12話 水底の神殿、漆黒の太陽
空気なのか、泥なのか。吸い込むたびに肺が痛んだ。
意識が深い海の底に引きずり込まれるような、そんな“濁り”が、世界を包んでいた。
ここは、化け物が封印されていた噴水の中の魔法領域。
ねじれた魔力の深淵――光も音も歪んで消えていく、閉鎖空間。
今はここに、魂を操られた生徒たちが攫われていた。
中央には、倒れ伏した生徒たち。
虚ろな瞳、動かない体。そこに「いる」はずなのに、まるで「誰もいない」ようだった。
「……ミゲル……!」
ユーシルは叫びながら駆け出そうとするが、他にも悲惨な状態の生徒たちの姿が目に入り、足が止まる。
魂から完全に切り離されかけ、生気を失い、ピクリとも動かない人形のようになった彼らは――ミゲルやフィオナより先に攫われていた生徒たちなのだろう。
フィオナは、ぼろぼろのミゲルの手を握り、膝をついて泣いていた。
「ミゲル……お願い、目を開けて……っ」
ユーシルには、フィオナの背中しか見えない。
だが、その小さな背に宿る激しい揺らぎだけは、確かに伝わってきた。
そのとき――ユーシルの背後に、黒い影がゆらりと揺れて現れる。
「どれも満足のいく魔力を持った器ではなかった。あの女は、特にな」
化け物の足元には黒い影が染みのように広がり、その声は笑っているようで、どこか乾いていた。
「お前たち“人間”は、魔力の器としては粗悪すぎる。誰も俺を満足させるだけの魔力を持っていない……使い物にならん。しかしお前の中にはそれが見えた。だから俺はお前がここに来るように仕向けたのだ」
ユーシルは思わず身をすくめる。
化け物が懐から何かの欠片を取り出す。
「そうだな、これもだ。お前たちはずいぶんと大事そうに育てていたな?」
それは、ネクロム先生からもらった魔法石の種だった。
ユーシルが“フィオナの姿をした”化け物に、誤って手渡してしまった、あの種。
レオンに渡すために、三人で育てようと約束した種が、いまは化け物の手にある。
「見たことのない魔法石だ。……所詮、雑草のようなものだろう」
ミシミシと、握り潰す音が空間に響く。
破片が、床にぱらりと落ちた。
その瞬間、ユーシルの胸の奥で、何かが崩れた。
――だが、その欠片がかすかに橙色の光を宿していたことに、誰も気づかなかった。
✻✻✻
「……なんで……」
ユーシルの喉から、声が漏れる。
「なんで僕には……魔法も、戦う力も、なにひとつないんだ……」
肩を震わせながら、それでも前を見据えた。
「それでも……僕はここにいたい。友達と一緒にいたいって、そう思ったから……!」
空間の空気が、かすかに震える。
ミゲルに治癒魔法をかけ終えたフィオナが、そっと顔を上げる。
その表情には、前を向こうとする強さが宿っていた。
「……ずるいよ、ユーシル」
そう言いながら、フィオナはユーシルのもとへと歩み寄る。
足元はふらついていたが、視線は真っすぐだった。
「そんなふうに言われたら、私だって……向き合わなきゃって思っちゃうじゃない」
ユーシルの目の前で立ち止まり、フィオナは小さく息を吸う。
「私もね……、あなたと同じなのよ。……私は物心つく前に捨てられて……魔法界に迷い込んで、今の家族に拾われたの」
その声は、静かで、確かだった。
「私はただの人間だった。迷い込んだこの世界で人工的に魔力を得ただけの、人間。ずっと、“劣等”だと思ってた。優等生でいなきゃ、誰にも受け入れてもらえないって……自分に言い聞かせてたの」
そして、少しだけ微笑む。
「でもね、君がそう言ってくれるなら……こんな私でも、ここにいたいって思っていいんだって、そう思えるよ」
その言葉を聞いた時、ユーシルはようやく、自分がずっと欲しかったものが何かを悟った。
「僕には、何もできないよ。魔法も使えないし、誰かを守れる力なんて……ない。でも、それでも……僕はここにいたい。友達のそばにいたい。友達をひとりにしない。それくらいしかできない……。僕は“戦えない”。でも、逃げない。友達が誰かに笑われるなら、僕は隣で怒るし、友達が泣くなら、何も言わずにずっとそばにいるよ。それが僕の“魔法”だって……信じたいんだ」
その言葉に応えるように――砕けた魔法石の破片が、かすかに光り始めた。
