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女が行き場を無くす時

 音無リツがベッドの上で目を覚ました。


(……私……眠っていた……?)


 もう夏ではあるが、裸のままだったせいでひどく体が冷えている。リツは身震いしながら普段着のローブを身にまとうと、すぐに電話をかけた。相手はもちろん決まっている。


「ユウジさん、今夜はどこの誰を殺したらいいんですか?」


 京木ユウジロウの答えは「待て」であった。


「襲ってきたら別だが、自分から追わなくてもいい。白金組の若衆がひっこんでる。そろそろ、幹部のジジイどもが手打ちの相談をしてるんじゃねぇかな」

「今夜は、誰も殺さなくていいんですね」

「不満か?」

「…………」


 リツはどう答えていいのか、わからなかった。


「もう一つの指示は忘れてねぇよな?」

「えっ?」

「なんだったかなぁ……ああ、そうだ。中村とかいう刑事。今日も会ったんだろう?」


 ユウジロウがその名前を口にした途端、リツがつぶやく。


「あの人、イライラします」

「悪いがもう少し辛抱してくれ」


 ユウジロウはその言葉を、単に中村がリツの好みではないと解釈した。


「しばらくは、こっちの店に来なくてもいい。あの刑事を誘惑する方法でも考えておいてくれ」


 ユウジロウが電話を切った後、リツはその姿勢のまま固まった。


(困った)


 素直にそう思った。


 受話器を置いた京木の背後から、彼の仲間の一人であるヒデが声をかける。


「一条という刑事が京木さんに用があるとか訪ねてきましたが、京木さんは留守だと言って追い払っておきました」

「そうか」

「京木さん。前から気になっていたんですが、なぜリツ姐さんを抱かないんですか?」

「うん?ああ、そうか。ジョーやマツには言ったが、お前にはまだ話してなかったんだな」


 京木はグラスにウイスキーを注ぎながら言った。


「リツは女じゃねえ」

「はい?」


 ヒデは困惑する。


「なにか不具でもあるんですか?」

「いや、まさか。ジョーとマツがお前と同じ質問をしたのは、俺がリツに『服を脱いで回ってみろ』と命令した時さ。二人とも惚れ惚れするような目でリツの体を拝んでたぜ」

「だったらなおさら……」

「あいつは心が子どものまんまなのさ」


 京木はグイっとウイスキーをあおった。


「女じゃねぇってのはそういうことだ。女なら、いくら俺の命令でも服を脱ぐのは嫌がるぜ。あいつは、両親を失った5歳の頃から変わってねえ。いや、変われねえのさ。店の嬢として使わないのも、それが理由よ」

「じゃあ、リツ姐さんが心から女になったら抱くと?」

「まあな」


 ここでふと、京木はさきほどのリツの言葉を思い出した。中村刑事にイライラする、と。


「ああ、もしかしてリツは……」

「どうしたんですか?京木さん?」

「くくくくっ……」


 京木は笑いを噛み殺そうとしたが、無駄だった。


「なあ、ヒデ。リツが女になる日は、案外すぐかもしれねえぞ」


 読心術などないヒデには、京木の考えは何も読めなかった。例えば、事が済んだ暁にはリツに中村刑事を殺害させよう、などとは。


「話は変わるんですが、京木さん。白金組の縄張り(シマ)をぶんどった後はどうするんです?店を広げるのはいいんですが、嬢がいなきゃ話になりませんよ」

「昔のツレをあてにする。女はいくらでも集められる。縄張り(シマ)をどんどん広げるぞ、ヒデ。いつかお前にも店を任せるから楽しみにしてろ。白金組の次は……黒波組を喰う」

「うわぁ、俺たち確実に死後は地獄行きですね……」

「当たり前じゃねぇか。だが、地獄の沙汰も金次第、だぜ?生きてるうちに稼がなきゃ損ってもんだ」


 京木はもう一つグラスを出すと、そこへヒデの分のウイスキーを注いだ。


 時間を持て余したリツはアパートから外に出た。夕陽を背中に浴びながら、最寄りの書店を目指す。とにかく時間を潰せるものが欲しかった。


「彼氏に愛される秘訣大公開……」


 そんな売り文句が表紙に書かれた女性向けファッション雑誌を、リツはペラペラと開いてみる。


『美容やファッションも大事ですが、一番大切なのは笑顔でいること!あなたと一緒にいるのが楽しいと彼にしっかりアピールしましょう!これから紹介する表情筋エクササイズはーー』


 そこまで読んだリツは無言で雑誌を棚に返す。かえって劣等感を刺激されたことに後悔しながら、リツは書店を後にした。


「すみません!そこのお姉さん!」


 そう呼びかけられたリツが振り向く。そこにいたのは、自分を狙うヤクザでもナンパ師でもなく、恵まれないアフリカの子どもたちへの募金を求める詐欺師でもない。自分と同じくらい若い女性だ。


