人間にさようなら
悪魔と化したアキホが、飛ぶ。しかし、他ならぬアキホ自身がそれに違和感をおぼえ、徐々に高度が落ちていった。飛べる能力があろうと、その能力に疑問を持てば飛べる道理はない。アキホは今もそうやって、悪魔と人間の境界をさまよっているのだ。
(なぜ?どうして、ワタシは……?)
アキホが舞い降りたのは、教会の屋根であった。中庭に女性たちが集まり、讃美歌を歌っている。どうやら、ミサが終わった後に、こうして集まって練習するのが彼女たちの習慣らしい。
(きれいな……声が)
アキホがそう思いながら目を細めていると、強い殺気を感じて体が硬直した。アモーレにいた時に感じた殺気と同じものだ。だからこそアキホはアモーレを飛び出してしまったというのに、殺気の主は彼女を追いかけてきたらしい。
アキホが横を見ると、自分と同じように、一人の少女が屋根の上に立っていた。真紅のドレスを身にまとい、それと不釣り合いな無骨な籠手を装着した、長身の魔法少女。閃光少女グレンバーンは、吐き捨てるように言った。
「悪魔のくせに讃美歌を聴いているなんて……気持ち悪い」
グレンの視線が、アキホが抱えるシロウの遺体を捉える。
「あんたが殺したのね……なんてことを!」
(ワタシが、コロした……?)
アキホがハッとして教会の中庭を見下ろす。歌っていた女性たちは屋根の上にいる二人に気がついたのだ。讃美歌の練習をやめ、アキホに恐れながら室内へと避難する。アキホの怒りの矛先は、グレンバーンへ向けられた。もっとも、怒りを抱いているのはグレンも同じ。
「ゆるさん!!」
「ワアアアアアッ!!」
シロウの体を離したアキホが、グレンバーンへと飛びかかる。不安定な屋根の上に立つグレンバーンよりも、背中の翼で自由に飛べるアキホの方が、一見有利に見える。だが、結局アキホは、グレンに近づかなければ攻撃できないのだ。近接戦闘の経験は、グレンの方が何枚も上手である。
「おらあっ!!」
「ギャッ!?」
グレンの正拳突きが、アキホの顔面に突き刺さった。アキホは吹き飛ばされながらも、空中で体勢を立て直す。
「やはり、浅いか……!」
そうつぶやいたグレンは、炎の魔法を使っていない。木造の教会に放火する失敗を犯したくないグレンなのだ。
「ヒヤアアアアッ!!」
「おらあっ!!」
「ッガッ!?」
アキホは何度もグレンに襲いかかるが、そのたびにグレンに正拳突きで迎撃された。まるで足に根が生えたように、不安定な屋根の上でもグレンが強い突きを打てるのには秘密がある。三戦立ち。一見内股の気の弱そうなこの歩法は、一説によれば揺れる船の上で戦うために生み出されたという。盤石の構えを持って迎え撃つグレンを、アキホが打ち破れる道理はなかった。
そうしてピンボールのようにアキホが弾き飛ばされ続ける状況が終わりを告げたのは、アキホが突如反転し、シロウの遺体へ向かって突進した時だった。
(あいつ!子どもの肉を……!)
捕食して、体力を回復させるつもりだ。そう判断したグレンは、すぐさま屋根を蹴って跳躍する。
アキホの思いは別にあった。シロウの体が、屋根から落ちそうになっていたのだ。ズリ落ちるシロウの体を抱いたアキホは、そのままシロウの体ごと中庭へ落下する。
「キャウッ!?」
アキホの背後に、貫手を構え、跳躍するグレンが迫る。アキホがシロウの体を庇った瞬間、グレンが地響きをたててアキホのそばに着地した。
だが、どういうわけかグレンは、貫手でアキホを突かなかった。震える指先が、アキホをえぐる寸前で止まっている。アキホが怯えた表情で見上げるグレンの顔は、どこか悲しそうだった。
「……くっ!」
グレンが再び腕を引いて構える。だが、再び放たれた貫手も、シロウを庇う仕草をする、アキホの体には届かなかった。アキホとグレンの間に、沈黙が流れる。
やがてアキホがシロウの体を抱えて飛び立とうとした時、グレンはゆっくりと首を横に振った。
「……ダメよ。その子と……あんたは住む世界が違ってしまったの……」
「…………」
その言葉が届いたのか、アキホはそっとシロウの体を地面に置き、長い泣き声のような奇声を発して飛び去った。悪魔を見逃す。グレンバーン自身にとっても、これは異例なことだ。
「教会の方ですか?」
グレンは、近づいてきた修道服の女性にそう尋ねる。返事を聞く前に、グレンはシロウに視線を落とした。
「この子の供養をお願いします」
「供養って……うちはカトリックなのですが……」
グレンが奥歯をギリリと噛む。
「死んだ人間に、神も仏もあるものか!!」
「ヒッ!?」
怯えるシスターをよそ目に、不機嫌な大股でグレンはその場を後にした。
やがて、空から雨が降ってきた。12月の、まだ雪にはなりきれない雨は、冷たい。
それから間もなくの事であった。
アキホが『パパ』と呼んでいた男は、上機嫌で高級車を運転していた。男が考えていたのは、チドリのことだ。
(もうすぐ彼女が僕の『娘』になる!)
