ムラサメツグミにさようなら
楽園の空。
時おり、星や太陽が雲に隠れることはあっても、決して雨が降ることのない天気が、永久に続く世界である。
そこに、糸井アヤがいた。しかし、アヤは一人ではない。そこには、ツグミがいる。村雨ツグミではない、もう一人のムラサメツグミが。
糸井アヤの膝枕で寝ていたムラサメツグミが、ふと、不思議そうに身を起こした。
「あ、あれ?」
ムラサメは、空を見上げたままアヤに尋ねる。
「今、お空に流れ星が見えたような……こんなに明るいのに。ねえ、アヤちゃん?」
返事は無い。ムラサメが振り返るとアヤは背後の木に寄りかかり寝息をたてていた。いつの間にか、二人そろって寝ていたらしい。
ムラサメがもう一度空へ視線を転ずると、そこに小さな、黒い点を見た。点は、やがて人型になり、徐々に大きくなっていく。
「あ、天使さま」
空から降りてきたのはアンヘルであった。
「先ほどの流れ星は天使さまの御業ですか?」
ムラサメはそう尋ねるが、天使の視線は糸井アヤに向いている。眠っているようだ。そう見たアンヘルは、これならちょうど良いと思った。
「ムラサメツグミ」
天使は、やっと存在を思い出したかのように黒の少女へ語りかける。
「私についてきてください」
「え、でも……」
ムラサメはアヤの寝顔を見つめる。だが、やがて、自分には拒否権など無いのだと思い出した。
「はい、天使さま」
「よろしい」
ムラサメが手を差し出すと、アンヘルはそれを片手でひょいと支える。たったそれだけで、ムラサメはアンヘルと共に空へ飛び去っていった。
やがて二人は、楽園の端へと到達する。地下へと続く穴が、そこにはあった。その穴は、人間一人が通るのがやっとの大きさだ。
ムラサメがそれを目にするのは、初めてではない。ムラサメは、糸井アヤという、素晴らしい友人に初めて会った時を思い出した。ムラサメは、その穴からこの世界にやってきたのだ。
とここで、何か嫌な予感を覚えたムラサメツグミが振り返る。アンヘルの手が、ムラサメの首に伸びていた。
「何するの!?」
転がるようにして逃れたムラサメが、アンヘルにそう問う。
何も教えずにムラサメを殺すこと。アンヘルにとって、それは慈悲のつもりだったのだ。しかし、こうなってしまっては、なぜムラサメツグミが不要になったのかを本人に説明しなければなるまい。
「村雨ツグミが現れました」
「ムラサメツグミは私だよ!?」
「いいえ。本当の村雨ツグミです」
本当の村雨ツグミがいる。実のところムラサメツグミは、ハッキリと自分が、そのツグミの代替品であると告げられた事はない。それでも、アヤやアンヘルの会話から、薄々自分がそういう存在であるとは気づいていたムラサメである。それ以来、彼女にとって最悪の悪夢は、今この瞬間であった。
本当の村雨ツグミが現れた。
「ですから、あなたは用済みなのです。さあ、大人しく。その命を神に帰しなさい」
「嫌だ!!」
「うっ!?」
アンヘルの伸ばした右腕の、手首から先がだらりと垂れ下がった。ムラサメが関節を外したのだ。激痛に汗を流すアンヘルが顔を上げるが、ムラサメの姿が見えない。
「逃げた!」
アンヘルはすぐに、空中からその姿を探そうと、背中の翼をひろげる。が、数メートルほど浮かんだ瞬間、次の激痛がアンヘルの首を襲った。
「ぐっ!?」
アンヘルの首に向かって、影のような包帯が伸びている。アンヘルがそれを目で追うと、その先にムラサメツグミがいた。彼女は逃げたわけではなかった。気配を消し、死角に身を転じる。それは、村雨ツグミが最も得意とするところである。本物の村雨ツグミが。
(強い!ただのお守り役にしては!)
アンヘルの内心の言葉に反論するかのように、ムラサメは吠えた。
「本物の村雨ツグミは私なんだ!!この私!!」
「あっ!?」
ムラサメが地下へ続く穴へと飛び降りた。と同時に、ムラサメに首を包帯で絞められているアンヘルの身もまた彼女へ続く事になる。ただ墜落するだけならいい。が、広げられた翼が穴の端に引っかかり、ムラサメの全体重がアンヘルの首に集中する。
「あがっ!?」
アンヘルの首の骨が折れた。やがて、不自然に揺れるその首から、ひとりでに包帯が解け、地下へ続く穴へと吸い込まれていった。
楽園の地下。
それは、自然であふれ、暖かい地上とはまるで異なる世界であった。土と木ではなく、鉄とセラミックで覆われた通路に、ポツンと一人、ムラサメツグミ。
「寒い……」
ムラサメは両手で自分を抱く。アンヘルは、死んだ。ムラサメにとって初めての殺人であった。しかも、悪いことに相手は天使だ。すぐに別の天使たちが現れ、自分自身の仇討ちを果たさんとするに違いない。ムラサメツグミは、自分の居場所を失ったのだ。もう、糸井アヤの元へは帰れない。
(いや……本当にそうかな?)
そもそも、ムラサメツグミが用済みになったのは、本当の村雨ツグミが現れたからだ。村雨ツグミさえいなければ、自分はアヤの一番の友人として楽園に残れたはずだ。そして、それは今も同じこと。村雨ツグミが糸井アヤに会う前に、消してしまうことができれば……
「私は、私でいられる!大丈夫!私なら、殺れる!」
ムラサメツグミは、アンヘルとの戦いで自信がついていた。おそらく、村雨ツグミはアンヘルに連れられてきて、このエデンのどこかにいるはずだ。
(探しだして!殺す!)
ムラサメは行動を開始した。




