飢えた獣が牙をむく時
下山村全域に、避難指示を意味するサイレンが高らかに鳴り響いた。ゴールデンウイークのゆっくりとした朝の時間を過ごす村人たちが騒然となる。彼らにとって、2年前に村を襲った下山川の氾濫は、忘れようにも忘れられない記憶だ。村のあちこちに立った鉄塔の先に付いているスピーカーから、鳴り続ける音は止まらない。そして、下山公民館の屋上からもサイレンが鳴り続けているので、その放送室にいたサナエの声がかき消されていた。
「ジュンコさん!ジュンコさん!やりましたよ!聞こえていますか!?」
聞こえていないわけがない。無線機からサナエの声が聞こえなくても、ミニバンの中にいるジュンコの耳にさえ、そのサイレンの音は響いている。
「これでいい。この音は山中にも届いているはずだ。戻ってくるんだ、グレンバーン……!」
「はああぁぁぁ」
グレンバーンが気合を入れると、彼女を包んでいた蔦人間の団子が熱気で吹き飛ばされた。姿を現す彼女の背中に6本の細い羽が伸び、羽の先をなぞるように丸い日輪が浮かぶ。そして真紅の籠手が炎に包まれた。
「ミドリ!あんたが言ったことなんだからね!昨日までの雨のせいで、森は水浸しだから火はつきにくいって!」
グレンは両腕をそれぞれ天地に向け、大きく円を描くように回す。すると円の中心に、小さな太陽のような炎の球体が生まれた。
「まずいですわ!!人形たちよ、そいつにそれを撃たせないで!!」
ローズがそう蔦人間に命令するが、もう遅い。
「おらあああっ!!」
グレンが炎球をドッジボールのようにして投げつける先は、サイレンが聞こえてくる、村の方向だ。魔法は文字通り爆発的な火力で木々をなぎ倒していき、その余波で周りの蔦人間が蒸発した。
「なかなかに、人里近くなりにけり……あまりに山の、奥をたずねて」
グレンは、河川敷まで貫通した炎球の跡を見て、『日本武道史』で読んだ古歌を思い出す。もはや迷いようがない。できあがった道を一気に駆けるグレンを、舌打ちしながらローズたちが追う。
「出られた!」
山林から河川敷に、グレンは宙返りして飛び降りる。同じく蔦人間たちがわらわらと河川敷に落ちていき、グレンに襲いかかるべく追いかけた。グレンはあたりを見回してみたが、やはり残念ながら、本来キルゾーンに設定した地点からは離れているようだ。ツグミの姿は見えなかった。だが、川にかかる橋の上に、グレンは良い物をみつける。
「借りていくわよ!」
橋の上に跳躍したグレンが手にしたのは、鉄のポールが歩道脇から伸びている道路標識だ。それを根本から引きちぎり、橋から飛び降りて蔦人間に襲いかかった。
「どりゃあああっ!!」
標識の先に『止まれ』と書いてあるが、グレンの動きは止められない。鉄板で作られた標識を薙刀よろしく振り回し、まずは正面の一体の頭を唐竹割にすると、即座に左右の蔦人間の首をはねた。
「ふん!」
グレンはボロボロになった標識を無造作に手で払い落とす。自分の身長より少し長い程度の鉄のポールは、魔法によって炎の結界をまとい、赤熱する。仕組みは炎のヌンチャクと同じである。さながら中国武術の棍のようにグレンは振り回すと、蔦人間たちに向かって構えた。
「さぁ、今度はこちらの番よ!」
山林とは違い、河川敷では蔦人間が奇襲できるような隠れ場所はない。直線的に向かっていくだけしか能がない蔦人間たちは、バタバタと炎の棍に薙ぎ倒された。さらに、この場所でグレンが火事を起こす心配はない。フルパワーとなったグレンの振り回す棍は、もはや光の棒に見えるほど熱を帯び、グレン本人もまた不動明王のごとく燃え上がっている。
「おらおらおらああっ!!」
蔦人間を、まさに『ちぎっては投げて』を繰り返し、グレンは川を登っていく。蔦人間の死体がばたばたと倒れ、下流側はその血で水底が見えなくなるほど濁っていた。やがて3体の蔦人間をまとめて棍で薙ぎ払うと、川には、しばし水のせせらぎだけが響いた。蔦人間どもを殲滅したのだ。いや、あと一人いる。真顔で立ち尽くしているヒスイローズ、残るは彼女だけだ。
