魔女が誰かを殺す時
アカネ達の通う高校の裏手には延々と竹林が続いていた。そこまでなら時々ではあるが、人間が竹を採取したり、タケノコを掘りにくることもある。だが、さらにその奥に入るには険しい山道をひたすら登り続けることになる。特に見どころというポイントもなく、標高もたいしたことは無いその山の頂上を、わざわざ目指すようなもの好きな登山家や観光客はいない。だからこそアカネにとっては、隠れてトレーニングに励める格好の隠れ家であった。
森の中。一定のリズムで鈍い音が繰り返される。まるで丸太同士をぶつけるような音は、人間の発する気合と同時に山に震わせた。
「おらあっ!」
ひときわ大きな木の幹に向かって、アカネはひたすら回し蹴りを打ち込んでいた。もう1時間もそうしていただろうか。閃光少女のアカネといえども、息を乱し、着ているジャージの色を、流れる汗で変えてしまっていた。
アカネの動きが止まった。疲れてやめたというわけではない。打ち込んでいた大木を前にしながら、構えを崩さず静止している。するとすぐさま、背後の茂みに向かって叫んだ。
「誰よ?そこにいるのは!」
するとその言葉を待っていたように、何かがするどく回転しながらアカネの顔に向かって勢いよく飛んでいった。アカネがそれをキャッチする。缶ジュースだった。
「あっはっは~、さすがはアッコちゃんだね~」
茂みの中から、ショートヘアの、中性的な少女が姿を見せた。中性的な、というならアカネもそうであるが、アカネが美男子というタイプなら、彼女は美少年という雰囲気だ。スキニージーンズにフード付きのパーカーという格好が、よけいそういった印象を引き立たてている。少女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら近づく。
「次にアッコちゃんは『どうして私は自分を鍛えているのかしら?』と言う!」
「言わないわよ」
アカネは缶ジュースを開け、中のスポーツドリンクを胃に流し込んだ。軽く口元を拭いて、うつむく。
「でも、たしかにそう思うわ。アンタには事情が全部筒抜けってわけね、オトハ」
オトハ。和泉オトハは、アカネと一緒に大木の根本に腰を降ろし、持ってきていたもう1本の缶ジュースを開けた。
「アンタもさっきの組手、見てたんでしょ?」
「いやぁ、直接は見てないけど。でも、うちの学校の男子も騒いでたからね~。だいたいの事情はわかるよ」
オトハとアカネは同じ高校ではない。アカネは県立の普通高校だが、オトハは国立の工業高等専門学校に通っている。しかし、二人は同じ中学校の出身だ。親友である。といってもアカネとアヤの関係がまっとうな友情だとすれば、オトハとのソレは腐れ縁といった感じだ。アカネの事を「アッコちゃん」と気安く呼ぶのも彼女しかいない。
オトハは閃光少女アケボノオーシャンである。アカネにとっては、何度も共に修羅場を駆けてきた戦友だ。閃光少女同士は連携する時でもお互いの正体は普通隠しているのだが、変身前の正体をお互いに知っている戦友の中で、今も生き残っているのはオトハだけである。もっとも、オトハにとってもそうであるかはわからないが。
「空手部の先輩の足をひん曲げ、アバラを折り、頭を陥没させたんでしょ?いや~バイオレンスだね~」
「そこまでしてないわよ!」
とつっこみつつもアカネは気を落としている。
「でも、一生懸命空手に打ち込んできた神埼先輩に、余計な劣等感を植え付けてしまったかもしれない。フェアな戦いではなかった。でも、アタシはそれを教えることはできないの。もしも神埼先輩が空手をやめたり、後遺症が残ったりしたら、アタシは自分が許せないと思う」
「後遺症はともかく、空手をやめるのは個人の勝手だと思うけどな~」
アカネは答えなかった。オトハも別に返事をうながすわけでもなく、二人そろって緑を見つめている。そうやって間をあけてからオトハは独り言のように話し始めた。
「閃光少女って何なのだろうね~。お金をもらえるわけでもない。偉くなれるわけでもない。アイドルみたいに人気になっても、正体を隠し通さなきゃならない。命がけで戦っていても、法律上は人権すらない」
アカネは何も言わない。
