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第三話 助けてくれ

郊外は、思っていた以上に広かった。中心都市の外に出た瞬間に感じた解放感は、数分もしないうちに別の感触へ変わっていく。空は開けているのに、息がしやすいわけではない。視界を遮るものが少ない分、距離感が掴めず、どこまで歩いても目的地が近づいている実感がない。


人は多い。だが、流れがない。中心都市では人は自然と同じ方向へ動き、速度も揃っていた。ここでは、それぞれが好きな方向に立ち、座り、歩いている。誰も急いでいないが、落ち着いている様子もない。ただ、時間が均されずに放置されているように見えた。


道の端に、落書きがあった。壁一面ではなく、目線より少し低い位置に、短い文字だけが残っている。「まだ——」と書かれたまま、後半は削られている。消されたのか、削れたのかは分からない。最後まで書かれなかったことだけが、はっきりしていた。少し先には、数字だけが並んでいる。「87」。意味はない。ただ、残されている。


足元を見ると、舗装に細かなひびが走っていた。補修途中なのだろう、黄色い線が引かれたまま放置されている。注意喚起の札は色あせ、日付は読めない。直す予定はあったはずだ。だが、今は誰も気にしていない。天城は無意識に、そのひびを跨いで歩いた。


半分だけシャッターが開いた店があった。中は暗く、商品があるのかどうかも分からない。完全に閉めることも、開け続けることもできなかったような佇まいだ。看板は外されていない。だが、客が入る様子もない。やめきれなかったという事実だけが、そこに残っている。


遠くから、ラジオの音が聞こえた。時間帯に合わない内容だった。深夜向けの番組らしい声が、昼の空気に混じっている。誰が聞いているのかは分からない。途中で音量が下がり、やがて消えた。


天城は立ち止まり、周囲を見渡した。ここでは、何かが壊れているというより、修正されなくなっている。中心都市なら即座に整えられる違和感が、そのまま積み重なっているだけだ。


「……長居する場所じゃないな」


小さく呟いてから、自分がなぜ歩いているのかを考えようとして、やめた。目的はない。見返りもない。それでも足は止まらない。歩くこと自体に理由があるわけでもないのに、立ち止まるよりはましだと、どこかで思っている。


郊外は広い。その広さが、人を救うわけでも、拒むわけでもない。ただ、選択をそのまま残している。天城は再び歩き出した。違和感を背負ったまま、どこへ向かうともなく。歩いているうちに、天城はこの場所の歩き方を覚え始めている自分に気づいた。段差を避け、舗装のひびを跨ぎ、視線を上げすぎない。意識しているわけではない。ただ、そうした方が楽だと身体が判断している。中心都市で身についた最適化とは違う、別の順応だった。


道の脇に、片方だけの靴が落ちていた。汚れてはいるが、破れてはいない。つま先の形から、最近まで使われていたものだと分かる。持ち主が慌てて脱いだ様子もない。ただ、そこに置かれている。誰も拾おうとしないし、邪魔にもならない位置だ。天城は一瞬だけ足を止め、視線を落としたが、結局何もせずに通り過ぎた。


少し進むと、掲示板のようなものが目に入った。紙が何枚も貼られているが、どれも端が丸まり、文字は薄れている。仮ID、受付番号、整理票。期限を示す欄はすべて過ぎている。剥がされることも、更新されることもなく、そのまま残っている。管理から外れたものは、消されるのではなく、放置されるのだと理解できた。


建物の間から、消毒液と埃が混じった匂いが漂ってくる。誰かが一度は整えようとした痕跡だ。だが、それは続かなかった。掃除は途中で止まり、床には薄い膜のような汚れが残っている。徹底しない善意ほど、居心地の悪いものはない。


遠くで笑い声がした。一人分だ。楽しそうではない。笑い終わったあと、すぐに音が途切れる。誰かに向けたものではなく、自分に向けた反応のようだった。天城はその方向を見なかった。見ても、どうすることもできないと分かっている。


気づけば、こうした光景を一つ一つ確認するようになっている。最初は違和感だったものが、少しずつ風景として馴染んでいく。この場所では、壊れていることよりも、壊れたままになっていることの方が普通なのだ。


「……慣れるの、早すぎだろ」


誰に向けた言葉でもない。自分への確認だった。ここで立ち止まらないことも、見なかったことにすることも、選択の一つだと理解してしまう。その事実が、胸の奥に小さな重みを残す。


天城は歩き続けた。助ける理由も、助けない理由も持たないまま、ただ前に進む。郊外は広く、痕跡は多い。だが、それらは声にならない。まだ、言葉として向けられてはいない。


それでも、どこかで、何かが始まる気配だけはあった。天城は、自分がどれくらいの時間歩いているのかを数えるのをやめていた。中心都市では、移動は常に目的と結びついていた。業務開始まで何分、会議まで何メートル。すべてが数値に置き換えられ、無駄のない経路が用意されている。ここでは、その基準が使えない。距離は長く、時間は曖昧で、終点が見えない。


