10話 静寂に潜むもの
ミゲルがいなくなった。
その事実は、もはや誰にも隠し通せないほどに学園全体へと広がっていた。
ミゲルだけではない、この短期間で数名の生徒が同様にいなくなっていたのだ。
噂、で片付けられていたものが一気に真実と形を変えて広がる。
「……ロードへリアの子息が行方不明になったって、本当?」
「今朝、教師たちが動き始めたらしいよ。夜間の見回りも強化されてるって……」
「ミゲルって……あのミゲル・ロードへリア?」
朝餐会の空気は、パンの香ばしさもスープの温かさも掻き消してしまうほどに、重く張り詰めていた。
ユーシルは手にしたスプーンを動かせないまま、隣のレオンに小さく問いかけた。
「……ねえ、ミゲルくんって、有名な人なの?」
レオンは一瞬だけ驚いた顔をして、それから静かにうなずいた。
「ああ。ユーシルは知らなくて当然か。ロードへリアは貴族で、精巧な杖を造れる名家として有名なんだ」
「そうだったんだね……」
周囲のざわめきを聞くだけで、それがどれだけ重い名前を持つ家柄かは分かった。
レオンの声が少し低くなる。
「“ロードへリア家の杖”は王都の魔法士から田舎の治癒師まで、幅広く使われてる。魔力伝導に優れてるうえ、扱いやすい。しかも、あの家は平民でも分け隔てなく扱ってる。最近変わりつつあるとはいえ、貴族の中では、かなり珍しい思想を持ってるよ」
「……ミゲルくん、本当に優しかった。僕みたいな奴にも、普通に話してくれて……杖まで作ってくれたんだ」
思い返せば、彼は誰にでも分け隔てなかった。優しくて、飾らなくて、そして何より、自由だった。
レオンが少しだけ視線を伏せる。
「だからこそ学園にとっても、今回の件はただの“生徒の失踪”じゃ済まされない。教師たちも、もはや隠せないんだろう」
実際、レオンの言葉通り、朝の終わりには教師たちからの通達があった。
「昨晩、生徒が所在不明となった。現在、学園は厳重な警備体制を取っており、当面は授業、寮長命令以外での外出を禁止とする。夜間は教師が巡回にあたる。生徒諸君は、寮内で静かに過ごすように」
命令というよりも、静かに訴えかけるようなその口調は、教師たちの焦りをそのままに伝えていた。
✻✻✻
日が沈み、寮へと戻ったユーシルとレオン。
部屋に戻ると、レオンは制服のまま本棚から書類の束を取り出し、ぱらぱらと目を通した。やがて荷物をまとめると、ユーシルの方を振り返った。
「今日の夜は、寮長に呼ばれているんだ。記録の整理を手伝ってくれって。たぶん、少しかかる」
「……うん。わかった」
ユーシルはベッドの端に腰かけ、何気ない顔を装いながら答える。
でもその様子を、レオンはじっと見ていた。
そして、ふと少し声を潜めて言う。
「……ユーシル。今日だけは、絶対、部屋を出るな」
「え?」
「何かあるかもしれない。俺も詳しいことは聞かされてないけど……教師たちの様子、ただごとじゃない。いいか、“誰かを探しに行く”とか、“少しだけ”とか、そういうのもダメだ。……分かった?」
真剣な目だった。
レオンがこんなふうに強く言うのは珍しい。だからこそ、余計に不安が増す。
「……わかった。僕、ちゃんと部屋にいる」
その返事にようやく満足したように、レオンは少しだけ口元を緩めてうなずいた。
「いい子だ。何かあったら、すぐ俺を呼んで」
それだけ言い残して、レオンは部屋を出て行った。
✻✻✻
静まり返った部屋。
窓の外では月が薄雲の隙間から顔を覗かせており、帳を下ろした夜の学園が静かに広がっていた。
(……眠れない)
不安や寂しさから逃げるためにベッドに横たわってみても、胸の奥のざわめきは静まらない。
そんなとき、ふいに――
(……西の塔)
頭の中に、不意に浮かび上がったその場所の記憶。
昨日、ミゲルとフィオナと三人で訪れた、あのステンドグラスと噴水の間。
魔法石の種に魔力を注いで、わずかに芽を出させた――けれど、それきりだった。
(どうして、今……?)
理由はわからなかった。
でも、そこに“行かなければならない”という思いが胸を突き上げてくる。
ユーシルはそっと立ち上がり、クローゼットからローブを取る。
すると、ぽふ、と音を立てて、ベッドの隅から白いものが跳ねた。
「……グルック?」
自分の使い魔である白いうさぎ・グルックが、丸い目を不安そうにこちらへ向けていた。もふもふの前足が布団の端を踏みしめている。
「……大丈夫だよ。すぐ戻るから。ね?」
そう言いながら、ユーシルはグルックを抱き上げた。その柔らかな毛並みが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
と、そのときだった。
バサッ!!
窓が風にあおられて開き、闇を切り裂くように一羽の黒い影が飛び込んできた。
「わぁっ!?」
漆黒の羽を広げた鴉が、一直線にユーシルの頭上へ舞い上がり、鋭く嘴で頭をつついた。
「いたっ……! な、何……!?」
驚いて身体をのけぞらせた拍子に、グルックが腕の中から飛び出す。
だがそれでも鴉は逃げず、まるで行く手を阻むかのように、ぐるりと部屋の中を旋回した。
「やめてっ!」
叫びながら、ユーシルはドアへ駆け寄った。
グルックを抱え直し、振り返らずに廊下へ飛び出す。
後ろ手に勢いよく扉を閉め、ドアノブを握り締めたまま息を呑む。
その向こうで、コツン……と窓辺に何かがぶつかる音がしたが、中を確認する気にはなれなかった。
(なんだったんだろう……あの鴉)
だが……。
(それでも、行かなきゃ)
月の光が照らす寮の廊下。息を整え、ユーシルはもう一度グルックをぎゅっと胸に抱いた。
「行こう、グルック。……あの部屋へ」
誰もいない夜の学園。
その静寂を破るようにして、ユーシルは西の塔へと足を踏み出した。
――何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、あのステンドグラスの噴水の間で、何かが“始まっている”気がしてならなかった。
(ミゲルくん……)
心の中でその名前を呼びながら、ユーシルは夜の学園を駆けていく。
続く静寂の向こうで、何かが微かに、呼吸しているように感じながら。