「こんなんだったらさぁ、魔女として生きても良かったかもしれないね~。悪魔との契約で得た力を使って、好き放題に生きていくのさ。うまくやればお金だって稼ぎ放題。裏社会のフィクサーにだってなれるかもしれない。もしも邪魔をする者がいたら……」
「ダメよ、そんなの!」
アカネは思わずオトハに向かって叫んだ。オトハはその前からアカネの顔を見つめていたことに、やっとここで気づく。
「アッコちゃんの、そういうところ、好きだよ」
オトハが微笑しながらそう言うので、アカネは赤面して顔をそむけた。オトハは再び、からかうような笑顔になる。
「もう少し自分に自信をもってもいいんじゃないかな~?アッコちゃんがこうして今でも鍛え続けていたおかげで、昨日の悪魔を討伐することができた。もしも私やガンタンライズだけだったら、被害はもっとひどかったはずだよ。それに、敵は悪魔だけとは限らない。もしかしたら、新しい敵が現れるかもしれない」
「新しい敵?一体何よ、それ?」
身をのり出すようにして尋ねるアカネに、オトハは苦笑する。
「言葉の綾。例えばの話だよ~」
アカネはまたうつむいた。
「あんな悪魔、派手なだけで、ぜんぜん弱かったわ。鍛えるほどでもなかったくらい……」
「そう、そこが問題なのさ」
「え?」
再びオトハの顔を見る。オトハの顔から笑いが消え、真剣そのものの顔でアカネを見つめ返している。
「まさか私が、アッコちゃんを励ましたり、からかったりするためだけにここに来たと思った?」
オトハは、たまにこうやってゾッとするような喋り方をする。しかし、こういう喋り方をする時は、いつだって悪い予兆を捕まえた時だ。そしてその予兆は、外れたことがない。
アカネは残っていた缶ジュースの残りを飲み干した。
「話を聞かせてくれるかしら?」
オトハはA4サイズで印刷された紙を二枚取り出した。まずは一枚目を二人が見られる位置に置く。そこには県内の地図が描かれていた。そして、そこに四箇所だけ赤い印が付けられている。城北、城東、城西、そして城南。
「これは今年の3月から4月にかけて、県内で発生した悪魔による襲撃事件の場所だよ」
オトハはさらに4枚の写真を取り出す。1枚の写真には見覚えがあった。城南駅で戦った大蜘蛛の悪魔である。他の3枚の写真にも悪魔が写っていた。それぞれを襲撃場所の赤い印に置く。
「あれ?これって……」
「気づいた?この悪魔達、色や外見なんかは少しずつ異なるけれど、どれも同じタイプだ。テレビは悪魔の映像を流さないからね~。調べるまで気づかなかったよ」
続けて、もう一枚の紙をその上に重ねた。その紙にも青い印が、なにやら複数箇所に描かれている。しかも、それは赤い印、つまり悪魔襲撃現場の近辺に分布していた。
「これは悪魔による襲撃事件が発生した後に、行方不明になった人達の住所だ。そしてその件数は……」
アカネが持っている、城南駅で戦った大蜘蛛の写真を指さす。
「悪魔を討伐するために現れた閃光少女の数と一致するのさ」
オトハが何を言いたいのか察して、アカネは戦慄した。つまり、誰かが閃光少女をおびき出すためだけに悪魔をわざと襲撃させて、そして見つけた閃光少女達を、少なくとも拉致しているということか。しかしオトハはもっとおぞましい事を想像している。
「城北、城東、城西、そして城南。誰かを探しているのか、あるいはしらみつぶしに殺していきたかったのか。今のところ目的は不明だね。だけど、こうして再び城南で悪魔が現れた以上、その目的は未だ果たされていないと見るのが妥当でしょ」
アカネはふと気になったことを尋ねた。
「これだけの内容をたった一人で調べたの?」
「あはは、オトハちゃんは天才ハッカーですから~」
しかしアカネに冗談は通じないだろうなと思い、オトハは正直に話した。
「実は3件目、つまり城西の事件が起こってから、気になって探偵に調べてもらったんだ。行方不明者が全員若い女性だったから、関連を疑うのに時間はかからなかったね」
「閃光少女の事を調べられる探偵がいるの!?」
「ああ、なにしろ彼女自身が魔法少女だから」
その探偵の素性も気になるが、今は話を前に進めた方が良さそうだ。
「それで、その探偵に事前に依頼しておいたんだよ。いずれ城南でも同じように悪魔の襲撃が起こり、閃光少女が現場に駆けつけたとして。もしも閃光少女を尾行する何者かがいたら、その何者かを追跡して正体を探ってほしい、って」
