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第四話 善意が追ってくる

「助けてくれ」


三回目のその言葉を聞いた瞬間、天城の指がわずかに動いた。返事をしようとしたわけではない。ただ、何かを掴もうとする反射に近い動きだった。だが、そのまま止まる。声は出ない。視線も上げられない。頭の中で何かが立ち上がりかけて、すぐに遮断される。


違う。

今じゃない。


そう判断したのかどうかも分からない。ただ、ここで立ち止まると、戻れなくなる気がした。天城は服の裾から伝わっていた重みが消えたことを確認し、ゆっくりと一歩、距離を取った。相手の顔は見ない。見ると、理由が生まれてしまう。


背後で何かが擦れる音がしたが、振り返らなかった。足を動かす。歩き出してから、自分が息を止めていたことに気づく。吐き出すと同時に、胸の奥が冷えた。


夜の郊外は、昼とは別の場所になる。灯りはあるが、連なっていない。点と点の間を歩くたびに、世界が一度途切れる。住む場所は決まっていない。それでも不安はなかった。貯蓄はある。今夜を越えるだけなら、どうとでもなる。その余裕が、判断を鈍らせていることにも、天城は気づいていた。


通りを外れた先に、店とも倉庫ともつかない建物があった。看板は読めない。削れた文字の跡だけが残っている。営業しているのかどうかも分からないのに、扉は開く。考える前に、身体が中へ入っていた。


棚には、名前の分からないものが並んでいる。瓶、器、量るための道具。用途は不明だが、質感だけは揃っている。揮発しやすいもの、沈殿を前提にしたもの、粘度の違いがはっきりした液体。触れなくても、扱い方だけが分かる感覚が、胸の奥に広がった。


鼻先に、甘さと苦さが混じった匂いが残る。整えるための匂いではない。耐えるために使われてきた気配だ。天城は一つ、また一つと品を選び、これと、これ、これでいけるな、と言葉にならない確信だけを残す。


支払いは短い。カードを出すと、店側は一瞬だけ受け取り、端末を見ない。音も鳴らない。レシートも出ない。返されたカードは、いつもと同じ温度だった。通ったのかどうかは分からない。ただ、拒否されなかった。それだけで、十分だった。


外に出ると、夜の空気が重くのしかかる。天城は近くの路地に腰を下ろし、袋の中身を並べた。古い杯。縁に小さな欠けがある。計量用の小さな器。目盛りは曖昧だが、量は掴める。


助けを求めた人間のもとへ戻る。調達した袋を開き、路地の暗がりで中身を並べる。名前は分からない。だが、今この状態を切るために必要なものだけが、手に集まっている感覚があった。甘さの奥に残る苦味、沈殿を前提にした成分、揮発を抑えるための媒介。量は少ない。過剰にすれば、壊れる。


古い杯を一つ取り出す。縁に欠けのある、不揃いなものだ。配分が一瞬だけ頭の中で線になる。樹の形を取りかけて、そこで止める。


「……飲めるか」


相手は黙って杯を受け取り、飲み干した。変化はすぐには起きない。数秒の沈黙。そのあと、小さく息を吐く。


「……ああ」


相手は周囲を見回し、困惑した顔になる。


「俺……」

「何、やってたんだ?」


その瞬間だった。


「こいつだ!」


突然、声が張り上げられる。天城を見る。


「こいつ、みんなを助けてくれるぞ!」


一瞬、空気が止まる。その静止を押し潰すように、別の声が割り込んだ。


「こいつが俺たちを助けてくれる!

絶対に逃すな!」


言葉が夜に叩きつけられ、歪みながら広がる。意味は砕け、方向だけが揃った。


「俺も!」

「私もだ!」

「先にだろ!」

「順番だ!」

「逃げるな!」

「待て!」


足音が一気に増える。一人分ではない。複数だ。数えきれない。歩き方は揃っていないのに、向かう先だけが異様に正確だった。逃げ道を塞ぐ形で、人影が押し寄せる。


天城は反射的に後ずさり、そのまま向きを変えた。


逃げる。


背後で誰かが笑った。別の誰かが怒鳴った。願いなのか命令なのか、もう区別がつかない。腕を掴まれそうになり、無言で身を捻る。振り解いたのか、すり抜けたのか、自分でも分からない。ただ距離を取る。


通りを曲がり、灯りの少ない方へ走る。呼吸が乱れる。背後から、複数の足音が追ってくる。


店とも倉庫ともつかない建物が目に入った。営業しているかは分からない。だが、扉はあった。考える前に押し込む。


中は暗く、静かだった。棚に並ぶ瓶と器。用途不明の道具。さっきと同じ匂いが鼻を刺す。天城は壁に背をつけ、息を殺す。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


外で声がする。


「待て!」

「逃げるな!」


扉を叩く音。足音が重なる。誰かが名前を呼んでいる気がした。静寂は、長くは続かなかった。


奥へ進むと、行き止まりに見える壁があった。逃げ場はない。


「もうダメか……」


そのときだった。


「こっちじゃ!」


低く、迷いのない声。


誰かに腕を引かれ、引かれるままに身体が動く。振り返る暇はない。扉を閉めた瞬間、夜の空気が一気に静かになった。

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