蟷螂の時
朝日が登る。
営業時間が終了した『ミルクアンドハニー』では、またしてもジョーが窓の外を覗き、その様子を京木に報告した。
「白金組の奴らが見えませんね」
京木は驚きもしない。まるで「今日は晴れそうですね」と言われたかのように、気のない返事をする。
「だろうな」
「どうしたんでしょう?まさかリツ姐さんが全員血祭りに?」
「少しはな。だが、いくらリツでも、一晩で白金組の若い衆を全滅はさせられねぇだろう。数が多すぎらぁ」
「それじゃあ?」
「たぶん、親父の雷が落ちたんだろう」
この場合の親父とは、白金組組長、白金ソウタロウのことである。
「リツを撃とうとした若い奴の様子から察するに、上からの指示ではなく、自分たちでの独断専行だ。一人が逮捕られた上に、リツに何人か惨殺されたとありゃ、引かせるしかあるめぇ」
「あ!京木さん、どこへ!?」
立ち上がって部屋から出ようとする京木をジョーは慌てて制止する。が、当の京木は平然としていた。
京木は店のそばにある自動販売機で炭酸飲料を買うと、キョロキョロとあたりをうかがいながら恐る恐るついてきたジョーにそれを投げ渡した。彼らを襲う者はいない。
「ほらな?どうってことねえだろ。ヤクザなんて恐れるほどでもねえんだよ」
この日の午前中もまた、刑事たちは忙しく駆け回っていた。再び白金組を狙った殺人事件が発生したからだ。路上に残された七名の死体は鋭利な刃物によって文字通り八つ裂きにされており、先に襲われた白金組舎弟頭の事件と無関係とは、誰一人思っていなかった。
「日本刀……ですか?」
死体にかかったブルーシートをめくりあげながら、氷川がそばにいる一条刑事にそう問う。
「はい。昨日発見された舎弟頭の遺体を検視した結果ですがね。やはり、凶器はその可能性が高いようです」
「一条さん、少し調べてほしい人物がいます。京木ユウジロウ。風俗店のオーナーをしているそうです」
「かまいませんが、その人と事件に何か関係が?」
氷川は昨日、白金組の男に「京木ユウジロウと一緒にいなかったか?」と聞かれた経緯を話した。リツが銃撃されたのはその直後である。
「なるほど。つまり、京木ユウジロウという男が魔法少女を使って、白金組を襲っている、と」
「少なくとも、白金組はそう考えているようですね。ただ、私に声をかけたということは、ハッキリと正体を掴めているわけでもないのでしょう。それっぽい女性を見つけては、闇雲に襲いかかる可能性があります」
「襲われた音無リツ氏が本当に魔法少女である可能性は?」
「さぁ、まだなんとも。仮に魔法少女だったとしても、まさか『ちょっと変身してみてください』なんて頼んで、正直にしてくれるわけがありませんからね。彼女が住んでいるアパートの住所は聞いていますから、様子を見てみますよ」
「わかりました。では、自分は京木の方を……」
一条が手帳をしまうと、ふと思い出したかのように氷川に尋ねた。
「そういえば、中村刑事の具合はどうですか?」
「やはりしばらく入院が必要みたいです。もう一人こちらに来る予定だった城西署の刑事もずっと病欠していますし……私一人で頑張るしかないですね」
「心中お察しします。刑事課は特別捜査課に協力することになっていますから、遠慮なく頼ってくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
(さて、私は音無リツをあたってみますか)
一条と別れた氷川はさっそく彼女のアパートへ向かうが、空振りに終わることになる。まさか彼女が中村刑事にべったりなどということは、この時の氷川に知る由もなかった。
「あれ?ジュウタロウさん……」
「ああ、リツさん。どうも、こんにちは」
リツが病院を訪れると、ジュウタロウは中庭を散歩していた。
「もう出歩いてもいいんですか?」
「ええ。お医者さんも驚いていましたよ。こんなに回復が早い患者は初めてだそうで」
「…………」
「まるで魔法のようだ、とおっしゃってましたね」
「…………」
「リツさんがお見舞いに来てくれてから、体が軽くなった気がしますよ」
「…………」
「……少し一緒に歩きませんか?」
「ええ」
しばし無言で歩く二人。
「今日もいい天気ですな」
「……天気の話、好きなんですか?」
「いえ、べつに」
ジュウタロウは少し考えてから答える。
「天気はどうでもいいかもしれません。私がさっきリツさんに『いい天気ですね』と聞いたのは、もしもリツさんが『私もそう思います』と答えてくれたら、気持ちが同じみたいで嬉しいから、だから聞いたのでしょうな」