アカネは息を呑む。
「まさかアンタがそこまで考えてたなんてね。アタシも『アンタのそういうところ好きよ』って言うべきかしら?」
「私はもっと好き~」
「なっ!?」
再び赤面する。
「しかし、今のところ探偵さんからの連絡は来てない。調査中なのか、尾行に失敗したのか、あるいは消されてしまったのか……いずれにしても」
オトハは広げていた紙を握りしめながら言った。
「こんな事が自然に起こる確率は1%未満。統計的に考えたなら、偶然なんてありえない」
アカネとオトハは下山することにした。アパートで一人暮らしのアカネはともかく、寮に住んでいるオトハには一応門限がある。どうとでもなるらしいが、なるべく、どーのこーのはしたくないらしい。
「この事、ガンタンライズは知ってるの?」
斜面を器用に滑り降りながらアカネがオトハに聞いた。ところで、実は二人ともガンタンライズの正体を知らない。オトハだけがガンタンライズの連絡先を知っているが、あくまで閃光少女としての付き合いで連絡先を交換しているに過ぎない。思わぬ正体の露見を防ぐために、閃光少女の連絡先は、たとえ味方であっても、本人の許可なく他者へ教えないのが、この道の淑女協定だった。
「いや。探偵からの連絡を待って、ハッキリしたら、私から連絡するよ。ガンタンライズがどちら側の人間なのか、まだわからない。なるべく危険は避けたい」
ライズちゃんが敵なわけないじゃない。とアカネは言いたかったが、その言葉を飲み込んだ。態度や見た目はアテにはならない。変幻自在な悪魔達との戦いで、嫌というほど学んだことである。
「ねぇ、本当に今回の事件、黒幕の心当たりはないのかしら?」
「一つだけある」
オトハが小川を飛び越しながら答えた。
「『暗闇姉妹』って知ってる?」
「噂だけは聞いたことがあるわ。ナマハゲみたいなものでしょ?」
オトハは吹き出す。
「せめてブギーマンって言ってほしいな~」
ナマハゲ、ブギーマン。あるいは、黒いサンタクロース。なんでもいいのだが、世界には悪い子供を懲らしめる悪霊の神話がいくつも残っている。暗闇姉妹とは、魔法少女達にとってのブギーマンだ。
「魔法少女ばかりを狙って殺していく魔女でしょ、その暗闇姉妹って」
法外な存在である魔法少女には、その能力で悪事に手を染める誘惑が常につきまとう。そういう自分達を戒めるために、悪い魔法少女を処刑していく、想像上の魔女が『暗闇姉妹』なのだ。あくまで想像上の存在だったので当初こそ様々な姿形が存在したが、今では漆黒のドレス姿で、彼女が裁く罪も、無辜の人間を殺したら、彼らにかわって恨みを晴らしにくる、という設定に、概ねなっている。
「だいたい想像上の存在でしょ?それって」
竹林が見えてきた。山を出るのはまもなくだろう。
「いや~そうでもないんだな、それが」
オトハが言うには、最終戦争が終わった直後、実際に次々と魔法少女が殺されたらしい。しかし、その犯人はわからない。単独犯なのか、複数犯なのか。そもそも、どうやって殺したのかさえわからなかった。殺された魔法少女には、薬物の反応はおろか、外傷さえ一つも無かったからだ。公式な記録では全員心臓発作による死亡となっているが、魔法少女の事情を知らない者でも、若い女性ばかりが立て続けに死ねば不思議に思わずにはいられない。魔法少女達からすれば、なおさらだ。もしもそんな存在がいるとしたら、その犯人自身も魔法少女であるに違いない。想像上の存在でしかなかった暗闇姉妹が、にわかに現実味を帯びた瞬間である。
「じゃあ、殺された閃光少女達が、無辜の人間を殺してたっていうの?」
「いや~まさか。過去に遡って、一人もいないってことはないかもしれないけれど、まさか全員ってことはないでしょ。私はあくまで、魔法少女が次々と殺された事件については、これしか類似を知らないってだけだよ」
二人はやがて民家に隣接する道へ出た。
「何かわかったら連絡するね~。だけど、何度も言うけど探偵が消される可能性もある。とにかく用心に越したことはないよ」
「わかったわ。オトハも気をつけて」
オトハは道路脇に停めていた原付きスクーターにまたがって去っていった。
(そういえば、アヤちゃんはどうしたかしら?)
