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夢が震える時

 高速道路が川をまたぐための橋がある。

 その橋脚の根本にあるダンボールハウスに、少女の『お友だち』はすでに帰っていた。


「ナナちゃーん!」


 初老の男性が少女に気づいて手を振る。少女と同じように、いや少女以上に、彼の衣服も顔も汚れていた。村松ハヤト。それが彼の名前である。


「おじさん!」


 少女は村松を、もっぱらそう呼ぶ。


「お弁当もらってきたよ!一緒に食べよ?」

「おお、ありがとうナナちゃん!」


 人が見れば、まるで父娘のようである。だが、二人に血縁は無い。


 もう何年もホームレスを続けていた村松が少女と出会ったのは、だいたい二週間ほど前であった。どこをどう放浪してきたのか、少女は行き倒れ同然の姿で公園の遊具のそばに座りこんでいた。着ている服の他に、ペンギンのぬいぐるみが一つ。それが彼女の所持品の全てである。まるで何かから逃げてきたかのように。

 村松が介抱すると、やがて少女は目を覚ました。村松が朝食として残しておいたパンの耳を食べ尽くした後に、少女は謝る。


「ごめんなさい!」


 村松を一目見た少女は、彼の境遇をすぐに理解したようだ。このパンの耳は貴重な物であった、と。


「ええよ、それくらい」


 村松は笑って手を振る。


「それより、君はいったいどこから来たん?なにがあったん?」

「家出……かな?」


 そう言って首をかしげる少女に、村松は言う。


「まあ、若いうちはそういうこともあるんかな。でも、帰った方がええんじゃないか?家族が心配しとるじゃろ」


 少女はその言葉を聞くと、ひどく傷ついたような顔をした。やがて、ポツリともらす。


「私がそばにいると、みんな不幸になっちゃうから……」


 村松には、なぜ少女がそんな事を言うのかわからなかった。というより、少女についてそれ以上、何もわからなかったのだ。

 まず、名前がわからない。彼女は頑なに、自分の名前を村松へ教えようとはしなかった。『ナナちゃん』というのは、村松が勝手につけた名前だ。名無しだから、ナナちゃんである。

 もう一つわからないのは、彼女が持っているぬいぐるみのペンギンだった。ナナは頻繁に、そのぬいぐるみに話しかけた。村松からすれば、どう見てもペンギンにしか見えないぬいぐるみに『ツバメちゃん』と話しかけるのは、奇妙だった。

 そして、当然のように、ナナは自分の境遇について何も語らなかった。だが、それは村松にとってどうでもいいことだった。事情があって路上生活をしているのは自分も同じ。それ以上の詮索の必要はない。


「君さえよければ、気が済むまでここにいてもええよ」


 ダンボールハウスへ初めて案内されたナナは、かなり迷った。それはダンボールハウスが不快だからという理由ではない。彼女自身が言った通り、自分は周りの人間を不幸にしているという信念がある。だが、貴重な食料をもらった以上、その恩を返さず去るのも忍びなかったようだ。その二つがナナの天秤にかけられ、そして、後者が勝った。そして今に至る。


「ナナちゃんにお土産。見てみんちゃい」

「これは……?」


 ナナが村松から渡された紙袋の中身を見ると、中に女性用の服が入っていた。買ったわけではないが、盗んできたわけでもない。他の多くの物と同じように、廃棄される予定のものを拾ってきたのだ。村松はそれを『都市型狩猟採集』と呼んでいた。


「ありがとう!おじさん!」

「サイズは合うじゃろうか?」

「着てみるね!」


 ナナは影の下へ行き、さっそく着替えてみた。サイズは大丈夫そうだ。


「どう?」

「おお、似合っとるがん」


 淡い黄色のワンピースは、小学校のバザーで売れ残った物を譲渡してもらったものだ。だが、自称『子どもじゃない』ナナのプライドを考え、それは伏せておこうと村松は思った。


「おじさん、そっちの袋は何?」

「ああ、これはな……ふふふ」


 村松が不敵に笑う。毎日毎日、アルミ缶を拾い、それを業者に引き取ってもらうことで得た銭を貯め、値切りに値切ってやっと買うことができた一張羅である。


「ビジネススーツ?」

「そうじゃ。実はな……」


 村松はナナに事情を話した。とある企業の面接が受けられると決まったのだ。小さな会社だが、ありがたいことに社員寮がある。ボロボロのアパートだが、それでも路上生活を抜け出す絶好のチャンスだった。大枚をはたいてスーツを買ったのも、そのためである。


