第一話 判断保留
判別室は、いつも通り静かだった。
中心都市の高層ビル、その奥まった区画にある部屋は、時間の感覚を奪うように設計されている。窓はなく、壁は白く、照明は均一だ。人が長く滞在しても感情が揺れないように、すべてが整えられている。
天城は端末の画面を見つめていた。
そこには、名前を伏せられた一人の人生が、数値とグラフに置き換えられて並んでいる。
「天城さん」
隣の席から、遠慮がちな声がした。
「これ……どこまで確認すればいいんでしたっけ」
新人だった。配属されてからまだ日が浅く、端末の操作にも不慣れだ。
「要約だけでいい」
天城は視線を画面から外さずに答える。
「ただし、生活履歴と心理指標は必ず突き合わせる」
「突き合わせる、ですか?」
「数字を信じるなとは言わない。でも、数字“だけ”も信じるな」
新人は一瞬考え、困ったように笑った。
「……分かるような、分からないような」
「分からなくていい。気持ち悪いと思えれば、それで十分だ」
新人は首をかしげながらも、自分の画面に戻っていった。
天城は中央のモニターに意識を戻す。
今回の対象は、妊娠中のシングルマザーだった。
経済基盤は不安定。支援履歴はあるが継続性に欠ける。心理指標は基準値の下限をなぞるように推移していた。
画面の右下には、淡々と結論が表示されている。
――判定推奨:不可。
それ自体は、珍しくない。
むしろ、想定通りと言っていい。
それでも、天城の指は止まっていた。
数値に破綻はない。入力の抜けもない。
だが、生活履歴と心理指標の並び方が、どこか不自然だった。整っているが、整いすぎている。まるで、迷いを許さないように配置されたデータだ。
助けたいとは思わなかった。
同情しているわけでもない。
ただ、判断として、決めきれなかった。
「可」と断定するには危うい。
「不可」と切り捨てるには、理由が薄い。
天城は画面下部の選択肢を見る。
可。
不可。
判断保留。
ほとんど使われることのない項目。使われる前提で設計されていない選択肢。
天城は一瞬だけ迷い、判断保留を選んだ。
次の瞬間、乾いた警告音が鳴り響いた。
室内の静寂が、一気に引き裂かれる。
モニターが赤く染まり、文字が流れ出す。
――ERROR
――UNAUTHORIZED JUDGMENT HOLD
――REPORTING SYSTEM ALERT
新人が息を呑むのが分かった。
「え……なに、これ……?」
天城は画面から目を離さなかった。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
「……そういう仕組みか」
誰に向けた言葉でもなく、ただの確認だった。
迷いは想定外。
判断を保留すること自体が、異常として記録される。
人が考える余地は、最初から用意されていなかった。
警告音は止まらない。
AIは淡々とログを積み上げていく。
天城は修正もしなければ、言い訳もしなかった。
ただ、自分が選んだ選択肢を、もう一度確かめるように、赤い画面を見つめていた。
それが、この場所での最後の判断になると、まだ知る由もなく。呼び出しは、翌朝すぐだった。
端末に表示された通知は簡潔で、理由は書かれていない。時間と場所だけが指定されていた。天城は、それを見た瞬間に理解した。昨日の件が、すでに処理工程に乗っている。
会議室は判別室よりも暗かった。窓はなく、照明も落ち着いた色に調整されている。人が感情的にならないよう、声を荒げる必要がないよう、すべてが整えられている。
上司は先に来ていた。書類も資料も広げていない。ただ、端末を一枚、机の上に置いている。
「座ってくれ」
天城は無言で腰を下ろした。
「昨日の件だが」
上司は前置きをせずに切り出した。
「君は、判断保留を選択したね」
「はい」
「それは、業務手順上“存在はしている”が、“使われることは想定していない”選択だ」
天城は反論しなかった。
「AIは過去の事例と統計から、最適解を出す。人間の役割は、その確認だ」
「確認、ですね」
「そうだ。迷う必要はない」
上司は淡々と続ける。
「昨日の対象は、不可と判定されるべきだった。君の判断は、間違いではなかったかもしれない」
天城は、その言い回しにわずかに視線を上げた。
「だが、正しくはなかった」
違いは明確だった。
間違いと、正しくない。
その間に、人の居場所はない。
「ここは、人が考える場所じゃない」
上司の声は穏やかだった。
「考えることで、結果が揺らぐなら、それは欠陥だ」
机の上の端末が、天城の方へ滑らされる。
――適性評価:不適合。
「天城」
上司は名前を呼んだ。
「君はこの業務に向いていない。能力の問題ではない。むしろ逆だ」
天城は、黙って続きを待った。
「君は、考えすぎる」
それが結論だった。
「本日付で契約を終了する。権限は、この後すぐ停止される」
「了解しました」
その言葉は、驚くほど自然に口から出た。
上司は少しだけ困ったような表情を浮かべたが、すぐに戻した。
「私から言えるのは、以上だ」
会議室を出た瞬間、端末が小さく振動した。
――ACCESS DENIED。
廊下は、昨日と何も変わらない。人は行き交い、システムは正しく動いている。どこにも破綻はない。
違っているのは、天城の判断が、この場所から消えたことだけだった。
自席に戻ると、新人が不安そうにこちらを見ていた。
「……天城さん」
天城が解雇を伝えると、新人はその場で崩れ落ちた。
「俺、ここでやっていけないっすよ……」
体がスライムのように溶け、魂みたいな蒸気が、もくもくと立ち上る。
天城は一瞬だけ立ち止まり、
「……大丈夫だ。すぐ慣れる」
そう言って、端末を机に置いた。