アヤが通っている塾がこの近くだったことを思い出す。先ほどそっけない態度をとった事を謝っておこうと思い。アカネはその方角へ歩いていった。
「クシュン!」
村雨ツグミは外灯の光に照らされながら、鼻水をすすった。少しでも体を温めようと、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。季節は春であるが、4月の夕刻は意外と冷え込んだ。ツグミは、変に頑なになったりせず、『お父さん』の言う通り、マフラーをつけてくれば良かったと後悔した。ツグミがいるのは小さなビルの前である。そのビルの二階部分が学習塾になっており、糸井アヤは一週間に数回、その塾へ通っているのだ。べつにツグミがアヤを迎えに行く習慣はないのだが、今夜はたまたま夕食の支度が早く済んだため、手持ち無沙汰でもあったし、アヤが驚く顔を見たいと企んで、待っていたのである。手元の腕時計を見ると、時刻は午後6時44分。50分には授業が終わるはずだ。
「ツグミちゃん?」
ふと、どこかで聞いたことあるような声が聞こえた。というより、今朝会ったばかりだ。
「鷲田アカネさん……?」
見ると、ジャージを来た長身の少女がこっちに駆けてきた。
「アカネ、でいいわよ。ツグミちゃんもアヤちゃんを待ってるの?」
「はい。その『アカネちゃん』さんは、どうして?」
ツグミは緊張して変な敬語になってしまっている。
「たまたま近くまで寄っただけよ。いつもアヤちゃんを迎えに来ているの?」
「いいえ、私も今晩はたまたま……」
「うふふ、じゃあアタシ達を見たら、きっとアヤちゃんはビックリするわね」
ツグミも一緒になって笑い、アカネに対する緊張がほぐれたようだ。この人は、見た目はちょっと怖いけれど、すごく良い人だと思う。
午後6時50分、ビルの二階に見えていた人影が、一斉に机から立ち上がったのが見えた。ビル脇の階段から、次々とアヤと同学年の学生らが降りてくる。ツグミとアカネは、アヤがいつ現れるかと待っていた。しかし、一向にアヤが降りてこない。ツグミとアカネは顔を見合わせる。すぐに二人は階段を登り、塾の中を見た。プリントを片付けていた講師がツグミの顔に気づき話しかけてくる。
「ああ、糸井さん家の……」
ツグミが会釈を返す。
「困るなぁアヤちゃんには、今日はどうして塾に来なかったんですか?せめて事前に連絡をいただけましたら助かるのですが」
「えっ?」
「えっ?」
「?」
ツグミとアカネは塾から出た。
「おかしいわね。さぼって家に帰ったのかしら?」
「私は家からここに来たんだよ!?」
アカネは公衆電話に目を留めた。
「小銭ある?」
「100円でいい?」
「借りるわよ」
アカネは電話ボックス内にある分厚い電話帳を開き、『ジ』から始まるページを手繰る。
城南高校の職員室に置かれた電話が鳴る。たまたま全校生徒の体力測定結果をまとめていた寺田が受話器を持ち上げたが、まさに彼こそアカネが話したかった相手だ。
「はい、城南高校です」
「1年の鷲田アカネです。寺田先生はいらっしゃいますか?」
「アカネ君か?僕だが」
「ああ、寺田先生。同じ1年の糸井アヤさんは学校から帰っていますか?」
「アヤ君、それなら君と一緒に帰ったと思っていたが」
残念ながら違う。寺田はよく見ていなかったらしい。
「あ、そうだ。アヤ君が携帯を忘れていったぞ。更衣室に置き忘れたんだろう。明日職員室へ取りに来るよう伝えてくれ」
「今からそちらへ行きます」
「ええっ!?」
アカネは即答した。アヤがどこをほっつき歩いているか知らないが、自分が携帯を持っていないことに気づけば、学校へ取りに戻るかもしれない。
「今からって、学校へ行くバスは無いぞ」
あ、しまった!とアカネは思った。城南駅を経由して高校前へと向かうバスは現在運休している。もちろん、学校間を直通するバスはもう走っていない。
「走って行きます」
「走るって、こんな時間に……」
「ああ、いえ、その……くすぶっていたハートに炎が燃え上がったような……そうじゃないような……」
「ほう?ロードワークというわけだな。なるほど空手部への復帰を決意してくれたとは、先生も嬉しいぞ!気をつけて(ブツッ)」
とにかく今は勘違いさせておくことにした。アカネは受話器を下ろす。
「ツグミちゃんは、ひとまず家に帰ればいいわ。もしかしたら、アヤったらそのまま家に帰ってくるかもしれないから……ツグミちゃん?」
ツグミの様子がおかしかった。しきりとなにやら耳を抑えている。
「あ、ごめんなさいアカネちゃん。なんだか耳鳴りがして……」
不思議に思って電話ボックスから出たアカネも、同様に耳鳴りに気づいた。
「とにかく、アタシは学校へ行ってくるわ。ツグミちゃんも気をつけて帰ってね」
「どうしてそこまでしてくれるの?」
「えっ?」
ツグミは不思議そうにこっちを見ている。アカネにすれば、そんな質問をしてくるツグミの方が不思議だった。
「どうしてって、友達だからよ。『行ってきます』って朝家を出ていった友達が、夕方になっても『ただいま』って家に帰ってこない。そんなのって、なんだか悲しいでしょ」
ツグミはしばらく考えていたが、やがてうなずいた。そんなツグミに背を向けてアカネは走りだす。
(あれ?耳鳴りがやんだ……なんだったのかしら?)