「その面接っていつあるの?」

「明後日じゃな」

「じゃあ、おじさん。就職が決まったら、ここからいなくなるの?」

「そのことじゃけど……」


 少し寂しそうな顔をするナナに村松が言う。


「ナナちゃん。わしと一緒に暮らさんか?」

「えっ!?おじさんと暮らすの?」

「嫌か?まあ、わしはむさ苦しい男じゃけんなぁ」

「いや、その、そういうのじゃなくて……」


 ナナは悩んでいた。その理由に村松は心当たりがある。


「ナナちゃんは周りの人を不幸にしたりはせん」

「そう……なのかなぁ?」

「そうじゃ」


 村松が自信を持っていう。


「ナナちゃんは人を不幸にするような女の子じゃない。むしろ、逆じゃ。わしがもう一回頑張ってみようと思ったのは、ナナちゃんのおかげなんじゃ」

「私の……?」


「ちょっと、わしの昔話を聞いてくれるか?」


 ナナはうなずくと、村松の隣に三角座りをした。


「わしはなぁ、これでも昔は村松金融って会社の社長じゃったんじゃ。その頃には、女房と娘がおった。娘も、今頃はナナちゃんくらいの歳かなぁ?」


 村松が遠い目をする。


「その頃は、とにかく金を稼ごうと思うて必死じゃった。悪どいことも結構してきたで。ずいぶん、いろんな人も泣かせてきた。女房と娘でさえなぁ。じゃけん、バチが当たったんじゃろう。会社は倒産。女房と娘も家から出て行ってしもうた。金だけが大事じゃない。そんな当たり前のことに気づいた時には、何もかも無くなってたなぁ……」


 村松はしばらく沈黙した。ナナも黙ったまま、次の言葉を待っている。


「でも、やっぱりこのままじゃ駄目なんじゃ。わしはともかく、ナナちゃんはこんなところで暮らしたらいけんわ。だから、わしがなんとか這い上がろうと思ったのは、ナナちゃんのおかげなんじゃ。また頑張ろうと思えたのはナナちゃんのおかげなんじゃ」

「……そう思ってくれて、嬉しい。ありがとう」

「お礼を言いたいのはこっちのほうじゃで」


 村松の言葉に熱がこもる。


「きっと神様がナナちゃんをわしに会わせてくれたんじゃ。ここで腐るなよ、って。それに、わしには夢がある」

「夢?」

「何年かかるかわからんけれど、ちゃんとした暮らしができるようになったら、女房と娘に会いたい。もちろん、戻ってこいなんてことは言えんけど、せめてちゃんとした暮らしをしているところを、あの二人に見せちゃりたいんじゃ。ナナちゃんにも、会わせたい」

「うん……私も、会ってみたい。おじさんの家族に」


 そう言ってニッコリ笑うナナを見て、村松は急に恥ずかしくなった。


「ええと……そうじゃな!とりあえず、ご飯食べようか。せっかくナナちゃんが持って帰ってきたんじゃけん」

「うん」


 夕食を終えた二人は、やがてそれぞれの毛布にくるまり、眠りにつく。


「ツバメちゃん……」


 ナナはいつものように、ペンギンのぬいぐるみに話しかけた。


「おじさんの夢、叶うといいね」


 そして二人の夜はふけていった。


 ホームレスである二人にとって、学校も会社も関係なかった。朝は好きなだけ寝られる。特にナナは放っておくといつまでも寝てしまうため、10時までには、先に起きた村松が彼女を起こすのが日課だった。だが、この日に限ってナナは村松に起こされなかった。それでもナナが目を覚ましたのは、苦しそうな咳の音を耳にしたからである。


