9話 誰も知らない夜の話
晩餐会の余韻がまだ胸に残る中、フィオナがふいに声を上げた。
「……あ、やだわ。図書館に手帳、忘れてきちゃったかも」
「忘れ物?珍しいな。でもどうする?図書館のある塔って、寮から結構距離あるぞ」
「一人で行くのはちょっと怖いし……ミゲルも一緒に来てくれない?」
そうフィオナが唇を尖らせてせがむと、結局「しょうがねぇな」と肩をすくめて付き合うことにしたミゲル。
こうして、ミゲルとフィオナは図書館へ向かい、ユーシルとレオンはふたりで先に寮へ戻ることになった。
夜の学園は、晩餐会の賑わいがまるで幻だったかのように、静まり返っていた。
月明かりが木々の隙間を縫って石畳を照らし、さらさらと葉擦れの音が風に乗る。世界はゆっくりと現実から夢へと滑り込んでいく。
学園の外を囲む森や海の方からは、魔法動物たちの遠吠えが微かに響いてきた。
その音に耳を傾けながら、ユーシルとレオンは寮への通路を歩いていた。
「ねえ、あれ……なんだろう」
立ち止まったユーシルが、中庭の奥を指差す。
月影の中に、蔦に覆われた白いガゼボが浮かび上がっていた。まるで誰にも見つけられない、秘密の場所のように。
「ああ……あれは休憩所だよ。学園の創設当初からあるって聞いたことがある。今じゃ、使う人もほとんどいないみたいだけど」
レオンはそう言って微笑み、ユーシルを先に促すように首を傾げた。
「……行ってみてもいい?」
ユーシルの言葉に、レオンは優しく頷いた。
「もちろん」
石畳を踏みしめ、ふたりはゆっくりとガゼボへ向かう。
夜の静寂が、わずかな緊張を包み込む。
月の光が白い柱を撫で、風が天蓋をやさしく揺らしていた。
中に入り、ベンチに腰を下ろすと、ユーシルはふと視線を落とした。
その先にあったのは、レオンの右手。
何気ない仕草だったが、晩餐会で耳にした話が脳裏に蘇る。
寮生たちが噂していた、レオンの手袋のこと。
あのときレオンは一切何も答えずに、ただ黙ってユーシルの皿に料理をよそっていた。
けれど今、ふと聞いてみたくなった。
「ねえ、レオンくん……」
そっと呼びかけると、レオンは小さく目を細めた。
「うん?」
「なんで、いつも手袋をしてるの?……あ、ごめん、いやだったらいいんだ!ただ……皆が話してるの聞いて、ちょっと気になって……!」
慌てて言い訳を継ぎ足すユーシルに、レオンは一度視線を伏せ、静かに微笑んだ。
そして、なんの躊躇いもなく片手を持ち上げる。
そのまま唇を布に寄せ、そっと咥えて端を引く。
小さな音を立てて、黒い手袋が滑り落ちていく。
手のひらから指先へ。
月の光に晒されたその手は、思わず見惚れるほど美しかった。
細く整った指、陶器のような白く繊細な肌。
けれど、薬指にはひときわ目を引く銀の指輪がひとつ、まるでレオンの一部であるかのようにぴたりと嵌められていた。
その指輪を目にしたユーシルの胸が、きゅっと小さく締めつけられる。
「あ、それ……もしかして、彼女とおそろいなの?」
思わず口にしてしまった言葉に、戸惑いと、言いようのない後悔が押し寄せた。
――なんで、こんなに気になるんだろう。
理由はわからない。けれど、心の奥深くで、ずっと前からこの人を知っていたような気がしてならなかった。
触れたこともないはずのその手が、どこかで見たことのあるような気さえした。
言葉にはできないまま、胸の奥が波立っている。
まだ出会って間もない、魔法使いの友達。
ただの友達のはずなのに、どうしてこんなにも心が揺れるのか、自分でもわからなかった。
レオンは指輪を見つめたまま、静かに首を横に振る。
「これは、そういうものじゃないよ」
そのひとことが、ユーシルの胸をふわりと軽くした。
(……まただ。なんだろう、この気持ち)
レオンは続ける。
「おかしな話だけど、生まれたときから嵌ってたらしいんだ。一度も外せたことがない」
「……生まれたときから?」
「うん。変だよな。両親は、『忘れてるだけで、大切な何かかもしれない』って言ってた。たしかに、これを見てると、そんな気がしてくるんだ」
「その指輪がどんなものなのか……いつか分かるといいね」
ユーシルの言葉に、レオンは静かに頷いた。
何も言葉のない時間が流れる。
けれどそれは、不快な沈黙ではなかった。
むしろ心地よく、あたたかくて――どこか懐かしかった。
夜風がガゼボの中を通り抜け、ふたりの髪をやさしく揺らしていった。
✻✻✻
寮の扉をそっと開けたとき、ふたりは当然、ミゲルが先に戻っているものだと思っていた。
だが、部屋の中はひっそりと静まり返っていた。
ミゲルのベッドは整ったまま。荷物も動いた形跡がない。
空気だけが、不自然に澄んでいるように感じられた。
「あれ?ミゲルくん……まだ図書館?」
「いや。あそこはもう閉まってる時間だ」
ふたりは顔を見合わせる。
晩餐会の前からささやかれていた噂が、ユーシルの胸に淡い不安を灯した。
けれどその夜は、それ以上何も起きず、ミゲルが無事に戻ってくることを願いながら眠りについた。
……だが、翌朝になっても、ミゲルは寮に戻らなかった。
朝餐会にも、教室にも、その姿はどこにもなかった。
ざわめく生徒たちの声が耳に入ってくる。
「また?今度はレーヴェンシュタインのロードへリアが……」
「夜中に、突然姿を消したってさ……」
寮のホールでは、またひとつ増えた失踪事件の噂がささやかれていた。
その声を耳にしながら、フィオナは涙をこぼしていた。
彼女は言った。あのあと、たしかにミゲルと一緒に寮まで帰ったのだと。
男子部屋と女子部屋に別れるホールで「おやすみ」と言葉を交わしたのが、最後だったと。
ミゲルは、一体どこへ消えたのか。
静かに、しかし確実に、不穏な気配が学園を包みはじめていた――。