ツグミは、少し遠回りにはなるが、なるべく明るい道を選んで家を目指した。しかし、どんどん耳鳴りがひどくなる。
(うううう、なんなの……これ……?昨日の夜と、同じ……)
その頃、いまやすっかり陽が落ちた道を、月明かりを頼りに糸井家へと向かう一人の人影があった。顔は暗くて見えないが、そのシルエットは若い女性のようである。女性はゆっくりと糸井家の門扉を開き、玄関のチャイムを鳴らした。
糸井コウジはリビングに置いてある固定電話の子機を降ろした。
「まったく!アヤのやつはいったい何をやっているんだ?」
先ほどまで電話で話していたのは、アヤが通っている塾の講師である。授業が始まっても、アヤは塾に現れなかったというのだ。そんな事も知らず、アヤを迎えに行ったツグミが不憫に思えてならなかった。アヤがどこをほっつき歩いているか知らないが、少なくともツグミはそのうち帰ってくるはずだ。思った通り、すぐに玄関のチャイムが鳴る。
「ツグミちゃんかい?」
コウジは玄関の扉を開けたが、そこに立っていたのはツグミではなかった。
「こんばんは。夜分遅くに申し訳ありません、先生」
「ああ、池田さん」
そこにいたのは看護師の池田であった。
「どうしたんです、いったい?」
「実は財布を落としてしまいまして、心当たりは全て探してみたのですが、見つからず……後残るはこちらだと思うのですが……」
「ああ、そりゃあ大変だ。すぐに鍵を開けるよ」
コウジはクリニックの鍵を持ち、玄関脇にある階段を看護師の池田と一緒に登った。二階のクリニック側玄関に入ってすぐ横に靴箱があり、二人はそこでスリッパに履き替える。もしも財布を忘れるとしたら、受付窓口か待機室、あるいはワープロが置かれた診療室だ。
「手分けをして探そう」
コウジは診療室に入っていった。池田はまず受付窓口の周りを確認してみることにする。財布は無い。
「キャッ!」
池田は小さく悲鳴を上げた。顔を上げたら、そこに帽子とサングラスで顔を隠した金髪の女性が、音も無く立っていたからだ。よく見ると土足で上がりこんでいる。
「あの、すみません。クリニックの診察時間は16時までなのですが……」
女性の反応は無い。
「あー、すみません。もしかして外国の方ですか。は、ハロー。キャンユースピークジャパニーズ?」
おもむろに金髪の女が腕を池田に向けると、そこから細い糸が飛び出し、恐怖の顔を浮かべた池田の首に巻きついた。
「あった!あったよ!池田さん!やっぱりワープロの隣に落ちてたよ!」
診療室の方からそんな声が聞こえてくると、帽子とサングラスを外した金髪の女は、顔についた8つの目を、ゆっくりとそちらへ向けた。
「こんばんはー!」
アカネが職員室に飛び込むと、寺田は額にシワを寄せた顔を向けてきた。
「アカネ君、困ったよ。さっきからずっと同じところから着信が続いているんだ。うるさくて仕事にならないよ」
アカネは振動を続けるアヤの携帯電話の液晶画面に『アケちゃん』という文字が浮かんでいるのを見逃さなかった。すぐに着信ボタンを押して携帯を耳に当てる。
「ガンタンライズ!ライズ!何も理由を聞かずに、今すぐ家から逃げて安全な場所へ隠れて!」
「オトハ!」
「あ、えっ?アッコちゃん!?」
オトハがガンタンライズへ連絡をとる。考えられる理由は一つしかなかった。
「オトハ!ガンタンライズの正体は糸井アヤよ!」
「えーっ!?なんでそんなこと言うの!?」
魔法少女の淑女協定は重々承知しているが、今はそれどころではない。
「糸井クリニックよ!住所はアンタならパソコンで調べられるでしょ!すぐに行って!アタシもこれから行く!」
