は離れない。

 讃岐守に抱きついたままだ。


 讃岐守の口が動く。

 助けを呼ぶ形を作る。

 音が出ない。


 少将は、竹丸の目を塞いだまま動けなかった。

 前へ出れば、竹丸の手が外れる。

 外したくない。


 讃岐守の肩が震えた。

 震えは、恐怖だ。

 今まで見せなかった種類の震えだ。


 やがて、骨の動きが止まった。

 抱きついたまま、固まる。


 讃岐守の震えに合わせて、骨が鳴った。


 少将は竹丸の目を塞いだ手を、ゆっくり緩めた。

 それでも、すぐには離さない。


「……まだ、目をつむっていろ」


 竹丸は小さく頷いた。

 頷きながら、泣いていた。


 骨が、片腕をあげ、少将を追い払うそぶりをした。

 逡巡のうえ、少将は、竹丸を連れて屋敷へと戻った。

 骨と讃岐守の抱擁をそのままに。


 骨は、空が白むまで、讃岐守を抱きしめていたと言う。

 

 ⸻


 数日後。

 少将は嵯峨野の山荘を訪ねた。


 座に通される。沈香の匂いと墨の匂い。

 嵯峨殿は座にいた。


「よく来た」


 少将は座に着くなり言った。


「……骨だった」


 嵯峨殿の目が少し細くなる。


「骨」


「笛を吹いていた。讃岐の守に抱きついた」


 少将は続ける。


「竹丸が見そうになった。目を塞いだ」


「おまえはずっと見ていたのか」


 少将は首を横に振る。


「去れ、と骨が手を振った。従うしかなかった」


 嵯峨殿は黙って頷く。

 よくやった、とでも言うように。

 

 少将は堪えきれず言った。


「最初から分かっていたのではないか」


 嵯峨殿の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑いではない。


「お前が軽々と拾ってくるせいだ」


 少将は眉を上げた。


「……讃岐守に札を使わせたのは」


 嵯峨殿は、硯へ視線を落として言った。


「人を駒としか考えない男だ。己の娘も……お前のことも」


「私のこと……?」


 嵯峨殿は息を吐いた。


実弥(さねみ)、お前を軽々に手札にしようとしていた奴だ」


 (いみな)で呼ばれた少将は、少し遅れて気づく。


「私が……侮られたから……」

 

 嵯峨殿は、視線を少将の顔へと戻して言う。


「易々と、汚されないことはわかっているが」


「汚される……?」


「……なんでも拾ってくるな」


 命令の声が懇願に聞こえて、少将はただ、頷いた。

 

 そしてなんでもない声を出すように心がけて、話を変える。


「讃岐守は、骨を丁重に葬ったそうだ」


 竹丸が、屋敷の者から報告を受けていた。


 夜明けが近くなって、骨は静かに崩れ落ちたのだそうだ。

 讃岐守は、ばらばらに散った骨を、ひとつひとつ拾ったのだという。


 讃岐守が改心したのか、恐れただけなのか。

 それはどちらでもよい。どちらとも取れる。


 ただ、弔いは続いた。

 それだけが残った。


 笛の音は、もう聞こえない。

 男もいない。

 

 名もなく消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