「そうですか」
不器用な男と女は、やがてベンチに腰をかける。リツは約束通り、ジュウタロウのために弁当を作って持ってきていた。
「サンドイッチを作ってきたんです。お口に合うといいのですが……」
「おいしそうじゃないですか」
「私もそう思います」
気持ちが同じになったところでジュウタロウはリツにも勧める。
「あなたも一緒に食べてください」
「えっ……でもジュウタロウさんの分しか作っていませんから。私が食べたら、二人とも後でお腹がすくんじゃないですか?」
「それも、いいんじゃないですか?気持ちが同じみたいで」
「そうですか」
ここでジュウタロウはある物を見つけて指さした。それは庭に植えられたサツキの枝の上でジッとしている。
「ああ、カマキリがいますな」
「ええ、カマキリがいますね」
ジュウタロウが豆知識を披露する。
「以前とある事件の調査で図鑑をいろいろと読みましてね……ご存知ですか?メスのカマキリというのは、交尾した後、オスのカマキリを食っちまうそうで。なかなか、恐ろしい話ですね」
もしも今日もサナエが一緒にいたら「デートでする話じゃないよ!」と一喝したことだろう。残念ながら彼女はいない。だが、幸いにもリツは動じなかった。
「ジュウタロウさん。私のこと、怖いですか?」
「はい?まさか、あなたのことが怖いわけなんかありませんよ。いったい、どうしてまた?」
「私、あんまり可愛くない女ですから……」
リツは常に、能面のように無表情だ。彼女がそんな質問をしたのは、それが原因だろうとジュウタロウは思った。
「笑わないから、他の人が怖がるんですか?」
「……私、子どもの頃に両親が亡くなって……それから笑えなくなったんです」
「それは気の毒なことです。……あっ」
二人が見つめていたカマキリが、素早い鎌さばきで蝶を捕まえた。それを見てリツがジュウタロウに尋ねる。
「……あの蝶が可哀想に思いますか?」
「可哀想といえば可哀想ですが……弱肉強食は自然の摂理ですから。あのカマキリだって、生きるのに必死なだけだから仕方がないでしょうな」
「私もそう思います」
しばらく沈黙していたリツだったが、出し抜けにジュウタロウへお願いをする。
「ジュウタロウさん、白金組の幹部が殺害された事件……捜査をするのはやめていただけませんか?」
「え?どうしてですか?」
「危険なんです……ジュウタロウさんが、死んだら嫌だからです」
リツはジュウタロウに目を合わせようとしない。やがてジュウタロウはポツポツと語りだす。
「私だって死にたくはありませんが……誰かがやらなきゃならんでしょう。市民を守るのが警察官の仕事ですからなぁ」
「でも……死んだのは白金組のヤクザだけです。あの人たちに、ジュウタロウさんが命をかけて守るほどの価値がありますか?」
「ありますとも」
「どうしてですか?」
「涙の色なんてのは誰だって同じだからですよ」
ジュウタロウが続ける。
「いいですか、リツさん。たしかに、あんたを撃とうとしていたヤクザたちは、クズの集まりです。でも、最初からクズだったわけじゃない。そんなクズでも誰かの子であり親なんです。誰かが犯人を止めなければ。そうしなければ、またあなたのように、家族を失った子どもが笑顔を失ってしまいます。そして悪の道へと走ってしまうかもしれない。そして、その子もまた誰かを殺したら……そういう悲しみの連鎖を断ち切らなきゃならんのです。その結果私が死んでしまうとしたら……まぁ、仕方がないでしょう。あの蝶のように」
ジュウタロウが視線を再びカマキリへ移した。
「その犯人だって、必死に生きた結果、そうなっちまったんだと思います」
「私も……そう思います」
リツがベンチから立ち上がった。
「すみません、中村さん。私、今日は帰りますね」
「ああ、はい。どうもお見舞いありがとうございました」
ジュウタロウも立ち上がり、頭を下げる。
「明日も来られますか?」
「いえ……明日は……」
リツは首を横に振ると、早足で出口へと向かう。ジュウタロウが首をかしげた。
「あれ?……今日は体が軽くならなかったな。リツさんと会ったのに」
自分のアパートへ帰ったリツは、黒いローブを脱いでシャワーを浴びた後、裸のままベッドに寝転んだ。そして、ジュウタロウとのやりとりを反芻する。
(私……どうして今日はこんなにイライラしているんだろう……?)
その答えは、いくら考えても出なかった。