携帯を切り、寺田に叫んだ。
「先生、車を出して!アタシを送っていって!」
「え、今から?先生には仕事が……」
「生徒の安全が最優先でしょ!!アタシが空手をできなくなってもいいの!?」
寺田を半ば引きずるように駐車場へ行き、彼の車に乗って道を指示した。
「えーっと?君のアパートってこっちの方角だったっけ?」
「近くまで送ってくれるだけでいいんです」
幸いにも車は渋滞に巻き込まれることなく、郊外の糸井クリニックまで順調に近づく。しかし、クリニックの前で寺田を停めるわけにはいかない。自分の正体がバレるどころか、足手まといになりかねない。
「すみません先生、そこに入ってもらえますか?」
「いいけど?」
寺田はアカネが指示した通り、人気の無い暗い駐車場へと車を停めた。
「ありがとうございました先生、恩に着ます!」
「ああ、気をつけて帰りなさい」
寺田はアカネが降りたのを確認して車を再び発進させようとしたが、なぜかアカネが車の外から運転席側の窓をノックしてくる。怪訝に思いながら寺田は窓を下ろした。
「どうしたアカネ君?」
「本当にありがとうございました。先生に助けてもらったこと、絶対に忘れません」
アカネはそう言うと、寺田の襟を掴み、彼の頭を車の窓枠へ叩きつけた。
「ウゲッ!?うーん……」
寺田は口から泡を吹いて気絶する。
「ああ、こりゃ退学になるかしらねぇ……」
そうぶつくさ言いながらアカネは夜の道を駆けていった。
ツグミは家に帰ると玄関のチャイムを鳴らした。返事は無い。
「ただいまー」
扉を開いて玄関へ入るツグミ。返事は無い。
リビングへと入ってみる。誰もいない。
キッチンを覗くと、夕食用に作ったビーフシチューが、ガスコンロの上に置かれたままだった。
「『お父さん』、帰ったよ」
どこへ呼びかけてみても返事は無い。
(どうしたんだろう?)
ツグミは家の外に出てみた。見上げると、二階のクリニックの方に明かりがついている。
(また池田さんが忘れ物でもしたのかな?)
玄関脇の階段を登ってクリニックの玄関から入ると、やはり看護師の池田さんがいた。しかし、奇妙だ。受付窓口に立ち尽くしている彼女は、恐怖を顔に貼り付けて硬直している。
「こんばんは池田さん、今日は何を……」
そう喋りながら玄関の扉を閉めた瞬間、池田の首が体から落ちた。
「ひいいいいい!?」
池田の胴体もまた糸が切れたようにその場に崩れると、ツグミもまた驚いて尻もちをつき、悲鳴をあげた。
「ど、どうして!?なんで!?」
すると、再びツグミの耳鳴りがひどくなる。視線を診療室へ向けると、扉が少し開いていた。そこから見える診療室の床に赤黒い液体が撒き散らされている。ツグミの嗅覚が告げる。どう観ても血だ。勇気を絞り出してよろよろと立ち上がったツグミは、手を壁に当てて体を支えながら、恐る恐る診療室のドアへ近づき、中へ入った。
「ああああああああああ!!」
絶叫するツグミの目に入ったものは、バラバラに切断された糸井コウジの遺体だった。診療室の壁一面に蜘蛛の巣が張られ、今もまだ血がしたたり落ちるコウジの肉を、まるで磔のような形で保持している。
「アヤちゃん、アヤちゃん、お父さんが、どうして、どうしよう!?」
いまやツグミの耳鳴りは最高潮へと達していた。ツグミはまだ気づいていない。診療室の天井に、金髪の女がまるで蜘蛛のように貼り付いていることに。全身が黒いラバースーツに覆われ、顔には人間の目の位置に2つ、額に6つ、合計8つの目がついている。女は身を起こすと、鋭利な外骨格に覆われたその両手を、下で慄いているツグミの首へと近づけた。