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いい人にさようなら

 アキホが『パパ』の後ろをついて歩き、たどり着いたのは駅の地下駐車場である。一台の高級車に男が乗り込むと、アキホも慣れた様子で助手席に乗った。


「あっ、今日はホテルには行かないでほしいんです」


 男が車のエンジンをかけた瞬間、すぐさまアキホはそう言った。今日はお別れのために会ったのである。これ以上一緒に寝る気は無いし、無駄なホテル代を使わせてしまったら、話がこじれかねない。


「そうか。じゃあ、ここで話をしようか……」


 アキホがホテル行きを拒否したことから、男も薄々、なぜアキホが自分を呼んだのか察しつつある。


 しばらく沈黙していたアキホであったが、やがて意を決して『パパ』に話し始めた。


「ごめんなさい……私、パパと別れたいんです」

「……そうか」


 男がため息をつく。


「いつか、こういう日が来るとは思っていたよ。アキホも、もうすぐ受験生だし」

「本当に、ごめんなさい。今まで、良くしてくれたのに……」

「お金のことなら、気にしなくていい。僕が、君が好きだったからやったことだ」


 チドリが心配していた、お金の返還を『パパ』が要求しなかったことにアキホは安堵する。とはいえ、それについてアキホは最初からあまり心配はしていない。


(本当に、いい人だった)


 アキホは今でもそう思っている。もしも自分が大人としてこの男性と会えていたなら、どれだけ良かったか。そう思うと、アキホは切ない。あまりにもワガママだと思うが、『パパ』には自分との別れをもっと悲しんでほしいとも思う。そんなアキホは、ついこう口走った。


「他に、好きな男の子ができたんです」

「そう……なのか?……ははは」


 こういう言い方は『パパ』を傷つけただろうか?そう心配したアキホは、男の顔に目を向ける。男は、どこか安堵したような顔をしていた。


「それはすごく自然なことだよ。僕に遠慮なんかする必要はない。それに……もしかしたらアキホもさみしいんじゃないかと心配したけれど、それなら安心だ」

「それじゃあ」

「うん。僕たち、これで別れよう」

「ありがとうございます……!」


 そう感謝するアキホは、車のドアノブに手をかけようとする。だが、突如として全てのドアがロックされた。


「えっ?」

「アキホ。ちょっと見てほしいものがある」


 男はカバンからノートパソコンを取り出す。電源を入れ、表示された画面を目にしたアキホは言葉を失った。


(これって……!?)


 再生されたのは、『パパ』と体を重ねるアキホの映像だ。音声はミュートになっているが、『パパ』はその気になれば、アキホの声を鳴らすこともできる。


「やめてください!どうして、こんな映像が……!?」

「思い出にしようと思ってね。カメラで残しておいたんだよ。アキホはカメラに気づいてなかったみたいだけれど」


 要するに隠し撮りの映像だ。男がそのビデオを閉じると、日付だけが書かれたファイルが複数あるのをアキホは目にする。男に説明されるまでもなく、それが逢瀬のあった日であることはアキホにはすぐにわかった。


「そんな……」

「アキホも、もうすぐ受験生だねぇ」


 男がその言葉を繰り返す。


「こういう映像が……例えば、アキホの通う中学校の先生が、()()見てしまったら……たいへんな事になるかもしれない。それは、困るよね?」

「……何が望みなんですか?」


 そうアキホは尋ねてみるが、ハッキリ言って検討がつかない。自分と別れることに対して、未練は無さそうだった。それとも、やはりお金を返してほしいのだろうか?悩むアキホに、男が告げる。


「君の友だちを紹介してほしいんだ」

「私の友だち?」

「ほら。チドリちゃん……って言ってただろう?」


 アキホの指先が、一気に冷たくなる。


「チドリちゃんを巻き込まないでください……!私で良ければ、いくらでも……!」

「正直に言うと、少し君にも飽きてきたところだったんだ。ちょうどいい。君は、君の好きな男の子とうまくやりなよ。僕はチドリちゃんと、新しい愛を育むことにするから」

「私が断ったら……?」

「僕としては、そうならない事を祈っているよ。君のためにも、ね」


 アキホは頭の中が真っ白になった。


「アモーレまで送ろうか?」

「……いいえ」


 アキホがやっとそれだけを口にしたことで、ついに車のドアロックが外れた。


 そこから先、アキホはどうやって自分がアモーレまで帰ったのか憶えていない。無言で玄関のドアを開けると、待っていたシロウが彼女に声をかけた。


「おかえり、アキホ姉ちゃん」

「…………」

「アキホ姉ちゃん?」

「え?あ!ただいま」

「どうしたんだよ」


 シロウが怪訝そうな表情でアキホに尋ねる。


「例の男は?」

「別れてきた」

「なら、良かったじゃないか。嬉しくないのかよ?」

「…………」

「それとも、何か酷いことでも言われたのか?もしそうなら、俺がそいつを殴……」

「なんでもないわよ!」


 アキホが怒鳴ったことで、シロウは言葉を失った。


「……ごめんなさい、シロウ君。私、ちょっと疲れたみたいで。一人になりたいの」

「……わかった」


『パパ』と何があったのか、シロウには話したくないアキホである。とぼとぼと自分の部屋まで歩くアキホの背中に、シロウが声をかけた。


「そういや今朝、アヤちゃんから電話があったぜ」


 それも、今のアキホの心の支えにはならなかった。閃光少女には解決できない問題なのだから。


 部屋で一人うなだれるアキホは、先ほどから同じ問いが頭の中を回っている。


(どうしよう……?どうしたらいいんだろう……?)