「終わりよ、ミドリ……」
「観念しなさい、とでも?」
ローズは河川敷の両岸を目でなぞる。そこには人影は無かった。村人すらいない。
「あなた、今こう考えているんじゃない?どうして合流するはずの味方が来ないんだろう、って?」
ローズは鼻で笑った。
「あいにくだけどグレンバーンさん、あなたの仲間は来ないわ。サイレンを鳴らすために公民館まで走ったのでしょうが、どう急いでもここに来るまでに30分はかかります」
おそらくはそれが、サナエがここに来ない理由だろうとグレンも思った。もしも村人に怪しまれず公民館へ潜入できるとしたら、それは彼女しか考えられない。
「アタシが考えているのはただ一つ……」
グレンは棍の先をローズの顔に向けた。
「これがアンタの全力か?ってことだけよ」
「全力……ねぇ」
ローズが不敵な笑みを浮かべた。
「なかなかいい勘をしているわ、グレンバーン。あなたがここでなら全力を出せると考えてワタクシをここに誘導したのでしょうが、その実、ここなら本気を出せるのはワタクシも同じですのよ」
その言葉と同時に、ヒスイローズの認識阻害魔法が消えた。つまり、人間の姿を捨て、彼女もまた醜い蔦人間に変わったのである。足元の蔦を川の中に広げていく。しかし、それはグレンを攻撃するためではなかった。水を吸収するためである。
「植物と水……この世にこれほど相性のいいものはありませんわ!」
彼女の体が筋肉質に膨らみ、膨張していく。やがてグレンの目の前に、身長2メートルを超える緑色の巨人が出現した。グレンは吐き捨てるように言った。
「悪の怪人が追いつめられて巨大化なんて、負けパターンの筆頭みたいなものじゃない」
「ヒーロー番組の見すぎですわ、グレン」
そういう声まで野太くなっている。
「それがアンタの全力ってわけ?」
「さぁ、どうかしら?それよりも、あなたが全力を出せるか心配したほうがよろしくてよ?植物としてのワタクシの勘が告げていますの。もう間もなく降ってくる、と」
「あ?」
グレンは頬に冷たい物を感じて空を見上げた。雨だ。今まで沈黙を保っていた曇天が、ここにきて急に雨を降らし始めたのだ。降水確率50%の賭けに負けてしまった事を悟る。
(まずい!)
雨は徐々に勢いを増していく。当然ながらそのような天候が続けば、グレンの炎はそのパワーを失うだろう。となれば、短期決戦をしかけなければ、ローズは倒せない。
「おらあっ!!」
グレンは槍投げよろしく炎の棍を投げつけた。緑の巨人と化したローズは、苦もなくそれを払いのける。グレンにとって残念ながら動きも速い。しかし、その動きのせいで体の正面ががら空きになった。
「隙あり!!」
グレンがローズのみぞおちに右正拳突きを叩き込んだ。ローズの動きが止まる。だが、まもなく右ラリアットがグレンを吹き飛ばす。ローズが叫んだ。
「効きませんわ!」
グレンの体は、小さなクレーターができるほど、コンクリート製の堤防に叩きつけられた。だが、グレンの闘志はくじけていない。すぐさま手刀に炎をまとい、貫くようにまっすぐローズの顔へ突き出す。右腕でガードしたローズの肉体に手刀が突き刺さり、そこからぶくぶくと泡をたてて水分が蒸発した。だが、ローズは足元の川から、あるいは今も空から降ってくる雨から、いくらでも水分を摂取してグレンの炎に耐えることができた。問題なのはグレンの方だ。天地の水が、グレンのパワーをどんどん奪い去っていく。
「観念なさい!」
ローズの左フックが宙を切る。身をかがめてかわしていたグレンは逆に下段回し蹴りでローズの足を狩り倒そうとした。だが、ローズの足は根でも生えているかのようにビクともしない。あるいは本当に根が生えているのかもしれない。
「無駄だと言いますの!」
ローズが上段からのハンマーパンチでグレンを叩き伏せる。うつ伏せに倒れたグレンを無造作につかむと、まるでボロ布のように水面に投げつけた。
(コイツは……強い……!)