それでも歩いている。理由を探そうとすると、思考が空転するだけだった。仕事を失ったからでも、行き場がないからでもない。郊外に来たのは自分の判断だ。だが、ここで何をするつもりなのかと問われると、答えが出ない。


「……何やってんだ、俺」


声に出してみても、空気は何も返さない。独り言が虚しくなるほど、この場所は広い。誰かに聞かれることを前提にしていない空間だ。ここでは、言葉は投げても回収されない。


天城は、自分が特別な人間ではないことをよく知っている。救世主でもなければ、正義感に突き動かされるタイプでもない。誰かを助けるために生きてきたわけではなく、評価されるために働いてきただけだ。効率よく、無駄なく、判断を求められれば応じる。その範囲でしか、役割を持たなかった。


郊外の風景が、そうした前提を崩していく。ここでは、判断を求められない。助けを求められていない段階では、何も始まらない。始まらないから、責任も発生しない。その状態が、奇妙に居心地がいい。


同時に、薄気味悪さもあった。中心都市では、役割を果たさない者は排除されるか、再配置される。ここでは、何もされない。期待も、失望もない。ただ、存在しているだけだ。


天城は歩きながら、自分の手を見た。何かを掴めるような手でもなければ、誰かを支えられるほど強そうにも見えない。道具を持っているわけでもない。ポケットに入っているのは、使い道の分からないものばかりだ。


それでも、足は止まらない。立ち止まったところで、考えがまとまるわけではないと分かっている。答えを出さなくても進める場所に来てしまった以上、進むこと自体が選択になる。


「……見返り、何にもないのに」


ふと浮かんだ言葉に、天城自身が眉をひそめた。誰かに頼まれたわけでもない。期待されているわけでもない。評価も、報酬も、次の居場所もない。それなのに、なぜか戻ろうとは思えなかった。


理由は分からない。分かる必要もないのかもしれない。少なくとも今は、判断を保留したままでいられる。この場所では、それが許されている。


天城は視線を上げ、郊外の奥を見た。遠くに人影がある。立ち止まっているのか、座り込んでいるのかは分からない。ただ、そこに誰かがいるという事実だけが、輪郭を持って迫ってくる。


足取りが、わずかに鈍る。一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。

道を一本外れただけだ。高低差もなく、舗装も続いている。それでも、ここから先は別の場所だと、天城の身体が先に理解した。音が多い。匂いが濃い。視線が近い。どれも、中心都市やこれまで歩いてきた郊外とは質が違う。


地図はない。案内もない。そもそも、ここがどこなのかを示す名前すら見当たらない。分かるのは、戻ろうと思えば戻れる距離にあるという事実だけだ。だが、その距離が妙に遠く感じられる。知らない場所では、数十メートルが判断を狂わせる。


簡易的なテントが道沿いに並んでいた。布は色あせ、補修の跡が重なっている。中には生活の形がそのまま残っていた。洗濯物、調理器具、水の容器。人がここで寝起きし、日々をやり過ごしている。仮の場所ではない。定着してしまった場所だ。


鼻をつく匂いが、遅れて追いついてくる。汗、湿気、腐りかけた食べ物、排泄物、消毒液の名残。どれか一つではない。混ざり合って、空気としてそこに溜まっている。深く吸うと、喉の奥がざらついた。地面にはゴミが散乱していた。だが、完全な無秩序ではない。同じ種類のものが、同じ位置に寄せられている。誰かが一度はまとめようとした形跡だ。その中に、細長い筒状の容器が混じっている。ペンにも、ストローにも見える。だが、先端の形と、折れ曲がった保護キャップの残骸が、用途を察する者には十分だった。見なかったことにされる形で、そこにある。


地面にはゴミが散乱していた。だが、完全な無秩序ではない。同じ種類のものが、同じ位置に寄せられている。誰かが一度は片づけようとした。その途中で、諦めた。そんな配置だ。壁には落書きがある。「もう無理」「帰りたい」「誰も来ない」。訴える相手を失った言葉が、消されずに残っている。


視線が集まる。だが、敵意はない。警戒でもない。ただ、見られている。ここでは、異物も日常の一部になる。天城は、自分が浮いていることを自覚した。靴も、服も、立ち方も、この場所に馴染んでいない。


引き返すべきだと、頭のどこかで理解している。助ける理由はない。関わる義務もない。ここは、そういう場所だ。天城は一歩、後ろに下がろうとした。


その瞬間、服の裾に重みが加わった。


反射的に視線を落とす。指が、掴んでいる。力は弱い。だが、離そうとする意思は感じられた。テントの影に、人影がある。顔はよく見えない。年齢も、性別も分からない。ただ、そこに誰かがいる。


「……助けてくれ」


声は小さい。切迫していない。怒りもない。具体的な要求もない。ただ、言葉だけが落ちてくる。裾を掴む指が、わずかに震えた。


天城は、何も言えなかった。

頭の中で何かが動きかけて、すぐに止まる。考えるより先に、身体が固まっていた。ここで何をすればいいのか、判断の基準がない。地図も、案内も、正解もない。


「助けてくれ」


同じ言葉が、もう一度だけ繰り返された。

天城は、まだ返事をしない。

だが、足はもう動かなかった。

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