領域の奥から、あたたかな波動が広がる。
化け物が眉をひそめる。
「……お前たち、何を……起こした……?」
「僕たちの想いが、ここにある!」
フィオナはそんなユーシルの言葉にふっと柔らかな笑みをこぼして、化け物に対して杖を構えた。
「ありがとう、ペンバートンくん……いえ、ユーシルくん」
✻✻✻
光が弾け、戦闘が始まる。
フィオナが素早く詠唱を重ね、水と風の複合魔法が渦を巻き、化け物の足元を切り裂いた。
化け物は怯まず魔法を放つが、それはフィオナではなく、ユーシルに向かっていた。
フィオナが即座に防衛魔法を展開し、身を挺して防ぐ。
「邪道な魔力を持つ出来損ないの無能人間に、何ができる?」
化け物の魔法が唸りを上げる。
先程までとは違う。一切逃さぬ集中砲火だ。
フィオナの杖が弾かれ、逸れた魔法がユーシルの背後へ――
「ユーシルッ!!」
炸裂――かと思われたその瞬間、別の魔法が飛来し、衝突。
爆風の中で、ユーシルは吹き飛ぶだけで済んだ。
彼を守ったのは――ミゲルだった。
折れた杖を口で咥えながら放った一撃。
「……ぐ、うっ……!」
だが、ミゲルはもう動けない。
手足は折れ、出血もひどい。意識が戻ったわずかな時間で、即座に判断し行動したのだ。
「やはり、判断力には優れているな。だが、もう終わりだ」
化け物が狙いを定め、魔力を再び解き放つ。
「やめてっ……やめてーーーーっ!!」
「ミゲル!!」
フィオナが名前を叫びながら駆け寄るよりも先に、ミゲルの体が崩れ落ちる。
ミゲルの瞳は薄く開かれたまま、焦点は合っていない。彼の魔力は既に限界を超えていた。
地面を這っていたユーシルの手に、何かが触れた。
――橙色の光。
砕かれたはずの魔法石の種、その破片。
「お願い……みんなを……守って……!!」
祈るように、両手で握りしめる。
その瞬間、眩い光が爆ぜた。
化け物の魔力がかき消され、体が吹き飛ぶ。
「ぐ……っ!?何だ、この力は!?」
それでも、奴は崩れた体を再生させ、なおも迫ってくる。
「貴様……その石は……何だ……よこせ、よこせぇええええ!!」
まるで災厄のような凄まじい咆哮。
フィオナはなんとか防衛魔法を展開するが、そこにはあまりにも大きな力の差があった。
防衛魔法が砕け、フィオナの体は宙を舞い激しく打ち付けられる。
そしてユーシルだけが、その場に残される。
魔法も撃てず、体も動かず――ただ、恐怖に震えていた。
だがそのとき、脳裏に――あの言葉がよぎった。
『なにかあったら、すぐに俺を呼んで』
「レオン……くん……」
ぼろぼろの手をぎゅっと握りしめる。
もう、無理かもしれない。
だけど、なぜか――ユーシルの記憶にいるレオンなら、きっと守ってくれる。そんな確信のようなものがあった。
「たすけて……レオンくんっ!!」
涙が、零れる。
名前を呼んだ時、記憶が痛むような間があったが、今のユーシルにそれを気にする余裕は無かった。
ただ、何故か安心して全てを任せられる存在に思えて仕方がないレオンへ願った。
その刹那――黒い羽根が領域内、神殿を裂いた。
「カァアアアッ!!」
漆黒の鴉が飛来し、炎を纏ったかと思えば、太陽のような力で化け物の魔力を押し潰す。
漆黒の鴉が従えし太陽の光と熱は、その場の者を癒やし、温かく包み込む。
化け物の体は灼熱の炎に灼かれて消滅。
再生したところですぐさま灼かれて塵となる。
そのまま化け物は神殿の柱に激突。止まることもできず、瓦礫の海へと沈む。
太陽から逃れようとする化け物の体は震えて、絶叫している。
黒い羽根が空を覆い、暗闇が奴の視界を塗りつぶす。
やがて、羽根が舞い落ちたその先に――
レオンが立っていた。
その腕の中には、ボロボロになったユーシル。
「ユーシル。遅くなって、ごめん。もう大丈夫だ。あとは任せて」
その声を聞いた瞬間、ユーシルは、安堵と恐怖の狭間で意識を手放した。
レオンは、静かに目を細める。
化け物の姿を見て――何かに気づき、心の奥で“納得”したような表情を見せた。
そして、冷たく低い声で呟く。
「……あの時、ユーシルを傷つけたのも――お前か」
漆黒の魔力が、静かに、しかし確かにレオンの体から滲み始める。
怒りと、何か深い決意を抱えて、少年は、いまその運命に真っ向から立ち向かう。