「おじさん?」

「ああ、ナナちゃん。おはよう」


 村松は再び苦しそうに咳き込む。


「どうしたの?大丈夫?」

「ああ、大丈夫じゃ。ただの風邪じゃろう」

「困ったなぁ。私は、病気は治せないから……」

「うん、まあ、そうじゃろうな」


 医者ではないナナが病気を治せないのは当然だと村松は思った。


「よくあることじゃ。しばらく寝りゃ治るけん」


 二人は昨日手に入れていた、賞味期限切れの惣菜パンを開封し、朝食とも昼食とも言えないような食事を済ませる。


「じゃあ、今日のアルミ缶集めは私がやるから。おじさんはゆっくり寝ててね」

「ああ、すまんな」


 火箸とゴミ袋。それに『ツバメちゃん』を持って川の土手を登っていくナナの背中を、村松は何度も咳をしながら見送った。


 落ちているアルミ缶を拾い、それを潰して、ゴミ袋に入れる。その作業を午後3時まで繰り返すと、やがて袋がいっぱいになった。それを買い取り業者へ持ち込めば、500円くらいの金額にはなる。


「ねえ、お兄さん。産廃の買い取りって何時までやっているの?」

「17時半までだよ」


 そう聞いたナナは、再びアルミ缶拾いへと向かった。なるべく時間いっぱいまでお金を稼いで、村松に何か元気が出る物を食べさせたいと思ったからだ。


「頑張らなくっちゃ!」


 そう言って一人、張り切った。


 夕方になった。

 川沿いの道を三人の若い男性が歩いている。いずれも髪を派手に染め上げ、耳だけではなく唇にもピアスを付けている者さえいた。どうやら、唇ピアスの若者が三人組の中で一番偉いらしい。


「ムカつくよなぁ、あの売人。人の足元見やがってよぉ~!」


 唇ピアスの隣の男が、彼をなだめようとする。


「でもダイゴさん。最近はサツの取り締まりも厳しいですからね。仕方がないですよ」

「それで質も下がるし金もかかるってか?やってらんね~!」


 もう一人の男が、声が大きいですよとばかりに、唇に人差し指を当てた。彼らが話しているのは麻薬のことだ。先ほど、唇ピアスことダイゴたちが売人から買ったクスリの値段について愚痴を言っていたのである。


「とりあえずよぉ、この気持ちを沈めるために、一発キめたいよなぁ!おい」

「えっ!?外でやるんですか?」

「いけねぇかよ?あ?」

「ダイゴさん、あそこ……」


 仲間の一人がある場所を指さす。


「あそこなら誰も来ないでしょう」


 高速道路が川をまたぐための橋がある。男が指さしていたのは、その橋脚の根本だった。


「なんだこりゃ?ゴミ捨て場かよ」


 橋脚の根本に溜まったダンボールの集まりは、ダイゴたちからすれば、ただのゴミの寄せ集めにしか見えなかった。


「もしかして、人が来るんじゃ……?」

「ちっ!今さら怖気づくんじゃあねーよ」


 ダイゴは懐からタバコの箱を取り出すと、中の紙巻きを二人の仲間に配る。一見するとタバコにしか見えないが、その中身はタバコではなかった。先ほど購入した、麻薬である。キめ方は簡単だ。ただタバコのように、火をつけて煙を吸えばいい。


「はあ~~~」


 三人の男たちが長々と口から煙を吐いた時、ダンボールの山からゴホゴホと咳き込む声が響いた。


「な、なんだ!?」


 男たちは驚いて立ち上がる。やがてダイゴと、ダンボールハウスの中で毛布にくるまっている村松の目が合った。


「てめぇ、見てたのか!?」

「いつからそこにいたんだよ!?」

「わざとらしく咳き込みやがって!嫌味のつまりか!?ああん!?」


 ダイゴからすると、警察に通報される恐れよりも、そちらの方が許せないようだった。


「ち、ちがうんじゃ!わしは風邪をひいて……今朝から寝込んでいて……」

「病院に行く金も無いってかぁ!?クソホームレスが!てめぇのような社会のゴミがよぉ~一人前に口答えをしてるんじゃねーぜ!」

「社会のゴミか。くくくくく」

「そりゃ言えてるな。こいつが生きようが死のうが、世間は何も変わりはしないぜ」


 ダイゴと、彼の言葉に共感する男たちが村松に近づく。


「ま、待ってくれ!わしは、あんたらの邪魔はしない!ただ、ここでそっと生きていたいだけなんじゃ!頼む!見逃してくれ!」

「うるせえ!お前がここで生きていること自体が、俺たちにとって邪魔なんだよ!せっかく、いい気持になってたのによぉ……!」


 命の危険を感じた村松が必死に懇願する。だが、クスリと、警察に通報される恐怖と、ほんの少しだけ残っている良心から生じた後ろめたさとが、男たちの暴力のタガを外していたことが、村松の不運であった。