「なんでしょうか?」

「よろしければ、こちらをどうぞ!」


 女性は通行人にチラシを配っているようだ。彼女から受け取ったチラシにリツが目を走らせた。


「行き場の無い女性を支える会……?」

「はい!」


 女性が元気よく答える。


「貧困であるとか、生まれつき障害をもっているとか、家族に問題があったり、教育を受けられなかったとか……そういう女性たちが、犯罪や、安易に売春する道へ走らないよう、相互に支え合うための会なんです」

「私が『行き場のない女性』に見えましたか?」

「そういう問題ではありません!」


 女性が断固とした口調で言う。


「『支える会』であって、『救う会』ではないのです。お互いの知識や技術を交換しあうことで、自分の居場所をしっかりと守れるようになること。それが私たちの会の目的なんです。だから、自立している女性の会員さんも大歓迎ですよ!」


 リツは無言でしばしチラシを見つめた。やがて女性に尋ねる。


「この会の代表の、村田マオさんとお話しをしてみたいのですが……」

「申し遅れました」


 女性が笑顔で頭を下げた。


「私がその、村田マオです!」


 マオとリツは、ひとまず近くの喫茶店に入って話をすることにした。


「音無リツさん……ですか。では、音無さん。あなたの周りで、何か困った問題を抱えている女性はいらっしゃいますか?」

「一人知っています」

「どんな方です?」

「私です」

「……なるほど」


 リツから聞き返された時は否定したが、村田マオは自分の勘がそれほど狂っていなかったことに満足した。やはりこの人もまた、『行き場のない女性』なのだ。


「私の命の恩人が風俗店のオーナーで……私もそこで働いているのですが」

「ちょっと待ってくださいね、音無さん」


 マオがいきなり話の腰を折る。


「いくら命の恩人とはいえ、それで体を売るというのは……」

「いいえ、違うんです。私はその……裏の方の仕事を手伝っていまして」

「ああ、なるほど。すみません、早とちりをして」


 リツが言う裏の仕事が、まさか人殺しであるとはマオは思わない。


「だけど、最近気になる人ができたんです。その方も私の命の恩人で……その人……そういう仕事は許せないみたいで……」

「なんだか波乱万丈な人生を送ってきたみたいですね」


 命の恩人が何人もいるのは稀なことだ。マオが話をまとめる。


「風俗店の仕事をやめたら命の恩人であるオーナーを裏切ることになるし、仕事を続けたらもう一人の命の恩人から嫌われる、と。なるほど、そういう板挟みの状態にあなたはある……」

「…………」

「少しくらいワガママになってもいいと思いますけどね」

「ワガママ……ですか」

「私が仮にあなたの命の恩人であったとしたら、私にとって一番良いのは、あなた自身が幸せになることですよ。もしもそうでないとしたら……その人は命の恩人という立場を利用してあなたをコントロールしようとしている、と私なら考えます」


 リツは気まずくなった。間接的にとはいえ、京木ユウジロウの陰口を聞いているようでいたたまれなくなる。リツは別の話題をふった。


「村田さん。『女』って何なのでしょうか?」

「へ?『女』?」

「私、前に言われたことがあるんです。まだお前は『女』ではない、と」

「うーん……どういう文脈で言われたのかわからないので何ともいえませんが……」


 マオは、脈絡なく出された哲学的なその質問に、頭を掻きながら答える。


「女というのは……まぁ生まれた時から女性であることには違いがないのでしょうが……気がつけばなってしまうものですね。しかも、なってしまったら、もうなる前には戻れない。母であるとか、姉であるとか、どこかの会社員であるとか、そういう仮面とはまた違うものだと思います」

「…………」

「音無さん、さっきも言いましたが、私がやりたいのは『救う会』ではないのです。私は私なりに考えてみますが、音無さんも考えてみてくれませんか?そうしてお互いに意見を交換すれば、見えてくることもあると思いますよ。さっきの命の恩人の話も、考えてみてくださいよ」

「はい……本日はありがとうございました」


 そう頭を下げるリツにマオが手を振る。


「かしこまらなくてもいいですよ。私が一応会の代表ということになっていますが、序列なんて無いんです。女性一人一人の力は小さくても、集まってお互いに協力すれば大きな力になって、支えあうことができるんです。まだまだ女性が苦労する時代は続くと思います。いつか10年とか、20年くらい先には、こういう団体がもっと増えているといいのですが……」


 マオは遠い目をしながらそう語った。


「ところで村田さん」


 リツがマオの左手首に着けられた、水色のリストバンドに目をつける。


「それ、可愛らしいですね」

「えっ?ああ……どうも、ありがとうございます」

「?」


 マオの態度が急にぎこちなくなった理由を、リツは知らなかった。彼女もまた、かつては行き場を失った女性の一人であったということを。


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