雨のせいで本来の力を発揮できないのはたしかだが、もしも万全の状態で戦えても、この巨人化したローズを焼き尽くすのは不可能ではないかとグレンは思った。満身創痍のグレンがそれでも立ち上がろうとするが、体に力が入らない。
「耳鳴りとか……しないわよね……?」
「はぁ?とうとう頭がおかしくなりましたの?」
デジャブなのだ。蜘蛛の魔女に、同じように痛めつけられていた時に、彼女は現れた。本当の意味での暗闇姉妹、トコヤミサイレンスが、である。だが、彼女はいない。前兆とも言える耳鳴りも聞こえない。助けてくれるなら早く来てほしいとグレンは願った。そんな彼女の願望など知る由もないローズは、彼女に止めを刺そうとする。
「もはやあなたと同化できる望みが無いのであれば、ここで死んでいただきます。さようなら、グレンバーン」
ローズがグレンの首を片手で掴み、持ち上げる。指が喉に食い込み、気道と血管を圧迫していった。まずは、目が見えなくなってきた。そして、意識が遠のいていく。そういえば、人間は死ぬ時に、最後に残るのは聴力らしい。そんなつまらない雑学をグレンが思い出した時、たしかに水面を誰かが走る音を聞いたのだ。やがて、ガラスが砕け散る音が聞こえる。
「はぁ!?」
ローズの握力がわずかに緩み、グレンは視力が回復した。何か黒い影がローズの周りを走り回って、彼女を翻弄している。
ツグミだ。戦いの騒ぎに気づいて駆けつけてきたのだろう。その顔に浮かんでいるのは氷の表情ではない。人間として、確固たる決意に満ちた顔をローズに向け、彼女の顔目掛けて2本目の瓶を投げつける。中身はもちろん、昨晩詰めておいた灯油だ。ローズは腕でガードしたが、割れた瓶から灯油が飛散した。
「またですの!?ツグミさん!!」
ツグミから灯油瓶を叩きつけられて上半身が灯油にまみれになったローズは、自由な方の片手で川底の小石を鷲掴みにし、ツグミに向かって投げつける。猟銃から発射された散弾のように小石がツグミに襲いかかるが、その直前にはツグミもまた竹筒をローズに向け、狙いを定めていた。
「その手を離せ!!このアバズレ!!」
小石がツグミにぶつかるのと、ツグミが持つ竹鉄砲が火を吹いたのは同時だった。ジュンコ特製のその武器から発射された弾丸が、火薬の燃焼エネルギーで灯油を発火させる。
「あああああああああ!?」
ローズと、彼女に掴まれていたグレンの体が炎上した。悲鳴をあげるローズは思わずグレンの首から手を離す。グレンは無言で水面に落下し、ローズは浅い水深の川をのたうち回って体から火を消そうとした。もっとも、雨はまだ降り続いているのである。体の炎上はすぐに収まった。驚きはしたが、たいしたダメージはない。見ると、ツグミは仰向けに倒れていた。散弾の一つが頭に当たったらしく、そこから血を流して気絶している。
「あなたという人は、二度までも……!」
ローズはツグミを殺すべく、倒れている彼女に迫った。
「待ちなさいよ」
「!」
ローズが声の方へ振り向くと、グレンバーンが立っていた。そう、たしかな足取りで、彼女がそこに立ち上がっているのである。
「アンタの相手は、このアタシでしょ?」
「……ふふ、なるほど」
ローズが嗤う。
「さきほどの炎を吸収して回復したというわけですか。ですが、何も状況は改善していませんわ。あなたはワタクシには勝てない。わかりきっているでしょう?」
「ハングリーさが……」
「はい?」
「さっきはそれが足りなかったのよ。ハングリーさが足りなかった。心のどこかで、誰かが助けに来てくれると思っていた。アタシの心に足りなかったのよ。飢えた獣のような心が……」
「なにをぶつくさとわけのわからないことを」
ローズが再びグレンの首を締めようと右手を伸ばす。その手が近づいた瞬間、グレンはさっと、両掌を自分の方へ向けて、それで顔を隠すような動作をした。
「痛っ!えっ!?」
鋭い痛みと同時に、ローズの手首から血が吹き出した。蔦人間の流す血の色は、緑色である。2つできた傷口を観察すると、鋭い刃物で斬られたように、手首の腱を切断されていた。これではもう、手を握ることができない。
「何なの……!?あなたが刃物を振ったようには見えませんでしたわ!このかまいたちで斬られたような傷は、一体何ですの!?」
思わず後ずさりするローズに、グレンが歩いて迫る。
「獣は、いつだって飢えてなくっちゃあいけない。誰に頼ることなく、自分の牙を研ぎ澄まさてなくっちゃあいけないのよ」
「牙……?」
「そして……その牙で獲物を狩る!」
グレンは再び、今度は右の二の腕で自分の顔を隠すような動作をした。すると今度は、ローズの右の二の腕から血が吹き出る。
「っ!?っ!?」
ローズは恐怖の表情を浮かべた。何をされたのかまったくわからないのだ。グレンは炎の魔法を使っているように見えなかった。彼女の体は雨に濡れて、体中から水滴を滴らしている。グレンは倒れているツグミに顔を向けた。
「ありがとう、ツグミちゃん。あとは……アタシがこいつを倒すから……」
「な、なんなのよ、あなた!?本当にグレンバーンなの!?」
グレンは、さきほどのツグミと同じ表情をしていた。確固たる決意に満ちた顔をローズに向けて、彼女が応える。
「ちがうわ」
「はぁ!?」
「アタシは、閃光少女のグレンバーンじゃない」
「だったら、あなたは一体……」
グレンは瞑目し、呼吸を整えた。やがて目を開き、その問いに答える。
「天罰代行、暗闇姉妹」
「!」
戦慄するローズに対し、グレンはおもむろに腕を直角に曲げて、自分の体の前に構えた。グレンが拳を握り締めると、肘の先から赤く輝くダガーのような刃が飛び出す。炎の結界を肘の先端に一極集中させて作ったその牙は、まるで鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていた。
「アンタに殺された人たちのうらみは、アタシの牙で晴らす!」




