勇者の時
人間たちの村に、タスケという青年がいる。村ではパッとしない男だ。
不器用なのである。農作業をやらせれば苗を踏み、桶をひっくり返してしまう。さりとて、狩りの才能があるわけでもなかった。家具や農具を作らせてもことごとく役に立たないため、現在はもっぱら、単純な水汲みの仕事をさせられている。
朝から晩まで水桶を持って、馬車馬のように村と川を往復する毎日だ。そんな境遇ではあるが、彼は不満など持っていなかった。
「オラはこれくらいの事しかできねえから、ちょうどいいんだ」
それが彼の口癖なのである。
そんな彼が今朝も川へ水汲みに出かけると、奇妙な声に呼びかけられた。
「アーサー……アーサー……!」
「?」
女性の声である。しかし、わからない。タスケは、自分の名前は『アーサー』などではないことは知っている。だが、周りにそれらしい者は他にいないのだ。
「オラのことか?」
「そうです、あなたです」
木の陰から現れた、顔をベールで隠した水色のドレス姿を見て、タスケはすぐさま平伏した。
「あ、女神様!」
女神ディーバレジーナな「苦しゅうない面を上げよ」とタスケに言う。タスケはおずおずと頭をあげたが、とりあえず訂正しておきたいことがあった。
「女神様、人違いでごぜえます。オラはアーサーではありません。タスケです」
「いいえ、人違いではありません。あなたはアーサーです。これからそうなるのです」
「なんでそうなるんですか?」
「あなたは勇者なのです」
「へーえ!?」
驚いたタスケが仰向けにひっくり返った。
やがて林の中へと案内されたタスケが目にしたのは、石の台座に突き刺さった長剣である。
「あれは伝説の剣、エクスカリバーです」
「いくすきゃりばーん?」
「のーのー、エクスカリバー。真の勇者が現れるまで封印されていた伝説の剣ですよ」
「昨日までこんなのなかった気がするんですが……」
女神レジーナが一瞬だけ顔のベールを持ち上げて睨んだので、アーサー呼ばわりされるタスケは、それ以上の言葉を引っ込める。
「さあ、伝説の剣を抜くのですアーサー。そうすれば、あなたは真の勇者ということになるのです」
「できるかなぁ……」
タスケは石の台座へ近づき、真新しい長剣の柄を両手で掴む。日々の水汲みでそれなりに鍛えられているタスケの腕力であったが、剣を引き抜くには至らなかった。
「ダメだぁ、女神様!やっぱりオラが勇者なわけないべ」
「弱気になってはいけませんよ、アーサー。あなたは勇者なのです。私がそう決めたから」
「女神様がそう決めた?」
首をひねるタスケを無視して、レジーナは自分の体で彼の視線から剣を隠し、その刀身に何やら液体を染み込ませる。
「さあ、もう一度やるのです」
「うーん、試してみるけれども……」
「やるか、やらないかです。試しなどいりません」
タスケが女神に叱咤されて再び剣の柄に手をかける。タスケが踏ん張ると剣をスポンと勢いよく抜け、タスケは盛大に後ろへ転がった。
「ぬ、抜けたー!?」
「おめでとう、アーサー!」
レジーナはそう言ってタスケを祝福した。
「やはり、あなたは魔王を倒す勇者、アーサーなのです」
「オラが……勇者かぁ……!」
レジーナはタスケ改めアーサーに拍手をするため、潤滑油の入っていた小瓶を懐にしまった。
それから幾日かが過ぎた。
アーサーが伝説の剣を引き抜いた場所から、川をさかのぼった上流。そこでは、悪魔たちの水道工事が佳境をむかえていた。
「よし、いくぞ!」
スケルトン部隊の青マント隊長が、大きな斧を構えた。堰を切る、という言葉がある。その元々の意味は、川を止めている堰を破って水を流すということだ。何日もかけて川の横に掘られた用水路は、延々と魔王城まで続いている。まさに今、青マント隊長がその『堰を切る』のだ。
そして、魔王城。
少年魔王ジローと、その妃。今回の水道工事の発案者であるツグミは、固唾を飲んで、幅数メートルほどの水路を見守っていた。もしも工事が成功すれば、川まで水汲みに行く手間を無くすことができる。しかし、もしも失敗すれば魔王城は水浸しだ。ハッキリ言って、ツグミは素人だ。慎重に設計をしたつもりだが、上手くいくかどうか、自信はなかった。
「おい、ツグミ。水はまだ来ないのか?」
とジロー。
「そろそろ隊長さんが堰を壊したところだと思うけれど…………あ!」
その時、水路に小さな水の流れが伸びてきた。水の流れは太くなっていき、浅い流れは、やがて深い水流へと変わっていく。
「ツグミさーん!」
上流からサナエの声が響いてきた。見ると、小さな舟を櫂で操りながら、サナエが水路を下ってきている。その首には大きな鈴が取り付けられていたが、それには理由があった。
数日前にツグミ(およびジロー)と同衾していたサナエは、当然のように魔王城のメンバーから怒られた。誰にでも変身できるサナエは、魔王城のセキュリティーにおける頭痛の種に他ならない。そこで、「もー!」という本人の不満の声を無視されて、サナエの首には鈴が取り付けられたというわけだ。首元で鈴が鳴るせいで、サナエはもうどこへも忍び込めそうにない。
そして現在。
「うまくいきましたねー!ツグミさーん!」
相変わらず魔王城でこき使われているサナエは、今は上流からの伝令役というわけだった。
「ありがとー!サナエちゃーん!」
ツグミもそんなサナエに、嬉しそうに手を振りながら叫び返した。さて、もちろんそのまま水に流され続けるわけにはいかないサナエは、舟を陸地へ寄せようとする。
「さてと、どこか上陸しやすい所に舟を寄せて……」
とここで、サナエの手元にポキンという音が響いた。青ざめたサナエが恐る恐る視線を櫂に送ると、水かきのついた先端が無くなってしまっている。
「折れたー!?」
「サナエちゃーん!どこまでいくのー!?」
「うわーっ!!」
ツグミの呼びかけもむなしく、舟をコントロールできないサナエは、みるみるうちに流されていった。
人間たちの村は、さらにその下流だ。