 男は、チドリをアキホの身代わりにするよう要求していた。アキホが悩んでいるのは、チドリがその要求を呑むかわからないからではない。絶対に要求を呑むと確信しているからである。そういう娘なのだ。おそらくチドリは笑顔で「わかった」というだろう。その笑顔は、アキホにとって自分の体を売るよりも苦痛なことだった。


(いっそ逃げようか?)


 あるいは、むしろ死んでしまいたい。だが、それが問題の解決になるわけではない。アキホのあられもないビデオは男の手にある。それをチドリにちらつかせれば、例えアキホが死んでいたとしても、チドリはアキホの名誉を守ろうとするはずだ。


(そして次は……アヤちゃん……!?)


 やがてチドリの隠し撮り映像を手に入れた男が、次にすることがアキホには容易に想像できた。アキホを脅したように、次はチドリにアヤを紹介・・させるに違いない。


(あの人は、いい人なんかじゃなかった……!人の皮を被ったケダモノ……死んでしまえばいいのに……!!)


 アキホは自分のカバンから、最後の一本として残っていた魔剤の瓶を取り出す。蓋を開けたアキホは、それを一気に飲み干した。今はその薬だけが、アキホに残された唯一の逃げ道だったのである。


 シロウはアキホを心配しつつも、昼食の準備をしているところだった。そんな彼の所へ走ってきたのは、シゲルという男児だ。


「シロウ兄ちゃん!」

「どうした?」

「ミサキの様子が変なんだ!すぐに来て!」

「ミサキが?」


 シゲルとミサキは、実の兄妹である。シゲルについて押入れのある部屋へと入ったシロウは、その閉じた押入れの前で悪戦苦闘しているタケシとハヤトを目にした。


「なにやってんだよ!?」

「ああ、シロウ!」


 振り向くタケシをよそに、ハヤトは引き続き押入れを開けようとしているが、中ではミサキが抵抗しているのだ。


「出てこいよ〜ミサキちゃん!ドーナツ食べちゃった事、怒ったりしないからよ〜!」

「え、ドーナツ」


 閉口するシロウの耳に、押入れ内にいるミサキの声が届く。


「ダメーっ!!開けちゃダメーっ!!」

「コラ!ミサキ!お兄ちゃんたちをそうやって困らせるんじゃあない!」

「ダメなものはダメなのーっ!!」


 ミサキはタケシの言葉を聞き入れるつもりがないらしい。そんな時だというのに、アモーレの固定電話が鳴り響く。


「なんだよ、こんな時に!?」

「あ、いいわよ」


 振り向いたシロウが目にしたのは、普段と変わらない様子のアキホであった。


「電話は私が出るから」

「え、あ、うん」


 先ほどとはまるで様子の違うアキホに違和感を覚えたのは、シロウただ一人であった。


「はい、もしもし。アモーレですが」

「あ!アキホちゃん!アヤだよ!」

「アヤちゃん?どうしたの?そういえば、今朝も私に電話してたって?」

「その……アキホちゃんのお父さんの事なんだけど……変な薬を飲んでなかった?」

「変な薬?さあ?どんな薬?」

「ごめん、見た目とかはわからない。だけど、飲むと気分がよくなる薬で……そもそも魔法少女が飲む薬だけど、普通の人間が飲み過ぎると悪魔に変わってしまう」

「それって……もしかして『魔剤』と呼ばれている?」

「そうそう!」


 アヤはそう元気よく返事したあと、表情を曇らせる。


「アキホちゃん、どうしてその名前を知っているの?」

「……遅かったのよ」

「えっ?」

「どうして……?なんで……?私が……私たちが何をしたと言うの……!?」


 アキホの右手から受話器が落ちた。その形状が、物を掴むには適していない形に変化したからである。紫色に変色し、鉤爪状に変化していく自分の右手を、アキホはただ見つめることしかできないのか。


 アヤは、電話の向こうでアキホの身に何が起こったのかを悟った。


「アキホちゃん!!アキホちゃん!!今すぐ子どもたちから離れて!!」


 アヤは電話に向かって必死にそう叫ぶが、返事はない。一度電話を切ったアヤは、すぐさま別の番号へかけ直した。


 とある、アパート。

 ベッドに横になって休んでいた鷲田アカネは、鳴り響く自分の携帯電話を自分の耳へ当てた。


「もしもし?……ええ、アタシだけど……アモーレ?孤児院に悪魔が出たですって!?……ええ、わかった。すぐに行く!……ところで、どうしてアタシの番号を知っているの、クマネコフラッシュ?」


 グレンバーンことアカネに電話をかけたクマネコフラッシュは、微笑みを浮かべる。


「そんなこと、悪魔が孤児院の子どもたちを襲っていることに比べたら些細なことじゃない?閃光少女の仕事は、悪魔を殺すこと。それが一番なんだから」


 そう言うとフラッシュは、アカネとの通話を切った。


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