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ブレンドコーヒー、ブラックで

作者: 大塚紫苑

 喫茶店の店主は無口な方がいい。このお店を始める直前に、師から言われた言葉だ。店を開いてから約四十年、師の言葉を忠実に守ってきた。そのせいかどうかはわからないが、毎日常連の客が数人来るだけになってしまった。今日も朝から夕方までに来た客は、常連の煙草屋の婆さんと植木屋の爺さんだけだった。そろそろ本当に潮時なのかもしれない。

 建て付けの悪い扉が、ぎしぎしと音を立てながらぎこちなく開いた。扉が開きづらそうにしている様子で、客が常連でないことはすぐにわかった。店に入ってきたのは就活生らしい装いをした若い女性だった。若い女性が、しかも就活の合間に一人でこんな古びた喫茶店に来るなんて、珍しい。

「ブレンドコーヒー、ブラックで」

 まるで常連のような、どこか懐かしさを感じさせるような口振りで言われて、少し驚いた。もしかしたら彼女は以前にもこのお店に来たことがあるのかもしれない。彼女はそのまますぐに椅子には座らずに、店内をじっくりと眺めていた。天井も壁も煙草のヤニだらけで、装飾も薄汚れて、全体的に古ぼけている店内をずっと眺めて、何が楽しいのだろうか。椅子に座ってからも彼女はしばらく店内を眺めていたが、珈琲を出したらすぐに正面に向き直った。そして、遠慮がちに口を開いた。

「すみません、店内の写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか?」

 言われた瞬間、ひどく腹が立った。こんなボロい店の写真を撮って何が楽しいのだろうか。最近の若者はなんでも写真に撮りたがる。徒らにあらゆるものを撮っていたら、写真の価値も撮られる物自体の価値も下がってしまうとは思わないのだろうか。もっとも、こんな時代錯誤な考え方のせいで自分の店を潰しかけてしまったのかもしれないのだが。

 怒鳴り散らしたいところだが、せっかく来た常連でないお客さんに悪いイメージを持たれるのは好ましくない。良いとも悪いとも言えずに黙っていると、彼女は再び口を開いた。

「レトロな喫茶店に行くのが私の趣味なのですが、両親それぞれに良い喫茶店がないか聞いたら、二人に同じお店をおすすめされたんです。最寄り駅がすぐそこの駅で、踏切のそばにあったと言っていました。二人ともお店の名前は忘れていたのですが、近くに他に喫茶店はないので、このお店なんじゃないかって思うんです。だから、写真を撮って両親に見せたくて」

 少し緊張気味に、こちらの様子を伺いながら早口で彼女に理由を言われた。かなり久しぶりに心が震えるような気持ちの高揚を感じた。そして次の瞬間、先程までの自分の考えの愚かさを恥じた。たった数秒で目まぐるしく感情が動いたことに動揺して、答えに窮していると、彼女は不安げな表情で手に持ったスマホをしまいかけてしまった。なんとしても防がねばならない。

「そういうことなら、どうぞ」

 感情の高ぶりとは裏腹に、自分でも驚くほど冷たく無感情な声が出た。それでも、彼女は何度もありがとうございますと頭を下げて、小汚いだけの店内を写真に納めた。満足いくまで写真を撮った後、ブレンドコーヒーのブラックをおかわりして彼女は店を出た。

 客が去って再び静かになった店内で、彼女が去り際に言ったありがとうござますという言葉の余韻だけが残っていた。もし彼女がこの近辺の企業の面接帰りだったとしたら、是非とも内定をもらってその会社に勤めてもらい、このお店の常連になってほしいと思った。

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