「1185円かぁ。頑張ったなぁ、私」


 ナナが今日の稼ぎに誇らしげに鼻を鳴らしながら、夕闇に染まりつつある道を急いでいる。橋脚にたどり着いた少女は、滑るように土手を降りていった。橋脚の根本に明かりが見える。きっと村松が起きて、いつものように焚き火をしているのだと、ナナは思っていた。


「……あれ?」


 しかし、様子がおかしい。焚き火にしては、明るすぎるのだ。急いでダンボールハウスに向かったナナの目に飛び込んできたのは、炎上する自分たちの住処だった。


「ええっ!?なんで!?なんで!?」


 そんな悲鳴をあげるナナは、そばに転がっていたバケツに川の水を汲むと、ダンボールハウスまで何度も往復し、消火しようとした。幸い、この時期は湿度が高く、川沿いということもあり、火事はすぐに消火できた。だが、村松が『都市型狩猟採集』で集めた品々は真っ黒焦げになり、かえって痛々しかった。


「うぅううぅ……」

「おじさん!?」


 うめき声をあげる村松は、背の高い草むらの影にその体を横たえていた。顔中に殴られた跡がある。ナナからは見えなかったが、肋骨もまた何本も折れていた。苦しそうにあえぐその口もとから、血が流れている。


「おじさん!しっかりしてよ!おじさん!」

「ナ……ナナちゃんか……?」


 村松が重いまぶたを上げ、心配そうに覗き込む少女の顔を見る。


「どうしたの!?どうしてこんなことに!?」

「運が……悪かったんじゃ。チンピラを怒らせてしまったら、このザマじゃ。……家は?わしらの家はどうなっている!?」


 ナナは言葉につまった。それにより村松も、ダンボールハウスの末路を知る。それは一張羅のビジネススーツ、あるいは彼の夢が、文字通り儚く消えたことを意味していた。


「はははは……」

「何が面白いの……?全然面白くないよ!!こんなの!!」


 自嘲する村松を見て、ナナが声を震わせて叫んだ。


「わしには、分不相応な夢じゃったんじゃ……今さら社会に這い上がろうなんて、虫が良すぎる希望よなぁ……」


 村松の意識が遠のいていく。


(ああ……でも、神様がナナちゃんと会わせてくれたのは、このためだったのか。ありがたいことじゃ。最期にこんな優しい子に見送ってもらえるなら……この世に未練はないわい)


 やがて、村松の視界が真っ暗になった。


「ハッ!?」


 村松が、毛布の中で目を覚ました。慌てて周りを見回すと、彼はダンボールハウスの中にいる。チンピラたちに火をつけられたはずの、ダンボールハウスの中に。


「わしのスーツが!?」


 無事である。昨日から、何事もなかったように、奥の方へしまってあった。


「あ、目が覚めたんだね」


 川のそばでナナが、焚き火を燃やして暖をとっていた。まるで、いつもと少しも変わらないかのように。


「どうしたんじゃ!?わしの体は!?このダンボールハウスも!?わしはチンピラどもに襲われて、ダンボールハウスも燃やされて……死んだと思ったのに!?これがあの世か!?」

「もう、何を寝ぼけてるの?」


 ナナは笑いながら村松に近づく。


「きっと、悪い夢でも見てたんだよ。はい、これ」

「?」


 村松はナナからお金を握らされた。1185円ある。


「明日は面接なんでしょ?牛丼を食べて元気を出して、銭湯に行って体をキレイにしてきなよ。……ええっと、お金、足りるといいけど」

「そ……そうか、そうじゃったな!お金は足りるとも!生卵をトッピングしても足りるとも!」

「良かった!じゃあ、行ってきて。おじさんの夢を叶えなくっちゃ」

「ああ。ありがとう、ナナちゃん」


(そうか……悪い夢を見ていたんじゃな)


 ゆっくりと土手を登っていく村松の背中を、少女は見送った。だが、やがて彼の姿が見えなくなると、怒りで両手が震えるのを、村雨ツグミは我慢することができなかった。


「放火犯は現場に戻るって?」


 ツグミはペンギンのぬいぐるみを覗き込んだ。


「そうかもしれないね、ツバメちゃん」


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