男は考えるのだ。チドリに、どんな服を着せようか?
さらに男は考える。チドリと、どんな体位で体を重ねようか?と。
男はチドリとの初めてのデートに、ナポリタンが美味しいイタリア料理店に行こうと思った。そして、ちょうど今はお昼時。空腹を覚えた男は、視察もかねてその店を訪ねることにした。
「…………雨か」
男の車が、赤信号を灯す交差点で止まる。徐々に強くなる雨に対して、男がワイパーのスイッチを入れた時であった。暗くなった空から、何かが砲弾のように飛んでくる。
「うわあああああああっ!?」
それはアキホであった。『パパ』の車の特徴を忘れる彼女ではない。
「ウルガアアアアアッ!!」
アキホが車の屋根に突進して凹ませる。アキホはそのまま車に張りつき、右手の爪を屋根に突き刺した。
「ひいいっ!?」
かろうじてそれを躱した男は、思わずアクセルを全開にする。信号無視をする男の車は、右から走ってきた軽トラックの側面に衝突し、アキホはその衝撃で車の前方へと投げ出された。
「おいゴラァ!!なんてことしやがる!?こっちが青信号だぞ!?」
そう怒りながら降りる軽トラックドライバーの言い分はもっともであるが、アキホの『パパ』はそれどころではない。
「うるさい!そんなボロ車の一台くらい、いくらでも買ってやる!それより……悪魔だ!僕を狙う悪魔が……!」
軽トラックドライバーはさらに何かを言いかけたが、急に口を閉じ、青い顔をしてその場を走り去る。
「ルーーウーーゥウーー」
(歌?)
男はそんな声を耳にして振り返る。悪魔がいる。紫色の肌をし、頭から山羊の角を生やした人間などいない。だが、その悪魔の女性らしい形を見た男はこう漏らした。
「アキホ……なのか!?」
「パ……パ……」
「そ、そうか!アキホなのか!」
悪魔に狙われ、絶体絶命かと思った男に希望が戻る。
「ど、どうした?そんな格好じゃ寒いだろ?ほら、傘を……」
男は震える手で折りたたみ傘を取り出し、アキホを刺激しないように、ゆっくりと開いた。
「さ、ほら。これを持って」
「ウー?」
アキホが、まだ人間らしい左手で傘を受け取る。アキホは、まるで初めて見たかのように、興味深そうに傘を観察した。男はその隙に、大事なデータが入ったノートパソコンを、なるべく雨がかからないように、自分の胸に抱えこむ。
「そ、それじゃあ、アキホ!パパはちょっと用事があるから、これで失礼するよ!また今度ゆっくり話をしよう……!」
そうやって逃げようとした男であったが、そのノートパソコンを見た途端、アキホの目の色が変わった。
「ゲアアアアッ!!」
「ぎゃあああああああああああ!!」
アキホの右手の爪が、ノートパソコンごと男の胸を貫いた。爪をゆっくりと引き抜いたアキホが、太陽の見えない空を見上げる。
(これで……チドリちゃんが安心して生きていける……でも、ワタシはもうダメ……もしも生まれ変わることがあったなら、ワタシも……あなたのような、天使みたいな子に……)
しかし、安心は時に気の緩みを生む。
(あれ……?でも……ワタシって、なに……?)
やがて緑川アキホは、緑川アキホではなくなった。




