ドーナツにいただきます
アモーレにある固定電話機の呼び出し音が鳴る。
受話器を持ち上げたのは結城シロウであった。
「もしもし、アモーレですが」
「おはよう!糸井アヤだよ!」
「ああ、アヤちゃんか」
「……」
シロウはチドリを「チドリ姉ちゃん」と呼び、アキホは「アキホ姉ちゃん」と呼ぶ。自分だけが「アヤちゃん」なことに何か引っかかるものを感じつつも、アヤはシロウに用件を伝えた。
「アキホちゃんはいないかな?ちょっと話があるんだけど」
「今はいない。チドリ姉ちゃんと出かけたんだ」
「あ、そっかー」
「帰ってきたら、電話があったことを伝えておく」
「うん、お願い」
アヤは緑川アキホに、彼女の父親が妙な薬を服用していなかったか聞きたかった。あてが外れたアヤは、ひとまず二度寝することにした。悠長なのは、アキホが魔剤を服用していることも、他ならぬユリがアモーレを狙っていることを知らないからである。
緑川アキホはというと、本郷チドリのバイクの後部座席に乗り、城南駅前まで送ってもらったところである。ヘルメットのバイザーを持ち上げたチドリは、後部座席から降りるアキホに改めて尋ねた。
「本当に、私が一緒じゃなくても大丈夫?」
「うん。一人で大丈夫だから」
アキホがここに来たのは、援助交際相手と会うためである。それは、援助交際を続けるためではない。終わらせるためだ。チドリは交際相手の男がどんな反応をするか心配なのである。逆上して、アキホに暴力をふるうのではないかと。
「そういうタイプの人じゃないから、安心して。それに、チドリちゃんはこれから仕事でしょ?帰りは、バスを使うから」
「わかった。でも、何かあったらすぐに電話してね。その……お金を返してくれって言われたら、30万円くらいは貯金があるから……私も、仕事の時間を増やしてもらうつもりだし、足りない分は、それで」
そう言い残して、チドリは駅前を後にした。アキホが援助交際などしなくていいように、チドリは精一杯働くつもりなのだ。
(ごめんなさい……でも、ありがとう。チドリちゃん)
心の中でそうつぶやくアキホの肩を、後ろから誰かが叩いた。振り向いた先にいたのは、アキホが『パパ』と呼ぶ男だ。
「おはよう、アキホ」
「パパ」
「さっきの子は?たまに一緒にいるのを見るね」
「アモーレの、本郷チドリさんです。私の恩人なんです」
「そっかぁ……それで、僕に話があるんだって?」
「はい」
「それなら、少し静かなところへ行こうか」
話がどういう流れになるにしろ、あまり他人には聞かれたくないのは、男もアキホも同じだ。アキホは黙って、男の後についていった。
場面は再びアモーレに戻る。
朝食後の食器を洗い終えたシロウは、椅子に腰かけて遠い目をした。今頃、アキホが『パパ』とやらに会って別れ話をすることになっているのは、チドリとシロウだけが知っていた。シロウは、他人を『パパ』呼ばわりするのは本当の父親に対して不義理であるからアキホにも腹が立つし、『パパ』と呼ばれるにふさわしくないスケベ男にも腹が立つ。アキホに同行して『パパ』の頭をゴルフクラブで殴ってやりたかったが、当然チドリが許可しなかった。一人残されたシロウは、秘密を抱えたまま待つことしかできない。
「おい、シロウ!」
「見ろよ、これ!」
アモーレでは同年代である、タケシとハヤトの二人にそう声をかけられたシロウが我に返った。
「なんだ?」
「じゃーん!」
ハヤトがうやうやしく、洋菓子店のロゴが入った箱を開いて見せる。甘い香りと共に姿を見せたのは、山盛りのドーナツであった。
「どうしたんだこれ?」
シロウの疑問はもっともである。
「さっき配達のお姉さんが届けてくれたんだ!」
「アヤちゃんからプレゼントだって!」
シロウが首をひねる。
「アヤちゃん?」
早くドーナツを食べたいタケシとハヤトは、そんなシロウをもどかしく思った。
「アヤちゃんといえば糸井アヤ!チドリ姉ちゃんの友だちのアヤちゃんだよ~!」
「嬉しいよな~!俺あの子好き!それじゃあ早速いただきま~……!」
「待てよ!!」
急に怒鳴るシロウに、タケシとハヤトが固まった。
「なんだよ、シロウ!?」
「俺は、今朝そのアヤちゃんと電話したんだぜ!ドーナツのことなんて、一言も無かった!」
そう言われたタケシとハヤトが顔を見合わせる。
「そう言われると変だな?」
「だけど、サプライズなのかも!俺たちを驚かせたかったんじゃないか、アヤちゃんは?」
「だがなぁ、ハヤト。だとしたら配達員がネタ晴らしするのか?」
「う~ん、そういやそうだな」
シロウがハヤトに尋ねる。
「その配達員って、どんな人だった?」
「背の高い女の人。肩幅が広くて……そうそう、この寒いのに半袖だったぜ」
そう聞いてみたところで、シロウには心当たりのないことであった。だが、やるべきことはわかっている。
「このドーナツは、食べちゃいけない」
「えーーっ!そんなーー!」
そう抗議するハヤトにシロウが説明する。
「アヤちゃんに、本当にアモーレにドーナツを配達させたか確認するんだ。もしも本当にそうなら、ドーナツをみんなで食べよう。でも、もしもそうでなかったら……!」
「このドーナツは食べられないのか……」
うなだれるハヤトの肩をタケシが叩いた。
「まあ、大丈夫だろ。たぶん、何か行き違いがあっただけさ。さあ、シロウ。アヤちゃんに早速電話して聞いてみてくれよ」
「それがダメなんだ」
「ダメ?」
アモーレの電話には、リダイヤル機能といった便利なものはなかった。シロウも、糸井家やアヤの携帯電話の番号は知らない。まず知っているとすれば、チドリである。
「だから、チドリ姉ちゃんが帰ってくるまで、このドーナツは隠しておいてくれよ。誰かが勝手に食べたりしないように……いいな?」
「ああ、わかった」
「仕方ねえなー」
誰にも見つからないようにドーナツを隠しておく。それもまたタケシとハヤトの二人ですることになった。
「ここなら、いいんじゃないか?」
「やれやれ。これが焼き菓子でよかったぜ。冷蔵庫に入れなきゃいけない物だったら、チビたちにすぐ見つかっちまうからな」
二人がドーナツを隠したのは、布団を片付けている押し入れの上段であった。当然、寝るために布団を出そうとしたら発見されるが、その時間ならばドーナツを食べてもいいという結論が出ているだろうと思ったからだ。
「さて、これでいい」
「脚立も片付けておこう。チビたちの足じゃあ、どう頑張っても押し入れの上段には足が届かないはずだ」
タケシとハヤトはそう話しながら、その部屋を後にした。だが、それをこっそりと覗いていた者がいる。
「…………」
アモーレでは最年少の、ミサキという女児だ。彼女は、タケシとハヤトが、屈強な女性配達員からドーナツの箱を受け取ったのも、偶然見ている。その後、どういう経緯でドーナツを隠すことになったのかはわからないが、この押し入れに箱ごと隠したのを、ミサキはバッチリ見張っていたというわけなのだ。
「お兄ちゃんたちだけでドーナツを食べようなんて、そうはいくもんですか!」
とはいえ、ミサキの身長では押し入れの上段には登れない。キョロキョロとあたりを見まわしたミサキは、やがて衣類の入った段ボール箱を引きずってきた。