それが、この場所に残した最後の物だった。建物を出ると、昼の光が街を均一に照らしていた。
中心都市は、今日も正しく機能している。歩行者の流れは途切れず、信号は無駄なく切り替わり、誰もが迷いなく進んでいた。そこに混じりながら、天城は歩いた。行き先は決めていない。ただ、流れに従っている。
駅までの道で端末を取り出す。
習慣の名残だった。
画面には、短い表示が出る。
――権限がありません。
それだけだった。
昨日まで当たり前に使えていた機能が、すべて切り離されている。天城は端末をポケットに戻した。不思議と、胸はざわつかなかった。
部屋に戻ると、空気が少しだけ冷たく感じられた。
ワンルームの室内は整っている。色の少ない家具、最低限の生活用品。長く住むつもりのない部屋だった。
天城は荷造りを始める。
専門書、設計資料、業務用の周辺機器。
必要か不要かの判断は速い。迷いはない。箱はすぐに埋まっていく。
クローゼットの奥、小さな引き出しに手を伸ばしたとき、指が止まった。
中にあったのは、三つの物だった。
一本の計量スプーン。
銀色だが光沢はなく、持ち手の縁がわずかに削れている。裏側には「15ml」と小さく刻まれていた。業務用でも家庭用でもない、中途半端な大きさ。
隣には、古いグラスが一つ。
背は低く、厚みのある底。縁は少し欠けていて、光に透かすと気泡の跡が残っている。透明というより、わずかに黄ばんだ色だった。
そして、折り畳まれた紙切れ。
走り書きのメモだ。
天城はそれを広げる。
文字は乱れている。
インクの濃淡も一定ではない。
〈苦味:少量〉
〈香り:強すぎると逆効果〉
〈温度:体温より少し低く〉
意味の通らない断片。
仕事とは無関係だ。提出した覚えもない。
天城は、三つを順番に見つめた。
いつ、なぜ、これを残したのか。
思い出せない。
それでも、箱に入れる気にはならなかった。
「……なんで、これなんだ」
声に出してみても、答えは出ない。
理屈はいくらでも付けられる。分量を測るため、感覚を補正するため、再現性を保つため。
だが、それは理由ではなかった。
天城は、計量スプーンとグラスを机の上に置き、メモをその横に滑らせた。それ以外の物は、すべて箱に収める。
部屋は、さらに静かになる。
窓際に立ち、外を見る。
昼の都市は、隙がない。影は薄く、光は均一で、すべてが最適化されている。
「……正しく動いてる」
確認するように呟く。
ここでは、判断は必要とされない。
選択は、すでに用意されている。
天城は視線を戻し、机の上の三つを見た。
銀色のスプーン。
欠けたグラス。
意味の分からないメモ。
それだけが、この部屋に残った。
「次は……」
言葉を切り、天城はそれ以上考えるのをやめた。
今は、判断を下す気になれない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
この都市に、もう自分の判断を置く場所はない。夜になっても、中心都市は暗くならなかった。
窓の外に広がる景色は、昼とほとんど変わらない。ビルの輪郭はくっきりと照らされ、道路は規則正しく光り、遠くまで視界が通る。夜というより、照度を落とした昼の延長だった。
天城は、窓際に立ったまま、その景色を眺めていた。
人はいる。
確かに、いる。
車は流れ、歩行者は一定の速度で進み、信号は正確に切り替わる。誰も立ち止まらず、誰も迷わない。目的地を失った人間は、この都市には存在しないように見えた。
「……静かだな」
音がないわけではない。
だが、生活音が薄い。
怒鳴り声も、笑い声も、ため息も、ここまで届かない。すべてが、適切な距離で処理されている。
天城は、ガラスに映った自分の姿を見る。
表情は変わっていない。
仕事をしていた時と、ほとんど同じ顔だ。
それでも、何かが違う。
「正しく動いているはずなんだ」
この都市は、正解の集合体だ。
効率、秩序、安全、最適化。
どれも欠けていない。
それなのに、胸の奥に引っかかる感覚がある。
判断する余地がない。
迷う必要がない。
選択は、すでに決まっている。
それは安心でもあり、同時に息苦しさでもあった。
天城は、無意識に手を動かし、ポケットから計量スプーンを取り出す。銀色の表面が、夜の光を反射した。次に、机の上から古いグラスを手に取る。厚みのある底が、掌に重みを残す。
意味はない。
今は、使う予定もない。
それでも、手に取ってしまう。
グラスを窓辺に置くと、都市の光がその中に歪んで映った。直線で構成された景色が、わずかに曲がる。
「……歪んでるな」
それは、グラスのせいだ。
だが、天城は視線を外さなかった。
この都市では、歪みは排除される。
測れないものは、想定外として扱われる。
判断保留も、その一つだった。
天城は、走り書きのメモを思い出す。
苦味、香り、温度。
意味の分からない言葉の断片。
あれは、正解を出すためのものではない。
むしろ、正解を出さないためのメモだった。
「……そういうことか」
小さく呟く。
自分は、この都市に向いていなかったのではない。
この都市が、自分の判断を必要としていなかっただけだ。
天城は、窓を開けようとして、手を止めた。
この建物の窓は、簡単には開かない。必要がないからだ。
外の空気を吸うという行為すら、最適化の対象になっている。
しばらくして、天城はグラスを机に戻した。
窓の外では、都市が今日も正しく動いている。
何一つ、壊れていない。
壊れたのは、
判断の置き場だけだった。
「……外に出るか」
それは決意ではない。
ただの確認だ。
この内側に、もう居場所はない。
それだけは、はっきりしていた。
天城は窓から背を向け、部屋の灯りを落とした。
夜の都市は、相変わらず明るかった。




